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社員証を返した日

社員証を返した日のことを、ときどきふと思い出します。

お別れを言わないまま、退職の日だけが過ぎた

私は、休職からそのまま退職になりました。
翌日から入院したので、職場の人たちと「さようなら」を言う機会はありませんでした。

最終出社日も送別会もなく、デスクの片づけも中途半端なまま、時間だけが先に進んでしまった感じです。

休職に入る前に、ある程度の荷物整理と引き継ぎはしていました。

あの仕事はあの人へ。
この案件は、この人へ。

そうやってバトンを渡してはきたけれど、本当なら、もう少しちゃんと区切りをつけたかった。

「今までありがとうございました」
「ご迷惑をおかけしてすみません」

そういうありきたりな言葉を、ありきたりに交わす時間すらないまま、私は「元・社員」になりました。

上司が、社員証を受け取りに来た日

とはいえ、会社の備品は返さなければなりません。
社員証、セキュリティカード、社用スマホなど。

退職日になっても出社できない私の代わりに、上司が病院まで来てくれることになりました。

事前に連絡をもらって、病室でひとり、小さなビニール袋に社員証や会社のものをまとめました。

あのIDカードを首に下げて、オフィスに通っていた日々。
「お疲れさまです」と言い合っていた日々。

ビジネスライクでいてくれて助かった

約束の時間に、上司が面会室に入ってきました。
久しぶりに見る上司の顔。
だけど、そこに「お見舞いモード」はほとんどありませんでした。
「これとこれ、お預かりしますね」
「この書類に、ここだけサインをお願いします」
やりとりは、終始ビジネスライク。

余計な言葉や感情を挟まないまま、
手続きがスッと進んでいきました。

そのときは、
どこか冷たいような気もしました。
「体調、大丈夫?」とか
「また元気になったらご飯でも」みたいな、
ドラマで見たことがあるようなセリフをどこかで期待していた自分もいたかもしれません。

でも今思うと、あの対応は、ありがたかったのだと思います。

「情」を抑えてくれた優しさ

面会室で、制服でもスーツでもなく、ジャージのまま上司と向き合う時間。
もしここで、優しい言葉をたくさんかけられていたら、私はきっと泣いていたと思います。
「残念だったね」とか「また一緒に働けるといいね」とか、そういう言葉をもらったら、たぶん、心のどこかが決壊していたはずです。

でも上司は、あえてそこに踏み込んでこなかった。

あくまでも、会社の代表として。
退職手続きのために来た人として。

役割を崩さないまま、必要なものを受け取り、
必要な書類だけ交わして、会社の近況報告を軽く聞いて。
「それでは、これで。お大事に」
そう言って帰っていきました。

だからこそ、私もギリギリ泣かずに済んだのだと思います。
社員証を返したあの日、たしかに私は一つの場所から離れました。
でも同時に、上司が「情」を抑えてくれたおかげで、これ以上自分を責めずに済んだ部分もありました。

優しい言葉をかけることだけが、優しさじゃないのかもしれない。
あの日のビジネスライクな温度を思い出しながら、
そんなふうに、今は静かに思っています。


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