パワハラ・モラハラ加害者に誠実さを搾取されないために〜「言葉」ではなく「行動」を見る〜
中学校教師のAさんは、同じ学年を組む先輩教員から、これまでに何度も、心無い言葉を向けられてきました。職員室での「Aさんの学級経営、去年より下手になったんじゃない」という一言に始まり、保護者対応の記録をAさんに無断で書き換えられていたこともありました。そのたびにAさんが指摘すると、先輩は決まって「誤解だよ、悪気はなかった」「もうこういうことはしないから」と、静かな声で謝罪の言葉を口にしました。
Aさんは、その言葉を信じることにしていました。誠実に謝られれば、誠実に受け止める。それがAさんの、教員としての信条でもありました。しかし、しばらくすると、また同じようなことが起きます。今度は、Aさんが作成した授業資料が、先輩の名前で職員会議に提出されていました。指摘すると、また「誤解だよ」「悪気はなかった」という、まったく同じ言葉が返ってきました。三度目の「もうしません」を聞いたとき、Aさんはふと、あることに気づきました。この人は、言葉では毎回謝っているけれど、行動は一度も変わっていない、と。
思い返せば、最初の一件のとき、Aさんは、先輩の謝罪をそのまま受け入れ、何の記録も残していませんでした。二件目のときも、証拠として書き換え前のデータを残してはいたものの、先輩の謝罪の言葉を聞いて、深く追及することはしませんでした。しかし三件目が起きたとき、Aさんの頭のなかに、それまでとは、はっきりと違う感覚が浮かびました。それは怒りというより、むしろ、静かな驚きに近いものでした。自分は、これまで、いったい何度、同じパターンに、同じように、律儀に心を動かされてきたのだろう、という驚きです。
言葉と行動が、これほど食い違い続けているにもかかわらず、なぜ自分は、そのたびに言葉のほうを信じてしまっていたのだろう。Aさんは、その問いを抱えながら、少しずつ、自分の判断基準そのものを見直していくことになります。今日は、この「言葉ではなく行動を見る」という視点について、事例を交えながら、深く考えていきたいと思います。誠実であろうとする人ほど、この視点を持つことは簡単ではありません。だからこそ、あらかじめ知っておく価値があるのです。
言葉は、実行の裏付けなしに発せられる
「もうしない」「誤解だった」「次は気をつける」。これらの言葉には、共通する特徴があります。発するために、何のコストもかからないという点です。実際に行動を変える必要はなく、ただ口にするだけで、その場の空気を和らげることができてしまいます。誠実な謝罪の言葉であれば、そのあとに、実際の行動の変化が伴うはずです。
しかし、繰り返し同じ問題行動を取る人にとって、謝罪の言葉は、行動を変えるための起点ではなく、その場をやり過ごすための、手軽な道具になっていることが少なくありません。
Aさんの先輩にとって、「誤解だよ」「もうしないから」という言葉は、Aさんとの関係を一時的に修復するための、いわば定型文のようなものになっていたと考えられます。言葉を発した瞬間に、相手の追及がやみ、その場の緊張がほどける。
この経験を何度も重ねるうちに、言葉そのものが持つ本来の重みは、少しずつ失われていきます。謝罪という行為が、内省や改善の入り口ではなく、単に相手を黙らせるための、便利な合図になってしまうのです。
この現象は、職員室に限らず、あらゆる職場で見られるものです。謝罪の言葉が、実際の行動の変化を伴わないまま、何度も繰り返される場合、そこにあるのは反省ではなく、いわば「その場しのぎの技術」です。技術という言葉を使うのは、決して大げさではありません。
相手がどのタイミングで、どのような表情で、どのような言葉を口にすれば、追及の手が緩むのかを、経験のなかで学び取り、無意識のうちに使いこなしている場合すらあるからです。謝罪の言葉が驚くほど滑らかで、迷いなく、よどみなく口をついて出てくる人ほど、実はこの技術が、すでに深く身についてしまっている可能性を、疑ってみる価値があります。
誠実な人は相手の言葉を信じようとする
なぜAさんは、何度も同じ言葉に、繰り返し心を動かされてしまったのでしょうか。その理由の一つは、Aさん自身が、誠実であろうとする人だったからです。誠実な人は、自分が発する言葉と、自分の行動を、常に一致させようと努めています。だからこそ、相手が口にする言葉も、行動と一致しているはずだという前提で、無意識のうちに受け止めてしまいます。自分の物差しを、そのまま相手にも当てはめてしまうのです。
これは、決して弱さではありません。むしろ、他者を信じようとする力があるからこそ、成立する態度です。しかし、相手が言葉と行動を一致させるつもりのない人物であった場合、この誠実さは、そのまま相手につけ込まれる隙になってしまいます。誠実な人ほど、「今度こそ本当に変わってくれるかもしれない」という期待を、何度でも新しく持ち直してしまう傾向があります。この期待の持ち直しこそが、繰り返される裏切りを、なかなか手放せない理由になっているのです。
