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【創作大賞2026応募作】解析できません――心臓の言語――

あらすじ

愛犬ルーカスが突然倒れた。黒沢篤は公園のAEDを抱えて動物病院へ駆け込む。しかし機械が告げたのは無情な一言だった。

「解析できません」

犬の心電図は人間用AEDでは解析できない。納得できない黒沢は警察へ向かい、刑事・桐島悠介が動き始める。やがて浮かび上がるのは、取り下げられた学会発表、返却されなかった合鍵、そして担当獣医師・御子柴汐里が密かに抱えていた秘密だった。なぜ彼女は、あの夜を「待っていた」のか。

一方で黒沢自身もまた、長年疎遠だった娘との関係に向き合うことになる。

理解できないから切り捨てるのか。それとも、理解できなくても寄り添うのか。

「解析できません」という言葉の意味を問い続ける社会派ミステリー。


一 走る

 走った。

 革靴で、砂利道を走った。ルーカスを両腕に抱えて走った。

 三十二キロある。分かっていた。でも重さを感じなかった。腕の中のルーカスは、子どものように軽かった。意識がなくなると、生き物はこんなに軽くなるのか。それとも俺が、気が狂いそうなほど必死だったから、重さを感じる余裕がなかったのか。

 公園の外灯が、頭の上を流れていった。

 右手に、AEDを持っていた。

 なぜ持ったのか。ルーカスが倒れて、俺は叫んで、周囲を見回して、緑のランプが点滅しているボックスが目に入った。次の瞬間には持っていた。それだけだ。考えたのではない。体が動いた。

 AEDは、命を救う機械だと思っていた。

 誰の命でも。どんな命でも。

 俺はそう思っていた。疑ったことがなかった。あの夜の、その瞬間まで。

 獣医科病院のドアを体で押し開けた。

「助けてくれ!」

 廊下に声が反響した。

 白衣の女性が出てきた。細い体。眼鏡。三十代くらい。俺の腕の中を見て、一瞬止まった。

 止まり方が、少し——変だった。

 驚いているのではなかった。何かを確認するような、止まり方だった。でもそのときの俺には、そんなことを考える余裕はなかった。

「こちらへ」

 処置台にルーカスを乗せた。彼女が素早く触診する。

「AED、持ってきました」と俺は言った。「使えますか」

 彼女の手が、止まった。今度は長かった。触診の手を止めて、俺の右手のAEDを見た。見てから、俺の顔を見た。その順番が——何かを確かめるような順番だった。

「やってみます」

 電極パッドを取り出した。手慣れた動作だった。迷いがなかった。

 ルーカスの胸の毛をかき分けた。かき分けて、また、かき分けた。ゴールデン・レトリバーの毛は厚い。皮膚に触れるまでに、時間がかかった。

「心臓は」と俺は言った。「どこですか」

「大型犬は少し違います」御子柴は言った。「前肢のつけ根の、少し後ろ」

 パッドを貼る位置を、御子柴の指が一度だけ押さえた。皮膚に直接パッドを貼りたいが、毛が邪魔をする。密着が甘い。それでも貼り付けた。機器の電源が入る。音声ガイダンスが流れた。

 「患者から離れてください。心電図を解析します」

 俺は一歩下がった。

 息を止めた。

 モニターに波形が表示された。ルーカスの心臓が、何かを出力している。俺には読めない。でも、何かがある。何かが確かにそこにある。

 ピーッ。

 乾いた音が、部屋に響いた。

 「解析できません」

 機械の声。抑揚がない。謝罪もない。ただ、告げる。

 「解析できません」

 もう一度。

 同じ声。同じ言葉。

「先生」と俺は言った。「どういうことですか」

「AEDが……解析を、拒否しています」彼女の顔が、少し青かった。でも——目が、違った。顔は青いのに、目だけが、どこか落ち着いていた。「犬の心電図は、人間と波形が違います。このAEDは——人間用なので」

