見出し画像

優しさを勘違いするモラハラ加害者。境界線が必要な理由

看護師のAさんは、その日も、急な欠員の連絡を受けていました。「悪いんだけど、また休み出てもらえない?」。声をかけてきたのは、同じ病棟の先輩でした。Aさんは、すでに前の週も、同じ先輩の代わりに二回、休日出勤をしていました。それでも「大丈夫です」と答え、予定していた休みを、また手放しました。

先輩は、その代わりに何かを差し出すことはありませんでした。お礼の言葉すら、次第に軽くなっていきました。最初のうちは「本当にありがとう、助かった」だったものが、いつしか「さすがAさん、頼りになるわ」という、当然の役割を確認するような言い方に変わっていきました。さらに数か月が経つころには、お礼の言葉すらなくなり、「Aさんなら大丈夫でしょ」という前提だけが、周囲の共通認識になっていました。休みの相談は、いつしか相談ですらなくなり、「入ってもらうから」という、確認の形すら取らない通告に変わっていったのです。

同じ時期、その先輩は、Aさんに対して、少しずつ言葉もきつくなっていきました。申し送りの場でAさんの記録に細かい指摘を入れ、他のスタッフの前で「ここ、意味わからないんだけど」と言い放つこともありました。それでもAさんは、深く傷つきながらも、「自分がもっと丁寧にやればいいんだ」と考え、次の日には、いつも通り、先輩に笑顔で接していました。休みも、頼まれれば、やはり差し出していました。

ある日、Aさんは、体調を崩した友人の見舞いに行く予定を入れていました。その日の朝、先輩から連絡が入りました。「悪いけど、また入ってくれない?」。Aさんが、初めて「その日はどうしても外せない予定があって」と伝えたところ、先輩の声色は、一瞬にして変わりました。「え、Aさんって、そういうときだけ急に予定入れるんだね」。悪びれる様子は一切なく、むしろ、Aさんの側に非があるかのような、突き放すような口調でした。

Aさんは、なぜ自分がこれほど優しく接しているのに、相手の態度は和らぐどころか、むしろ厳しくなっていくのだろうと、疑問に感じ始めていました。今日は、この「優しさを尽くしても、なぜか状況が悪化していく」という現象の裏側にある、加害者側の心理の仕組みについて、事例を交えながら考えていきたいと思います。

優しさは「感謝の対象」ではなく「証明」になる

多くの人にとって、誰かに優しくされたり、無理を聞いてもらったりすることは、感謝や恐縮の気持ちを引き起こす出来事です。相手に負担をかけてしまったという意識が生まれ、次は自分が譲る番だという発想にもつながっていきます。人間関係は、こうした譲り合いの積み重ねによって、バランスを保っています。

しかし、モラルハラスメントを行う人の内側では、この回路が、しばしば異なる形で働いています。無理な要求に応じてもらえたとき、失礼な態度を許してもらえたとき、加害者はそれを「相手の優しさ」としてではなく、「自分がそれだけの扱いを受けるにふさわしい人間である」という証明として受け取ってしまうのです。相手が譲ってくれたのは、自分に力があるからだ、自分が特別だからだ、という方向に、解釈がねじれてしまいます。

Aさんの先輩にとって、Aさんが休日出勤を重ねて引き受け続けたことは、Aさんの優しさや責任感の表れとしてではなく、「自分の頼みは、断られることがない」という、いわば自分の立場の強さを裏づける材料として積み重なっていったと考えられます。感謝の言葉が次第に軽くなっていったのも、その裏で「これは当然のことだ」という感覚が育っていったからです。優しさが、感謝の種になるどころか、加害者の自己認識を膨らませる燃料になってしまう。これが、モラハラ加害者に見られる、典型的な思考のねじれです。

この思考のねじれは、加害者自身が意図的に組み立てているというよりも、無自覚に育っていくものであることが少なくありません。誰かに頼み事を聞いてもらうたびに、心のどこかで「自分には、それだけの価値がある」という感覚が、少しずつ積み重ねられていく。その積み重ねに、加害者自身は、ほとんど気づいていないことすらあります。だからこそ厄介なのです。悪意を持って計画的に相手を利用しているという自覚がないまま、無自覚のうちに、相手の優しさを、自分の万能感を確かめるための材料として、消費し続けてしまうのです。

