ハラスメント加害者がもつ「指導している」という勘違い
Aさんは中堅メーカーの営業部で課長を務めています。ある月曜日の朝礼で、部下のBさんが提出した資料に数字の誤りがありました。Aさんはその場でBさんを立たせ、他のメンバーが見ている前で十分近く叱責しました。声は次第に大きくなり、最後には「お前は本当に使えないな」という言葉まで飛び出しました。
朝礼が終わったあと、Bさんは青ざめた顔のまま自席に戻り、その日一日ほとんど口を開きませんでした。周囲のメンバーも、気まずさから誰もその話題に触れようとしませんでした。誰もが、あの叱責は行き過ぎていたと感じていました。しかし、それを口にする勇気を持つ人は、その場にはいませんでした。
一方のAさんはどうだったでしょうか。自席に戻ったAさんの頭の中にあったのは、反省ではありませんでした。「あれだけの誤りを他人の前に出されたら、誰だって腹が立つ」「自分は間違ったことは言っていない」「むしろ、あの場で正さなければBさんのためにならない」。そうした考えが、迷いなく次々と浮かんでいたのです。
この場面には、ハラスメントという現象の核心が凝縮されています。加害者の内側で何が起きているのかを理解しない限り、被害者は「なぜ相手は平然としていられるのか」という疑問の答えを、いつまでも見つけられないままになってしまいます。多くの被害者が口をそろえて口にするのは、殴られたような言葉そのものよりも、相手がまったく悪びれずに翌日から普段どおりに接してくることの方が、じわじわと自分を苦しめるという実感です。
普通の人に生まれる「迷い」という機能
多くの人は、感情的に誰かを叱った後、時間が経つにつれてふと我に返る瞬間があります。あの言い方はきつすぎたのではないか、人前でやる必要があったのか、相手はどう感じただろうか。こうした問いが、意識するとしないとにかかわらず、心のどこかに浮かんできます。
この「迷い」は、単なる優しさや性格の問題ではありません。自分の行動を、相手の視点から見直す機能そのものです。人は本来、自分の感情と相手の感情を切り離して認識する力を持っています。だからこそ、自分が正しいと感じた瞬間があったとしても、それとは別に「相手はどう受け止めたか」という視点を、後からでも呼び戻すことができるのです。
この機能が働くからこそ、多くの人は謝罪という行動を取ることができます。謝るという行為は、自分の正しさを一時的に脇に置き、相手の痛みを優先する作業です。迷いがあるからこそ、この作業が可能になります。逆に言えば、迷いが一切生まれない人にとって、謝罪は理屈のうえで不可能な行為になってしまいます。自分が正しいと確信しているのに、なぜ謝る必要があるのか。本人にとっては、これは至極自然な疑問なのです。
自己愛が強い人の内部で起きていること
異様に自己愛が強いハラスメント加害者になりやすい人の内面では、この迷いがほとんど発生しません。理由は、感情の処理される順序そのものが異なっているからです。
普通の人であれば、怒りという感情が生まれたあと、その怒りを検証する段階があります。本当にそれほど怒るべきことだったのか、自分の受け止め方に偏りはなかったか、という内省です。しかし自己愛が強い人の場合、怒りや不快感が生まれた瞬間、それはほぼ自動的に「正当な怒り」へと変換されてしまいます。検証の段階がまるごと欠落しているのです。
Aさんの内面で起きていたのも、まさにこの変換でした。Bさんの誤りを見た瞬間に生まれた苛立ちは、検証されることなく「これは正しい指導だ」という結論に直結しました。相手が悪い、相手のミスが自分を怒らせた、だから自分が声を荒げたのは当然の結果である。この一連の論理は、Aさんの中では疑う余地のない事実として完結していました。
この構造の恐ろしさは、本人にまったく悪意がない、あるいは悪意の自覚がないまま、相手を深く傷つける行動が正当化されてしまう点にあります。加害者自身は「自分は正しいことをした」と心から信じているため、罪悪感も反省も生まれようがありません。周囲から見れば明らかな暴言であっても、本人の中では単なる指導、あるいは正当な怒りの発露としてしか記憶されないのです。