「じゃあ」俺は言った。「使えないっていうことですか」

「……はい」

「ルーカスの心臓が動いているのに」

「はい」

「ルーカスは今、死にかけているのに」

「……」

「使えないっていうことですか」

 彼女は答えなかった。

 俺は、AEDを見た。白いケース。緑のランプ。さっきまで点滅していたランプが、今は静かに、ただそこにある。

 何かが、俺の中で切れた。

「ふざけるな!」

 声が出ていた。叫んでいた。四十八年間、他人の前でこんな声を出したことがなかった。でも出た。止められなかった。

「命を救う機械だろう! 何のためにあるんだ! 何のために公園に置いてあるんだ! 犬は救わなくていいっていうのか! ルーカスは死んでいいっていうのか!」

 AEDが、また鳴った。

 「解析できません」

 同じ声。同じ言葉。俺の怒鳴り声にも、何も応じない。ただ繰り返す。

 俺は、その場に崩れ落ちた。

 処置台の横に、膝をついた。ルーカスの頭に手を当てた。温かかった。まだ温かかった。

「ルーカス」と呼んだ。「ルーカス。俺はここにいる」

二 その前の夜(御子柴汐里)

 私が獣医師になろうと決めたのは、十六歳のときだった。

 飼っていたビーグルが死んだ。名前はコムギ。十三歳だった。老衰で、最後は苦しそうだった。動物病院に連れていって、先生に「もう時間の問題です」と言われた。家に連れて帰って、布団の上に寝かせて、家族みんなで傍にいた。

 朝、息が止まっていた。

 泣きながら、私はなぜか——その動物病院の先生のことを考えていた。あの先生は、コムギに何もできなかった。でも——できないと知りながら、傍にいることを教えてくれた。帰り際に言った。「看取ることも、医療です」と。

 それが、獣医師になりたいと思った理由だ。

 できないことがある。でも——傍にいることはできる。その傍にいる技術を、学びたかった。

 大学を出て、研修医として地方の動物病院に入ったとき、最初に担当した緊急症例は、ラブラドール・レトリバーだった。

 夜中の一時に飼い主が連れてきた。呼吸が浅い。チアノーゼが出ている。心拍が乱れていた。担当した先輩獣医師が、私に除細動器のパドルを渡した。

「やってみろ」

 手が震えた。動物用の除細動器は、学校で習っていた。パドルを当てる位置も、出力も、手順も、頭の中にあった。でも——実際に犬の胸に当てるとき、手が止まった。

 先輩が横から引き取った。手慣れた動作だった。二回、通電した。

 ラブラドールは助からなかった。

 死因は心筋炎だった。飼い主は六十代の男性で、十二年一緒に暮らしてきたと言った。処置室の外の椅子に座って、何も言わなかった。ただ座っていた。

 先輩に後で言われた。「お前が止まった三秒が、惜しかったかどうかは分からない。でも止まったことは事実だ。次は止まるな」

 止まるな。

 その言葉は正しかった。でも——止まった理由が、私には分かっていた。怖かったのではない。間違えるのが怖かったのでもない。

 正しいやり方で通電して、それでも助からなかったとき——この手が、その事実を抱えることができるのか。それが怖かった。

 動物医療には、助けられる命の限界がある。そのことは学校で学んだ。でも——実際にその限界に手が届いたとき、体が知る感覚は、言葉とは全く違った。

 帰り道、私は泣いた。

 なぜ泣いているのか分からなかった。ラブラドールのためか。飼い主の顔のためか。自分の手が止まったためか。それとも——動物医療という仕事の、どうにもならない部分を初めて体で知ったためか。

 多分、全部だった。

 大学を出て、病院に入って、五年が経ったころ、私はある夜、一頭の柴犬が心停止で運ばれてくる場面に立ち会った。

 飼い主が公園でAEDを持ってきた。使えなかった。当然だ。人間用だから。

 私は胸骨圧迫で繋いだ。間に合った。柴犬は助かった。

 でも——助かった後、私はずっと考えていた。

 なぜ、犬用のAEDがないのか。

 聞けば簡単に分かる話だった。心電図の波形が違う。心拍数が違う。毛が邪魔をする。体格が犬種で全然違う。人間用のアルゴリズムは、その全部を「エラー」として弾く。

 技術的な問題だ。でも、技術的に解決できない問題ではない。

 私はその夜から、調べ始めた。

 まず文献を当たった。英語の論文データベースで「canine defibrillation」「veterinary AED」と入れると、二十本以上の文献が出てきた。多くはアメリカ、イギリス、ドイツからの報告だった。