さらに、誠実な人は、相手を疑うこと自体に、抵抗を感じやすい傾向もあります。根拠なく相手を疑うのは、自分の側にこそ問題があるのではないか、自分は人を信じられない冷たい人間なのではないか、という感覚が、無意識のうちに働いてしまうのです。
しかしここで見落とされているのは、疑うことと、事実を確認することは、まったく別の行為だという点です。相手の人格そのものを否定するのではなく、これまでに何が起きたかという事実を、冷静に積み上げていくこと。これは、決して冷たい態度ではなく、自分自身を守るために欠かせない、公正な視点です。
疑うという言葉には、根拠のない不信感を相手に向けるという、どこかネガティブな響きがあります。しかし、これまでに実際に起きた出来事を、時系列に沿って並べて確認するという行為には、そうした感情的な色合いはありません。それは、裁判官が判決を下す前に、提出された証拠を淡々と検討するのと同じ、公正で中立的な作業です。誠実であろうとする自分自身を守るためにこそ、この公正な視点を、意識して持ち続ける必要があるのです。
行動パターンはその人の本音
言葉は、その場の状況に応じて、いくらでも選び取ることができます。しかし、行動は、時間をかけて積み重ねられたパターンとして、その人の本音を、静かに、しかし確実に映し出します。Aさんの先輩が、三度にわたって同じような問題行動を繰り返していたという事実は、言葉でどれほど丁寧に取り繕われても、揺らぐことのない記録です。
一度きりの失敗であれば、本当にうっかりだった、誤解だったという可能性も、十分に考えられます。しかし、同じ種類の行動が、形を変えながら繰り返されるのであれば、それはもはや偶発的な出来事ではなく、その人にとっての行動パターン、つまり本音の表れとして扱うべきものです。
人は、本当に変わろうとしているとき、言葉だけでなく、具体的な行動のなかに、その変化の兆しを見せ始めます。逆に言えば、言葉だけが繰り返され、行動には何の変化も見られないのであれば、その人は、変わるつもりが、そもそもないのだと考えるほうが、現実に即しています。
ここで大切なのは、「形を変えながら繰り返される」という部分です。まったく同じ行動が繰り返されるとは限りません。Aさんの場合も、最初は否定的な発言、次は記録の書き換え、三度目は資料の無断使用と、表面的な形は、毎回異なっていました。しかし、どの出来事にも共通しているのは、Aさんの仕事の成果や信用を、静かに損なう方向に働いているという点です。
表面の形だけを見比べていると、「今回は前回とは違う話だから」と、それぞれを独立した出来事として処理してしまいがちです。しかし、行動の根底にある性質を見比べれば、それらは一つの、同じパターンの延長線上にあることが、はっきりと見えてきます。
本当に変わろうとする人と、言葉だけの人の違い
本当に自分の行動を省みている人は、謝罪の言葉のあとに、具体的な変化を伴わせようとします。たとえば、二度と同じ間違いを起こさないために、確認の手順を自分から提案したり、以前傷つけた相手に対して、以前より慎重な態度を取り続けたりします。何より、変化が一時的なもので終わらず、時間が経っても続いていくという点に、大きな違いがあります。
一方、言葉だけで済ませようとする人は、謝罪の直後こそ、殊勝な態度を見せることがあっても、その効果は長続きしません。ほとぼりが冷めた頃、あるいは周囲の目がそれた頃に、同じような行動が、また顔を出してきます。この「ほとぼりが冷めるのを待つ」という時間差にも、一つのパターンがあります。謝罪の直後は控えめに振る舞い、時間が経つにつれて、また元の行動に戻っていく。
この波の存在に気づけるようになると、目先の謝罪の言葉に、その都度心を動かされることが、少しずつ減っていきます。判断すべきは、謝罪をした直後の姿ではなく、時間が経ったあとも、その変化が本当に続いているかどうかなのです。
「誤解だった」「もうしない」という言葉が繰り返される手口
Aさんの先輩が使っていた「誤解だよ」という言葉には、もう一つの働きがあります。この言葉は、問題の所在を、行為そのものから、受け取り方の問題へと、静かにすり替えてしまうのです。「誤解だった」と言われると、指摘した側は、まるで自分が状況を正しく理解できていなかったかのような感覚に陥ります。本来であれば、無断で記録を書き換えたという行為そのものが問題であるはずなのに、いつのまにか、「Aさんの受け止め方が、少し過敏だったのかもしれない」という方向に、論点がずらされていってしまうのです。