なぜ、許し続けても感謝や反省につながらないのか

一般的な人間関係であれば、相手の負担に気づいた瞬間に、多少なりとも遠慮や罪悪感が働きます。しかし、モラハラ加害者の多くは、この遠慮の回路そのものが弱い、あるいはほとんど機能していません。彼らにとって重要なのは、相手がどれだけ負担を抱えているかではなく、自分の要求がどこまで通るか、自分がどこまで許されるかという、自分中心の物差しです。

この物差しのもとでは、相手が我慢して応じ続けている限り、その境界線は「まだ許されている範囲」として認識され続けます。境界線を明確に示されない限り、加害者は自分から立ち止まろうとはしません。むしろ、応じてもらえた回数が増えるほど、「この人は、これくらいでは離れていかない」という安心感が育ち、次に差し出す要求は、少しずつ大きく、少しずつ理不尽なものへと変わっていきます。

これは、いわゆる限界設定という考え方に通じるものです。人が他者との関係のなかで、どこまで踏み込んでよいかを学ぶのは、多くの場合、相手からの反応を通してです。踏み込んだときに、相手が嫌な顔をする、断る、距離を置くといった反応があれば、そこに一つの境界線があることを学びます。しかし、何度踏み込んでも、相手が変わらず応じ続けてくれるのであれば、そこには境界線が存在しないという学習が、逆に進んでしまいます。モラハラ加害者にとって、優しく応じ続けてくれる相手は、まさにこの「境界線のない相手」として学習されていってしまうのです。

エスカレーションは、静かに段階を踏んで進む

モラハラのエスカレーションは、多くの場合、一足飛びには起きません。最初は、ごく小さな無理な頼み事から始まります。次に、少し失礼な言い方が混ざります。それでも相手が変わらず応じてくれることを確認すると、さらに一段階、要求や態度が強くなっていきます。この段階的な進み方こそが、被害者にとって、異変に気づきにくくしている大きな要因です。

Aさんの場合も、最初は単なる休日出勤の肩代わりという、業務上の助け合いの範囲に見えるものでした。しかし振り返ってみれば、そこから申し送りでの指摘、他のスタッフの前での威圧的な発言、そして見舞いの予定すら咎められるという場面へと、少しずつ段階を踏んで進んでいったことがわかります。一つ一つの出来事を切り離して見れば、「それくらいなら」と思えるようなものであっても、時間軸に沿って並べてみると、明確な右肩上がりの変化が見えてきます。渦中にいるときには、この変化になかなか気づくことができません。優しさで応じ続けているうちに、いつのまにか、最初には考えられなかったような要求や態度にまで、慣らされてしまっているのです。

この段階的な進み方は、意図的に計算されている場合もあれば、加害者自身も無自覚のまま、少しずつ踏み込みの度合いを強めてしまっている場合もあります。いずれにせよ、被害者の側からすれば、ある日突然、理不尽な扱いを受け始めるわけではなく、少しずつ、少しずつ、水位が上がっていくように、状況が悪化していきます。だからこそ、「いつから、おかしくなっていたのか」を、あとから振り返って言葉にすることが、意外に難しいのです。出来事を時系列で書き出してみることは、この緩やかな変化を、客観的に捉え直すための、有効な手立てになります。

あなたが悪いのではない

ここで、はっきりさせておきたいことがあります。優しく接し続けた結果、相手の態度が悪化していったとしても、それはあなたの優しさの示し方が間違っていたからではありません。あなたが人一倍、我慢強く、責任感を持って対応してきたことは、本来であれば、周囲から敬意を払われて然るべきことです。それが、たまたま、自分の欲求を際限なく拡大させる相手に向けられてしまったために、望まない形でエスカレーションを招く結果になってしまっただけなのです。

Aさんが自分を責める必要がないのと同じように、優しさを利用されてしまったすべての人にとって、責められるべきは、優しさにつけ込み、限度なく要求を膨らませていった側であって、優しさを差し出した側ではありません。この前提を、まず自分自身のなかで、はっきりと確認しておくことが、次の一歩を考えるための土台になります。

この確認は、単なる気休めではありません。優しさを利用され続けた人は、多くの場合、「自分がもっとうまく対応できていれば、こんなことにはならなかったのではないか」と、原因を自分の側に探そうとしてしまいます。しかし、これまで見てきたように、加害者の側の思考には、相手の優しさを感謝の対象ではなく、自分の価値の証明として消費していくという、独特の歪みがあります。この歪みは、被害者がどれほど丁寧に、どれほど誠実に対応したとしても、根本的には変わりません。だからこそ、状況が悪化した責任を、自分の対応の仕方に求める必要は、まったくないのです。

