【SIDE: 愛音10.8】
RiNGには、バンド練習用の広いスタジオだけじゃなく、個人練習用の小部屋もいくつかある。今日私はその一室を、予め借りていた。
何せ、アンプで音を出すのが久しぶりなのだ。一度確認しとかないと。
受付で、凛々子さんに声を掛けた。
「すいません、Eスタジオを予約・・・」
「あら、愛音ちゃん!」
満面の笑み。
「燈ちゃんたちはもう楽屋に入ってるよ。・・・やるのね?」
なんか気恥ずかしくて、私はへへっ、と笑った。
「何があったかは聞かないけど、お姉さんはわかってたよ!信じてた!」
「で、あの・・・みんなには」
「あ、ひょっとしてまだ・・・ああそうなのね!お姉さんわかった!3人には黙ってるよ!サプラーイズね!」
「あ、ありがとうございます」
全部お見通しか。大人ってすごい。
「はい、Eスタの鍵!私もうリハでミキサーに入るから!後はお姉さんに任せて!」
「うん!ちょっと音出してから行くね」
スタジオの鍵を受け取って、スタジオエリアの自動ドアを抜けようとした時、凛々子さんが後ろから私を呼び止めた。
「愛音ちゃん!」
「ん?」
振り向くと、凛々子さんはニコッと優しく笑った。
「・・・おかえり」
鼻の奥がツンとした。
「ただいま!」
…
うーん、やっぱアンプを通すと違うな。ピッキングのニュアンスも、生音で練習するのとは全然変わっちゃう。事前に確認しといてよかった。
よし、もう一回・・・
コンコン。ガチャン。扉がそっと開く。ギグバッグを背負った知らない子が覗き込んできて、
「あの〜。そろそろ・・・」
「あっ!もうそんな時間⁈」
やばっ。もうすぐ始まる時間だ。慌ててアンプを切ってシールドを片付けて、ギターは肩に掛けたままでスタジオを出る。
「ごめんなさい、夢中で気付かなくって!ごめんね!」
ステージ裏に急ぐ。楽屋は・・・あった、「高松燈」って書いてある。
そっとドアを開けると、もう誰もいない。うわ、もうステージに行ってる!颯爽と楽屋に登場して、感動の再会するはずだったのに!急がなきゃ。シールドとピックを持って、ギグバッグは椅子にポイと置いて、ステージに向かう。
上手からそっとステージを覗く。楽奈ちゃんが何か楽しそうに揺れている。リッキーが踏むバスドラの音が響いている。
基本的に即興だから、ちゃんとしたリハはなしで、出音だけチェックしてる感じかな。
ステージに踏み出す。その瞬間、楽奈ちゃんが何かを嗅ぎつけたように、シュバっと私の方を見る。野生動物か!ふと客席が目に入る。えっ、すごい人!マジで?
「わぁ・・・すごいお客さんじゃん!」
思わず声が漏れる。
「やっと来た」
楽奈ちゃんがニヤッと笑う。リッキーも気付いて、こっちを見てニヤリ。
「やっと、って・・・」
ちょっと苦笑い。さて、セッティングしなきゃ。ステージを下手に向かって歩く。燈ちゃんと目が合う。
「愛音ちゃん・・・」
ここまで秘密にしてたことに、ちょっとバツが悪くてまた苦笑。全然思ってたように行かなかったし。でも・・・来たよ、燈ちゃん。
リッキーが言う。
「準備できてんの?」
「あー、はいはい」
軽く返す。だって知ってるでしょ。
セッティングしてると、急にお客さんがざわついて、リッキーが叫ぶ声が聞こえた。
「あっ・・・と、燈⁈」
ん?振り向くと、燈ちゃんがステージを飛び降りて、お客さんを掻き分けて客席の後ろの方に進み始めたところだった。
あ。もしかして。
人混みを泳ぐように燈ちゃんが進む先、いた。そよさんだ。へへん、まんまと来やがったな、そよさん!