この即時変換のメカニズムを、恥という感情の観点から見ると、さらに理解が深まります。人が自分の言動を振り返り、恥ずかしさや後悔を覚えるためには、一瞬であっても「自分にも非があったかもしれない」という可能性を受け入れる必要があります。ところが自己愛が強い人にとって、この可能性を受け入れることそのものが、耐えがたい苦痛として体験されます。自分に非があるかもしれないという発想は、自分の価値そのものが脅かされる感覚と直結してしまうのです。
そのため、脳内では意識される前の段階で、この苦痛を回避する処理が働きます。怒りという感情は、実は多くの場合、その奥にある恥や不安を覆い隠すための感情でもあります。相手を責める物語を瞬時に完成させることで、自分が抱えたはずの恥や不安を感じずに済む。これは本人にとって、意識的に選んだ戦略ではなく、ほとんど反射的に起動する防衛の仕組みです。だからこそ、いくら周囲が「言い過ぎではないか」と伝えても、加害者本人にはその指摘がまったく届かないという現象が起こります。指摘そのものが、また新たな脅威として処理され、「自分を理解してくれない人たち」という、さらに強固な物語を生み出してしまうことすらあるのです。
なぜ「相手が悪い」という物語が完成してしまうのか
この心理の背景には、自己評価を守ろうとする強い働きがあります。自己愛が強い人にとって、自分が誤った判断をした、感情的になりすぎた、という事実を認めることは、自己イメージを揺るがす重大な脅威です。そのため、無意識のうちに、自分を守るための物語がすぐさま組み立てられます。
その物語の主人公は常に自分であり、自分は常に正当な理由があって行動した被害者側として位置づけられます。Bさんがミスをした、Bさんの態度が悪かった、だから自分が声を荒げるのは仕方のないことだった。この物語が一度完成してしまうと、それを疑う視点そのものが生まれなくなります。迷いが生まれないのではなく、迷いを生む材料そのものが、物語の完成と同時に消え去ってしまうのです。
さらに厄介なのは、この物語が周囲から見ても一見筋が通っているように聞こえる場合があることです。「確かにBさんのミスは事実だった」という部分だけを切り取れば、Aさんの言い分にも一理あるように見えてしまいます。しかし、ミスを指摘することと、人前で人格を否定するような言葉を投げつけることの間には、大きな距離があります。ハラスメント加害者の物語は、この距離を巧みに覆い隠してしまうのです。事実の一部が本当であることが、行為全体の正当化に利用されてしまう。これが、この種の物語が周囲を巻き込みやすい理由でもあります。
学校の職員室でも、同じことが起きている
職場いじめは民間企業だけの問題ではありません。学校の職員室でも、まったく同じ構図が繰り返されています。ある学年主任のEさんは、若手教師のFさんが授業準備で提出した指導案について、職員室の全員が聞こえる声で「こんな内容で授業ができると思っているのか」と繰り返し指摘しました。Fさんは涙をこらえながら、その場に立ち続けるしかありませんでした。
Eさんにとって、この場面は「後進の指導」という位置づけでした。指導案の不備という事実がある以上、厳しく指摘するのは学年主任としての責任だ、という理屈です。実際、Eさんが職員室で他の教師にこの出来事を語るとき、そこには一切の迷いがありませんでした。「あそこまで言わないと伝わらない人だから」という言葉さえ、Eさんの口からは自然に出てきました。
教育の現場では特に、指導という言葉が、行き過ぎた叱責を覆い隠す便利な看板になりがちです。指導のためだった、成長のためだった、というフレーズは、それ自体は否定しづらい正当性を持っています。だからこそ、ハラスメント加害者はこの言葉を無自覚に使い、自分の行為を検証する必要のないものとして処理してしまうのです。管理職や主任という立場が加われば、なおさらこの傾向は強まります。指導する側という役割そのものが、行為を疑わずに済むための後ろ盾になってしまうからです。
自己愛の強さは、必ずしも派手な自己顕示として現れるわけではありません。むしろ、AさんやEさんのように、真面目で責任感が強いと評価されている人ほど、この構造に陥りやすい側面があります。自分は誰よりも真剣に仕事に向き合っている、だからこそ厳しく指摘する権利があるのだ、という確信が、迷いをさらに遠ざけてしまうのです。
周囲の沈黙が、加害者の物語をさらに強化する
もう一つ見落とされがちなのは、周囲の沈黙が加害者の物語を裏づけてしまう働きです。AさんやEさんの叱責を見ていた同僚たちは、内心では行き過ぎだと感じながらも、それを言葉にしませんでした。この沈黙は、加害者にとって「誰からも異論が出なかった」という事実として記憶されます。