境界線を引くことは、冷たさではなく、もう一つの優しさである

優しさには、際限なく差し出し続けることだけが含まれるわけではありません。どこまでなら応じられるか、どこからは応じられないかという線引きを、自分自身のなかに、はっきりと持っておくこと。これもまた、優しさの一つの、大切な形です。境界線のない優しさは、時間とともに、相手の欲求に合わせて自分をすり減らしていく行為になりかねません。

Aさんがもし、ある時点で「今回は難しいです、私にも予定がありますので」と、一度でも断ることができていたら、その後の展開は、少し違ったものになっていたかもしれません。断ることは、相手を拒絶することでも、冷たく突き放すことでもありません。自分という存在を、これ以上すり減らさないための、必要な線引きです。境界線を引かれた加害者は、最初は戸惑ったり、不満を示したりすることもあります。しかしその戸惑いは、これまで無制限に受け入れられてきたことのほうが、本来は特別だったのだという事実を、加害者自身に示すことにもなります。

境界線を引くことに、罪悪感を覚える人は少なくありません。長い間、相手の要求に応じ続けてきた人ほど、「今さら断ったら、わがままだと思われるのではないか」「今まで応じてきたのに、急に態度を変えるのは不自然ではないか」という不安を抱きがちです。しかし、これまでの対応を続けることと、これからも同じように対応し続けなければならないことの間には、何の必然性もありません。人は、これまでの関わり方を、いつからでも、何度でも見直すことができます。境界線は、一度で完璧に引けるものではなく、少しずつ、練習を重ねながら形にしていくものだと考えてよいのです。

「頼まれると断れない」自分に気づいておくこと

境界線を引く力は、いきなり強くなるものではありません。むしろ、自分がどのような場面で、どのような言葉に弱いのかを、あらかじめ知っておくことのほうが、実際の場面で役に立ちます。Aさんの場合であれば、「頼りにしてる」「Aさんしかいない」という言葉に、特に弱いところがありました。この言葉をかけられると、断ることが、相手の信頼を裏切る行為であるかのように感じてしまい、反射的に「大丈夫です」という言葉が口をついて出てしまっていたのです。

自分がどのような言葉に流されやすいかを知っておくと、同じ言葉をかけられたときに、「またこのパターンだ」と、一歩引いて捉え直すことができるようになります。感情がその場で大きく動く前に、頭の片隅で、パターンとして認識できるようになること。これは、境界線を引く練習の、最初の一歩として、とても有効な備えになります。相手の言葉そのものに反応するのではなく、その言葉が自分のどんな気持ちを刺激しているのかを、少し離れたところから眺めてみる。そうした視点を持てるようになるだけで、とっさに流されてしまう回数は、少しずつ、しかし確実に減っていきます。

優しさを差し出すことと、自分を守ることは、対立するものではありません。むしろ、自分自身を大切にできている人だからこそ、本当の意味で、余裕を持って他者に優しくできるのだと言えます。すり減った状態で無理に差し出す優しさよりも、境界線のなかで、健やかに差し出せる優しさのほうが、長い目で見れば、自分にとっても、周囲にとっても、ずっと確かなものになっていきます。相手がどう受け取るかにかかわらず、あなたが自分自身を大切にすることは、決して誰かを傷つける行為ではなく、これ以上、自分が傷つかないために、静かに選び取っていい、確かな優しさなのです。

断って適切に動く

Aさんは、あの見舞いの日を境に、少しずつ、断るという選択肢を、自分のなかに持てるようになっていきました。最初の一回は、声が震え、断ったあとも一日中、罪悪感に似た感覚がつきまとったといいます。それでも、断っても、病棟の業務は、なんとか回っていくことを、Aさんは実際に目にすることになりました。先輩からの態度は、しばらくのあいだ、よそよそしいものになりました。しかし同時に、これまで際限なく増え続けていた頼み事も、少しずつ、現実的な範囲に収まっていったのです。

優しさを利用されてきた時間は、決して無駄ではありません。それは、あなたが誰かのために誠実に力を尽くせる、心の温かい人であることの証でもあります。ただ、その優しさを、これから先、誰に、どこまで、どのように差し出すのかを選ぶ権利は、いつの時代も、常にあなた自身の手のなかにあります。境界線を引くという行為は、これまで積み重ねてきた優しさを否定することではなく、その優しさを、これからも健やかに、長く保っていくための、もう一つの形なのです。


いいなと思ったら応援しよう!