 一九九〇年代から、犬の心電図を解析するアルゴリズムの研究は断続的に続いていた。一九九八年にカリフォルニア大学のチームが、犬の心室細動を人間用AEDのアルゴリズムで検出した実験の論文を出している。結果は「検出精度五十三パーセント」。人間に対しては九十五パーセントを超えるものが、犬では半分しか機能しなかった。

 その後、二〇〇六年にドイツの研究チームが、犬専用の解析アルゴリズムを試作した報告を出した。精度は七十八パーセントまで改善していた。しかし——製品化の報告はなかった。論文は読まれ、引用され、そこで止まっていた。

 なぜ止まるのか。

 理由は一つではない。医療機器の認可は各国で異なる。動物用医療機器は、人間用に比べて認可のハードルが低い反面、市場規模が小さく、開発コストを回収できないと判断されやすい。さらに——除細動器は訓練なしに使うと危険だという議論もある。飼い主が使う、という前提自体が、現時点では想定されていない。

 想定されていない。

 その言葉が、頭に刺さった。

 想定されていないものは、開発されない。開発されないものは、存在しない。存在しないものは、使えない。使えないから——誰かの犬が、目の前で死んでいく。

 ならばなぜ——誰も解決しようとしないのか。

 三年前、私はメーカーに手紙を書いた。

 AEDメーカー、四社。それから厚生労働省の担当部署。動物用AEDの開発可能性について、意見を聞かせてほしいという手紙だった。データをつけた。犬の心電図サンプル、三十症例分。アルゴリズム改良の試算も添付した。

 返事が来たのは、一社だけだった。

 他の三社は、沈黙だった。厚生労働省の担当部署からも、返事はなかった。問い合わせを送った部署が所管外だったのか、担当者の判断で処理されたのか、それとも単に捨てられたのか——分からなかった。分からないまま、二ヶ月が経った。

 返事をくれた一社の担当者には、後日電話もした。担当者は丁寧だった。電話の声は穏やかで、「ご意見はしっかり上に伝えます」と言った。

「具体的に、どのくらいのコストで改良できると思いますか」と私は聞いた。

「現時点では申し上げられません」

「アルゴリズムの改良だけなら、ハードウェアの変更は不要です。ソフトウェアのアップデートで対応できる可能性があります。そういう観点から検討していただけませんか」

 しばらく間があった。

「ご指摘はもっともです。ただ、仮にアルゴリズムの改良が可能だとしても、動物モードを追加することで、人間への解析に何らかの影響が出ないかという検証が必要になります。その検証には相当な時間とコストがかかります」

「つまり——やろうと思えばできる、ということですか」

 また間があった。今度は長かった。

「……技術的な可能性については、否定できません」

 否定できない、という言葉が残った。できる、とは言わない。でも、できないとも言わない。

 その後の手紙に書いてあった言葉は、電話よりもずっと明確だった。

 動物用AEDの開発は、現行の医療機器認可制度の対象外となります。また、人間用AEDのアルゴリズムに動物解析モードを追加した場合、誤作動のリスクが生じ、人間の救命に遅れが出る可能性があります。人命救助を最優先とする観点から、現時点での開発は困難と判断しております。

 読んで、しばらく動けなかった。

 人命を最優先とする。

 その言葉が、刃のように刺さった。刺さって、そのまま残った。

 人命を最優先にするということは——動物の命を、後回しにするということだ。それは選択だ。誰かが選んだ。でも誰も、その選択を「した」とは言わない。ただ制度が、ただ優先順位が、ただコストが——そういう言葉の後ろに隠れて、選択だけが残っている。

