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【SIDE: 愛音10.0】

気が付いたら、明るくなっていた。壁掛けの時計を見る。いつも起きる時間よりは全然早い。

昨日はあのまま、ソファで寝落ちしてしまった・・・ってことだよね。腫れぼったい瞼。とりあえずシャワーを浴びる。

いつものナチュラルメイクじゃ、目の下の赤みは隠し切れないけど、時間が経てば引いてくるだろう。厚化粧は好きじゃないし。友達には、ゲームのし過ぎで寝不足だとか何とか言っておこう。

せっかく早く目覚めたし、チャッチャと準備して学校へ行くことにする。制服を着たら、リビングに降りる。昨日は夕食を食べずに寝てしまったので、お母さんがラップをかけて冷蔵庫に入れておいてくれたラタトゥイユをレンジで温める。

いつからか、朝は紅茶を飲むのが習慣になっている。さすがにいちいち茶葉で淹れてはいられないから、ティーバッグだけど。今日はトワイニングのダージリンを選んだ。

よく知らない頃は、カップにティーバッグを放り込んで、その上からジャバーっとお湯をかけていた。でも、ティーバッグもきちんと淹れれば美味しい紅茶になる。まず先にカップにお湯を入れる。お湯の温度が下がらないように、カップを温めて一度湯切りしておくとさらに良い。そこに、ティーバッグをそっと入れる。空気が入っているから最初は浮かんでしまいがちだけど、馴染むまでちょっと糸を持って、とんがった部分に空気が溜まるようにしながら、静かに沈めていく。

決して掻き混ぜたり、無理に振り出したりしない。ジワっと茶葉にお湯が浸透して、ティーバッグの中でいわゆる「ジャンピング」が起きる。そして、抽出された紅茶の成分は比重が重いので、数分置いておくとカップの底に溜まってくる。

十分に抽出されて、茶葉もお湯に馴染み切ってティーバッグは底に沈む。それを、そっと引き上げる。ここで振ったりしたら渋味が出てしまう。この状態のまま、できるだけ絞らずに取り出す。

底に濃い色をした抽出液が溜まるので、スプーンでサッと一混ぜすると、均一な紅茶になる。これだけで、雑に淹れたものとは別物になる。

お母さんはまだ寝てるみたい。お父さんは昨日も遅かっただろうから、ギリギリまで寝かせてあげたいかな。二人とも毎日テレビのタイマーで6:30に起きるから、こんな時間に無理に起こさなくていいだろう。「昨日は寝ちゃってごめん!先に学校行くね」と付箋に書き残して、ダイニングのテーブルに貼っておいた。

今日はよく晴れている。家を出ると、朝陽が低い角度から目に飛び込んできて眩しい。

7:00過ぎには学校に着いてしまった。それでも、まばらながら早く来ている生徒はいる。昨日寝ちゃったから、課題を全然やってない。この時間で片付けなきゃ!

課題をやっていると、パラパラとクラスメイトが登校してくる。かなこちゃんが教室に入ってきて、私を見て言う。

「おはよう愛音ちゃん!今日は早いね!」

「おはよう!昨日ゲームやってるうちに寝落ちしちゃって〜。課題やってないから早く来て片付けようって」

「そうなんだ〜。・・・なんか目、赤くない?」

「そうなの〜!ゲームやり過ぎで眠くって〜」

へへっ、と誤魔化し笑いをしながら、課題に戻る。30分もあれば片付くだろう。集中していれば、何も考えなくて済む。

「・・・よし!課題終わり!」

教室の入り口近くでお喋りしているまいちゃん、えりちゃん、かなこちゃんのところへ行って、会話に混じった。

「かなこ、今日髪の匂い違くない?」

「お姉ちゃんのシャンプー使っちゃってさ〜」

他愛のない雑談の最中に、燈ちゃんが、いつものように下を向いてとぼとぼと教室に入ってくる。えりちゃんが気付いて声をかける。

「あ、燈ちゃんおはよー!」

「あ・・・お、おは・・・」

燈ちゃんと一瞬目が合う。何も言わず、ふいっと目を逸らして会話に戻る。かなこちゃんに言う。

「前もそうやって怒られてなかった?」

「あ、そうなの〜」

「でも羨ましい〜。お姉ちゃんがいるって何かいいよね〜」

流れでどうでもいい相槌を打つ。私と燈ちゃんの様子がおかしいことに、かなこちゃんたちは気付いたみたい。あれっ?という感じで顔を一瞬見合わせた。

4時間目、古文の授業。イソップ物語が日本に伝わって、伊曽保物語として広まったんだよね。紀元前6世紀の古代ギリシャのお話が、長い時間を経て海を越えて、こんなところまで届くなんて。それだけ響く話だってことなんだろうな。