お客さんも何事かと道を開ける。何かの映画っぽい。何だっけ。海が割れるー、みたいなやつ。
燈ちゃんの右手が、そよさんの左手をパシッと掴んだ。そよさんが驚いたように燈ちゃんを見ている。
そよさんの位置からステージまでは、もうすっかり道が拓いている。燈ちゃんは無言のまま、そよさんをステージの方へ引っ張り始めた。
「え・・・ちょ、ちょっと!離して!」
動揺するそよさん。必死に抵抗しているようだ。もう、無駄だよ。逃げられないよ、そよさん。今の燈ちゃんはもう、その手を離さないよ。
燈ちゃんとそよさんが揉み合っている時、リッキーがドン!と思い切りバスドラムを踏んだ。そよさんもお客さんも、ハッとしたように動きを止めた。
そよさんの抵抗が緩んだと見るや、燈ちゃんはそよさんの両手をガッと掴んで、一気に全力でそよさんを引っ張る。不意を突かれたそよさんはあれよあれよとステージの下まで連れて来られてしまった。
「勘違いしないで!終わらせに来たの!」
やれやれ、往生際が悪いとはこのことだ。世話が焼けるな。
私はそよさんに手を伸ばす。えっ、と言うようにそよさんは私を見る。そよさんの手を掴む。
おいで。
「あっ・・・」
そよさんはステージに上がった。どうしたらいいのか、まるでわからないように立ち尽くしている。
楽奈ちゃんが、ステージ上手に消えたかと思ったら、ベースを持って走ってきた。準備してたの?・・・さては凛々子さんだな?楽奈ちゃんがニヤつきながらそよさんにベースを押し付ける。そよさんは思わずベースを手に取る。
楽奈ちゃんは、んふっ、とイタズラっぽく微笑んで、浮かれた様子でぴょんぴょんとポジションに戻る。
「ちょっと!」
そよさんが楽奈ちゃんに声を掛けるけど、知ったこっちゃない。客席から、何かを期待するように歓声が上がる。そよさんはハッとしたように客席を見る。楽奈ちゃんはギターのボリュームをクイっと上げて、Dm7からのアルペジオを鳴らし始めた。燈ちゃんもステージに戻って、マイクを取りに行く。
渡されたベースを手にしたまま、そよさんは動けずにいた。私は、そよさんからベースを一度受け取った。
Dm7、B♭add9、C。聞き慣れた、燈ちゃんのポエトリーリーディングの導入。数回繰り返したところで、燈ちゃんが語り始める。
僕にはわからないんだ。いつも、見つけられない。正解も普通も。世界はずっと、ずっとずっと遠く、僕には届かない場所にあるんだ。
燈ちゃんは、左手でマイクを持ち、右手でそよさんの右手を取る。そよさんをまっすぐ見つめながら。
リッキーのスネアロールが被る。
陽だまりを抱きしめていた春も、夏が照らし過ぎて、消えてしまいそうで。アスファルトで干からびてしまうなら僕は、ずっと、石の下に隠れていたかった。
私はベースの向きを直して、ストラップをそよさんの肩に掛けた。そよさんの右手が、燈ちゃんの手からするりと抜ける。そよさんの柔らかい髪がストラップと肩の間ににちょっと挟まったので、直してあげた。
そよさんは戸惑った顔で私を見る。私はそよさんを見つめ返す。
来ちゃったね?ステージに。お客さんが待ってるよ。
そよさんは視線を、私からリッキー、燈ちゃん、そして楽奈ちゃんと順に移す。みんなそよさんを見ている。
楽奈ちゃんが、弦をミュートせずにギターのボリュームをグイッと上げる。下手側のそよさんの方を見ているから、楽奈ちゃんのギターはアンプのキャビネットの方を向いている。Suproのアンプのノイズを、Potbellyのピックアップが拾う。ヒューン、とフィードバックが鳴る。
きっとみんな、同じことを思ってそよさんを見てたと思う。
さ、ライブ、やろ。