 顔のない選択が、命の順番を決めている。

 その年の冬、私は別の獣医師たちと話した。

 学会の懇親会だった。酒が入っていた。話が盛り上がった。

「動物用AEDがあれば、救える命が増えると思いませんか」

 私が言うと、みんな少し間を置いた。

「理想論だけどね」と年配の先生が言った。

「理想じゃなくて、技術的に可能だと思います。データもある」

「技術の問題じゃなくて、お金の問題でしょ」と別の先生が言った。「誰がコストを持つのか。保険適用もない。飼い主が払える金額じゃない」

「でも——」

「あのね」と年配の先生が優しく言った。「私たちは毎日、目の前の命と向き合っている。それで精一杯だ。社会制度を変えるのは、政治家の仕事だよ」

 その言葉が、ひどく正しく聞こえた。

 正しく聞こえたから——余計に、許せなかった。

 精一杯というのは免罪符ではない。精一杯やっている間に、誰かの命が見えない場所に置かれている。

 翌年の春、私は学会発表を申し込んだ。

 テーマは「動物用除細動アルゴリズムの開発可能性と倫理的課題」。指導教員に相談した。

「それは医療倫理の問題ではなく、政治の問題だ」と言われた。「学術論文として発表する根拠が薄い」

「心電図データは三十症例以上あります。アルゴリズムの改良可能性を示す数値も出ています。これは科学の問題です」

「科学の問題だとしても」と指導教員は言った。「医療機器メーカーを批判することになる。製薬業界との関係がある。あなたがまだ若手であることも考えなさい。矢面に立つのは、もう少し地位ができてからでいい」

 もう少し地位ができてから。

 その言葉が、頭に残った。

 地位ができてから声を上げることは、今は黙ることだ。今黙っている間も、どこかで犬が倒れている。飼い主がAEDを持って走っている。機械がエラーを吐いている。

 それでも——私は発表を取り下げた。

 指導教員の言葉が正しいかもしれないと思った。今の私が声を上げても、誰も聞かないかもしれない。地位のない若手獣医師の発表は、埋もれる。

 その方が怖かった。

 声を上げて、無視されることが。怒鳴って、黙殺されることが。

 だから——黙った。

 発表を取り下げた夜、私は一人で病院に残った。

 論文の続きを書こうとしたが、手が動かなかった。

 窓の外に、公園が見えた。

 外灯の下に、AEDのボックスがある。緑のランプが点滅している。

 あの中に、何が入っているか、私は知っている。人間を救うための機械。犬を救えない機械。正確には——犬を「エラー」と判断する機械。

 ボックスの鍵は、私のポケットにあった。

 設置の立ち会いをしたとき、管理用の合鍵を預かっていた。本来は区に返すべきだったが、書類の手続きが遅れていた。二週間、そのままにしていた。

 私はその夜、外に出た。

 コートを着て、手袋をして、公園に入った。夜の十一時。人がいなかった。

 ボックスの前に立った。

 緑のランプが、静かに点滅していた。

 解析できません。

 その音が、頭の中でした。まだ実際には聞いたことがなかった。でも知っていた。想像できた。犬を連れた飼い主がこのAEDを使おうとしたとき——機械はそう言う。解析できません、と。あなたの犬の心臓は、私には読めません、と。

 私はボックスを開けなかった。

 三分ほど、ただ立っていた。

 それから、帰った。

 その次の夜も、来た。

 またボックスの前に立った。開けなかった。

 その次の夜も来た。

 五日目の夜、私は初めてボックスを開けた。

 AEDを取り出した。電源は入れなかった。ただ、手に持った。

 軽かった。こんなに軽いのか、と思った。こんなに軽い機械が、命を左右する。

 電源を入れた。設定メニューを開いた。

 人間用AEDの多くは、心電図解析の感度設定を変更できる。これは本来、体格差や電極の密着度のばらつきに対応するための機能だ。感度を上げると——通常の犬の心電図でも、「要解析」ではなく「解析不能」として弾く確率が上がる。

 設定画面を見た。

 変えようとした。

 変えなかった。

 元に戻して、ボックスに戻して、帰った。

 その週、私は一頭の猫を看取った。

 十五歳のメインクーン。腎不全だった。飼い主は五十代の女性で、十五年、一人で育ててきた。最後の夜、病院に泊まった。私も病院にいた。夜中の二時ごろ、猫の呼吸が変わった。