「犬と肉」か・・・えっ、これ「にく」じゃなくて「ししむら」って読むんだ。話の内容はどこかで聞いたことがある。肉を咥えて歩いていた犬が橋を渡っていて、ふと下を見ると、知らない犬が肉を咥えてこっちを見ている。その肉も欲しくなっちゃった犬は、ワン!と吠えた。すると咥えていた肉はボチャンと川に落ちて、流されちゃった、ってお話。

欲を出すと損するよ、っていう教訓。いつの世も同じ、この普遍性が長く語り継がれる理由なんだろうな。

私はちょっと気になる。川面に映った自分の姿を見て、それが自分だと気付かなかったこの犬。何歳の犬か知らないけど、この時まで自分がどんな姿なのか知らなかったってことだよね。そんなものだろうか。

色んな解釈ができる気がする。自分はもう十分なものを持っているのに、それを大事にせずもっと欲しがってしまう愚かさ。抱えられる量には限りがあるのに、手に余るほどの、分不相応な幸せを求める滑稽さ。そして、本当の自分の姿をちゃんと見つめなさい、というメッセージ。あなたが持っている大切なものを手放してはいけないよ、と・・・

黒板を見ようとすると、どうしても前の席の燈ちゃんの後ろ姿が視界に入る。ノートの隅に、ダンゴムシの落書きがちらっと見える。

ノートを取る燈ちゃんの右手が消しゴムに当たって、机からころんと消しゴムが落ちる。私の机のすぐ右側に。

私は気付かないフリをして、視線を自分のノートに落とし続ける。視界の隅で、燈ちゃんが席を立って消しゴムを拾う。そして席に戻る。

私の方が、消しゴムが落ちた場所に近かった。さっと拾って、落ちたよって言って渡してあげることもできた。いつもの私なら、大して好きじゃない相手にでもそうしたはずだ。なのに、動けなかった。

どうして?

朝だって、燈ちゃんにいつも通りに「おはよう」を言うこともできたし、そうするべきだったと思ってる。だけどできなかった。なんて言っていいかわからない、昨日も感じた感情が込み上げて、私の身体を支配してしまう。

今からでも遅くない、ただ他のことに気を取られてただけって言い訳して、無視したことをさらっと謝って、またただの友達に戻ればいい。燈ちゃんはCRYCHICを再結成して、私はライブを聴きに行って、良かったよって褒めてあげるんだ。やっぱりこれで正解だったね、って。

結局、何も言えないままに放課後。燈ちゃんは私の方を振り返りもせず、いや、むしろ見ないようにして、ゆっくり立ち上がった。そのまま、いつも通り下を向いてとぼとぼと教室を出て行った。私はスマホの画面をただ見ている。人気アイドルがコンプライアンス問題で活動休止するんだとか。だからなんだろ。何一つ頭には入ってこないけど。

「愛音ちゃん、一緒に帰ろー?」

まいちゃんが声を掛けてくれる。

「あ、帰ろうか!どこか寄ってく?」

「愛音ちゃん、今日はバンド練習ないの?ギター持ってないから誘ってもいいかなって」

ズキン。しまった、ちょっと顔に出ちゃった。

「あっ・・・ごめん、聞いちゃいけなかった…?」

「え?別になんともないよー!そうなの、練習ないんだ、今日」

「・・・そっかー、じゃあね、じゃあね、最近できた新しいカフェに行ってみたくて!愛音ちゃんも行こうよ!ベリーソースのパンケーキがすっごい美味しいんだって!」

「わーいいね!行こう行こう!」

そう、こういうのが私らしい。私はこんな感じで、楽しい学生生活を送れる。「犬と肉」じゃないけど、私にはこうやってお喋りしたり、放課後一緒に遊ぶ友達がいる。これ以上を望むなんて贅沢だ。足るを知れ、私。お前はこんなに恵まれてるんだから、背伸びなんてしなくたっていいんだよ。

「じゃあまいちゃん、また明日ね!今日はありがと!」

私はまいちゃんに手を振って、電車に駆け込む。

「愛音ちゃん、またねー!」

まいちゃんも手を振っている。プシュ、と扉が閉まる。

あー、楽しかった!パンケーキもすっごいふわふわで、甘くてキュッと酸っぱいベリーソースも最高!くだらない話でバカみたいに笑って、あっという間に時間が過ぎた。最近はずっとバンド練習ばっかりで、そよさんも楽奈ちゃんも来ないから私ばっかりリッキーに文句言われて・・・

久しぶりにストレスのない放課後だったな。これからもこんな楽しい毎日が続くんだ。この方がずっとずっと私らしい。私の身の丈に合った幸せを、しっかり捕まえて離さないようにしよう。欲を出して、川の流れに持って行かれないように…

なんとなく胸の奥がチリチリするのは、きっと気のせい。そうだ、さっきの酸っぱいベリーソースのせいだ。



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