「次は気をつける」という言葉も、同様の働きを持っています。この言葉は、未来に向けた約束のように聞こえますが、具体的に何をどう変えるのかという中身は、ほとんど示されていません。中身のない約束であっても、言葉として発せられた瞬間に、指摘した側は、いったん納得せざるを得ない空気に包まれてしまいます。
追及を続ければ、今度は「もう謝ったのに、まだ言うのか」という、新たな非難にさらされることになるからです。こうして、謝罪の言葉は、行動の変化を伴わないまま、次の同じ行動が起きるまでの、一時的な休戦協定として、繰り返し使われていくことになります。
こうした言葉の使い方に共通しているのは、いずれも、時間を稼ぐための働きを持っているという点です。「誤解だった」は、過去の出来事の意味づけを曖昧にすることで時間を稼ぎ、「もうしない」は、未来への期待を持たせることで、その場の追及をかわします。どちらも、直近の具体的な行動の変化を約束するものではなく、その場の空気を和らげるためだけに機能する言葉です。
この仕組みに気づくと、「誤解だった」「もうしない」という言葉そのものが、繰り返し使われるたびに、少しずつ、色あせて聞こえてくるようになります。
事実としての行動を、判断の基準にする
言葉に流されず、行動を基準にするためには、実際に何が起きたのかを、感情を交えずに、事実として記録しておくことが有効です。
Aさんであれば、「学級経営について否定的な発言をされた」「保護者対応の記録を無断で書き換えられた」「授業資料を無断で自分の名前で提出された」という、三つの出来事を、それぞれ日付とともに、簡潔に書き出すことができます。並べてみると、これらはすべて、Aさんの仕事の成果や信用を、静かに横取りしようとする行動として、共通した性質を持っていることが見えてきます。
この記録は、相手を糾弾するためだけのものではありません。むしろ、Aさん自身が、次に同じような謝罪の言葉を向けられたときに、その言葉に、また心を動かされてしまうことを防ぐための、確かな支えになります。
「今度は本当に変わるかもしれない」という期待が芽生えそうになったとき、記録を見返せば、同じ言葉のあとに、同じ行動が繰り返されてきたという事実に、あらためて気づくことができます。事実の記録は、相手の言葉の甘さに、繰り返し流されそうになる自分自身を、静かに引き戻してくれる、頼もしい錨のような役割を果たしてくれるのです。
記録をつけるうえで大切なのは、そのときの感情ではなく、実際に何が起きたのかという、行為の内容そのものに焦点を当てることです。「ひどいことをされた」ではなく、「無断で記録を書き換えられた」というように、動作を主語にして書くことを意識すると、記録はより客観的な、あとから見返したときにも揺らがない形になります。
感情の記述は、その瞬間には正直な気持ちであっても、時間が経つと薄れたり、強まったりと、変化しやすいものです。しかし、行為そのものの記録は、時間が経っても、決して形を変えることのない、確かな土台であり続けてくれます。
誠実であることをやめる必要はない
Aさんは、記録をつけ始めてから、先輩との関わり方を、少しずつ変えていきました。謝罪の言葉に対して、以前のように、すぐに安心することはなくなりました。「わかりました」とだけ返し、あとは、実際の行動がどう変わるかを、静かに見届けるようにしたのです。数か月後、同じような問題は、また一つ起きました。Aさんは、その時点で初めて、学年主任に、これまでの記録をもとに相談することにしました。
記録を見せながら話したことで、学年主任も、これが一度きりの行き違いではなく、繰り返されてきたパターンであることを、はっきりと理解することができました。もしAさんが、感情だけを頼りに「ひどいことをされ続けている」とだけ訴えていたら、話はここまで具体的には進まなかったかもしれません。
日付と行為が並んだ記録があったからこそ、学年主任も、状況を正確に把握し、次の対応を、落ち着いて検討することができたのです。事実の積み重ねは、誰かに相談する場面において、あなたの言葉に、確かな重みを与えてくれます。
行動を基準にして判断することは、誠実さを失うことではありません。むしろ、誠実であり続けるために、必要な区別です。相手の言葉を無条件に信じ続けることが誠実さなのではなく、事実に基づいて、公正に相手を見極めることこそが、本当の意味での誠実さです。
Aさんが最後まで大切にしていたのは、感情的に相手を責め立てることではなく、積み重ねられた事実を、静かに、しかし確かに見つめ続けるという姿勢でした。言葉に何度裏切られても、事実を見る目を曇らせずにいられたことが、Aさんが自分自身の誠実さを、最後まで守り抜くための、いちばんの支えになったのです。
❑職場いじめ、パワハラ・モラハラには構造があります。その構造を知り、被害を根本的に終わらせるための内容をまとめました。800人以上の被害者の支援をしてきて導き出した答えです。