 飼い主に声をかけた。

「もうすぐです」

 飼い主は猫の頭を撫でながら、泣かなかった。ただ、名前を呼び続けた。

「チャコ、チャコ」

 チャコは、その声を聞きながら、逝った。

 飼い主が私を見た。

「先生、ありがとうございました」

 私は何も言えなかった。

 何もできなかった。腎不全は止められなかった。でも——傍にいた。その傍にいた時間が、あの人にとって何かだったとしたら。

 十六歳のとき聞いた言葉が、頭に戻ってきた。

 看取ることも、医療です。

 病院を出て、公園に行った。

 ボックスを開けた。

 設定を変えた。

 今度は——変えた。

 手が震えていた。心臓が速かった。ルーカスの心電図より、きっと速かった。

 これは正しいことではない、と分かっていた。分かっていて、やった。

 なぜやったのか。

 チャコの飼い主の顔が、頭にあった。それだけではない。柴犬の飼い主の顔も。AEDを持って病院に飛び込んできた、あの夜の顔も。

 みんな、黙って終わった。怒らなかった。「そういうものか」と受け入れた。

 私も、そうだった。

 メーカーへの手紙。学会発表の断念。懇親会での沈黙。全部、受け入れた。

 でも——受け入れることと、納得することは、違う。

 私はずっと、納得していなかった。

 誰かが怒鳴ってくれれば、と思っていた。私の代わりに。私には怒鳴る場所がなかった。地位がないから。若手だから。証明が足りないから。でも——怒鳴るべき怒りは、確かにあった。

 だから——誰かに、怒鳴ってもらいたかった。

 機械のエラー音を聞いて。あの「解析できません」を聞いて。それでも黙るのか。それとも——声を上げるのか。

 でも——その論理は、後になって振り返るたびに、ひどく歪んで見える。

 誰かに怒鳴ってもらうために、誰かの犬を危険にさらしていい理由にはならない。「元に戻せる」と心のどこかで思っていたことも、自分を安心させるための言い訳だったと今は分かる。元に戻せたとしても、その間に何かが起きたら——その責任は、私が負う。負えるものではなかった。

 ただし。

 ただし——来るとしたら、犬を連れた飼い主が来る。その犬が、本当に危険な状態でくる可能性がある。

 その命のリスクを、私は知っていた。

 知っていて、設定を変えた。

 問題を世に問いたかった——それは本当だ。でも、その方法は間違っていた。その二つは、切り離せない。切り離して、動機だけを抱えることは、私には許されない。それが、今も答えの出ない部分だ——いや、正確には、答えは出ている。間違いだった。ただ、それを認めることと、なぜそうしたかを理解することが、私の中でまだ折り合っていない。

 あの夜、男が駆け込んできた。

 三十二キロのゴールデン・レトリバーを抱えて。右手に——あのAEDを持って。

 私は一瞬、止まった。

 来た、と思った。

 でも同時に——顔が青ざめた。

 来てしまった、とも思った。

 私が望んでいたことが、起きている。でも——これは、私が想像していたよりずっと、リアルだった。三十二キロの犬。意識がない。脈が弱い。これは思考実験ではない。これは、今ここにある命だ。

 私は自分が何をしたのかを、もう一度、正確に理解した。公共のAEDの設定を無断で変えた。その機器が今、ここにある。この犬に使われようとしている。私の行為が、この命に直接触れようとしている。