異論が出ないということは、少なくとも加害者本人の解釈の中では、自分の行動が周囲からも承認されたことを意味してしまいます。こうして、加害者の物語は本人の内面だけでなく、周囲の反応によっても、繰り返し補強されていくのです。被害者だけがひとり、出来事の重さを抱え続けることになります。
周囲が沈黙する理由は、必ずしも冷淡さからではありません。多くの場合、次に自分が標的になることへの恐れや、自分には関係のないことだという線引き、あるいはどう声をかけていいか分からないという戸惑いが背景にあります。しかし、結果として見れば、この沈黙は加害者の物語を補強する働きをしてしまいます。組織の中でハラスメントが繰り返される背景には、加害者個人の資質だけでなく、この沈黙の構造そのものが存在していることを、理解しておく必要があります。
被害を受けた側が知っておくべきこと
Bさんのような立場に置かれた人にとって、最も苦しいのは、相手が反省している気配をまったく感じられないことです。自分がこれほど傷ついているのに、相手はまるで何事もなかったかのように振る舞う。この落差が、被害者にさらなる孤立感を与えます。
しかし、ここで理解しておいていただきたいのは、相手に迷いが生まれないことと、自分の受けた傷が正当なものであることは、まったく別の問題だということです。加害者の内面でどのような物語が完成していようと、大声で人格を否定された事実、人前で恥をかかされた事実は、それ自体として重大な人権侵害です。相手が反省するかどうかを基準に、自分の傷の重さを測る必要はありません。
また、加害者が変わることを期待して、相手の反省を待ち続けることも避けたほうがよいでしょう。自己愛の強さゆえに迷いが生まれない構造は、一度や二度の指摘で変化するものではありません。多くの場合、変わるべきなのは加害者の内面ではなく、被害者と加害者の間の距離や関係性そのものです。相手が変わることに希望を託すよりも、自分自身がどのような距離を取るか、どこに相談するかを考えるほうが、はるかに現実的な一歩になります。
これは、相手を許さなくてよい、という意味でもあります。多くの被害者は、心のどこかで「自分がもう少し寛容になれば、相手も変わってくれるのではないか」と考えてしまいます。しかし、相手の内面に迷いを生む機能そのものが働いていない以上、被害者側の寛容さが、加害者の変化を引き出すことはほとんどありません。むしろ、被害者が我慢を重ねるほど、加害者の中では「この程度は許容される範囲だ」という認識がさらに強まってしまうことすらあります。自分を守るという選択は、決して逃げでも弱さでもなく、この構造を正しく理解した上での、きわめて合理的な判断なのです。
今日できること
Aさんのケースが教えてくれるのは、加害者の中に反省の兆しが見えないとき、それは被害者の受け止め方が間違っているからではなく、加害者の内面で怒りが検証なしに正義へと変換されてしまっているからだ、という事実です。この構造を知っておくだけでも、「なぜ相手は平気な顔をしていられるのか」という長年の疑問に、一つの答えを持つことができます。
もし今、あなたが誰かの言葉や態度によって深く傷つき、それでも相手からは謝罪も反省の言葉もないという状況にいるなら、今日できる最小限の行動は、その出来事をノートやメモに客観的な事実として書き出してみることです。「何月何日、どのような言葉を、どのような状況で言われたか」。感情の評価を交えず、事実だけを記録してください。
この記録は、後になって自分の記憶が揺らいだときの支えになります。相手が悪びれもせず振る舞う姿を見るたびに、「自分の受け止め方がおかしいのではないか」という不安が生まれることがあります。そのようなとき、事実として書き残された記録が、自分の感じた痛みが確かに存在したことを、静かに証明してくれるはずです。
加害者の物語がどれほど固く完成していても、それはあなたの痛みが本物であることを否定する力を持ちません。相手の中に迷いが生まれる日を、あなたが待つ必要は少しもないのです。まずは事実を静かに書き留めることから、自分自身のための一歩を始めてください。
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