 遅かった、と思った。今更だった。

 処置台に乗せながら、私の中で二つの声がせめぎ合っていた。

 今すぐ言え。あのAEDは使えない。自分が設定を変えた。正直に言って、胸骨圧迫に切り替えろ。

 待て。まだ分からない。パッドを貼れば、エラーが出る前に解析できる可能性もある。そもそも通常の設定でも、犬には使えない。一度試せ。

 二つ目の声は、嘘だった。

 通常の設定でも使えないことは、知っていた。私が変えた設定は、エラーが出やすくなるだけで、結果は同じだ。

 それでも——二つ目の声を選んだ。

 パッドを貼る位置を確認した。毛をかき分けた。前肢のつけ根の後ろ。大型犬の心臓はここにある。

 電源を入れた。

 「解析できません」

 その音が部屋に響いた瞬間、私は——自分が何をしたのかを、完全に理解した。

 男が怒鳴った。

「ふざけるな!」

 その声の大きさが、予想を超えていた。

 予想を超えて——痛かった。

 胸に刺さった。刺さって、抜けなかった。

 私はAEDを脇に置いた。両手をルーカスの胸に当てた。圧迫を始めた。

 数を数えた。一、二、三、四。止まらなかった。

 止まれなかった。

 死なせてはいけない。それだけが、頭にあった。命の重さを天秤にかけたのは私だ。でも——この命を、私は終わらせない。絶対に終わらせない。

 汗が出た。額から、背中から。

 「ふざけるな」という声が、頭の中でこだましていた。

 その声は——正しかった。

 私に向けられた怒りではない、と分かっていた。機械に向けられた、社会に向けられた怒りだ。でも——機械を設定したのは私だ。だから——私に向けられた怒りでもある。

 受け取った。

 でも——受け取るだけでは、足りない。

 数を数えながら、私はそのことを知っていた。一、二、三、四。止まらずに動かしながら、頭の別の場所で、ずっとそのことを考えていた。この怒りを受け取ることと、あの設定変更が正しかったことは、全く別の話だ。正しくなかった。ルーカスが助かっても、助からなくても——私がしたことの正否は変わらない。

 命が助かれば、方法は問われない——そう思いたい自分が、どこかにいた。

 でも、それは違う。一番危険な自己欺瞞だ、と私は知っていた。

三 何もできなかった

 白衣の女性が動いていた。

 俺が膝をついてルーカスの名前を呼んでいる間、彼女は動いていた。AEDを脇に置いて、両手をルーカスの胸に当て、圧迫を始めた。一定のリズム。止まらない。

「先生」

「喋らないでください。数えています」

 俺は黙った。

 彼女の手が動き続けた。白衣の袖が揺れた。額に汗が浮いた。

 俺は何もできなかった。

 ——何もできなかった。

 その四文字が、今でも時々、夜中に目が覚めたとき頭の中で鳴る。

 俺はそれなりに生きてきたと思っていた。そう、それなりに。大したことはしていないが、人並みには。会社では課長まで上がった。たいした仕事ではないが、部下に慕われていた。

 父親としては、失格だった。

 娘が中学のとき、離婚した。元妻は今、横浜にいる。娘はもう二十三で、年に一度会うか会わないか。それは俺のせいだと分かっている。仕事ばかりで家にいなかった。いても、話さなかった。娘が何かを訴えようとするたびに、俺は「あとで」と言い続けた。気づいたら、娘は俺に何も言わなくなっていた。

 何がいけなかったのかを考え続けて、答えが出ないまま、十年が経った。

 だから——ルーカスだった。

 離婚して、一人になって、マンションに帰ると静かすぎて耐えられなかった。そのとき、近所のブリーダーが子犬を譲ってくれた。ゴールデン・レトリバーの仔犬。手のひらに乗るくらい小さかった。

 俺はそいつに、ルーカスと名付けた。理由はない。なんとなく、強そうな名前だと思った。

 七年が経った。ルーカスは三十二キロになった。毎朝起きるたびにルーカスが尻尾を振って待っていて、それが——俺を、朝に繋ぎとめていた。

 あの夜、俺は何もできなかった。

 機械は使えなかった。医療の知識もなかった。体は大きいが、それは何の役にも立たなかった。AEDを持って走ってきたことだけが、俺の全てだった。走ってきて、処置台に乗せて、叫んで、怒鳴って、泣いて——それだけだ。

 白衣の女性の手が、ルーカスの命を繋いでいた。俺ではない。

 俺はただ、傍にいた。

 傍にいることしか、できなかった。

 それは——娘のそばにいた頃も同じだった、と後になって気がついた。何かしてやりたかった。でも何をすればいいか分からなかった。だから何もしなかった。傍にいることと、何もしないことを、俺はずっと混同してきた。

 ルーカスの目が、かすかに開いた。

 女性が止まらずに言った。「脈が戻ってきた」

 俺は「よかった」と言おうとしたが、声が出なかった。

 声が出ない代わりに、涙が出た。

 四十八年間、人前で泣いたことがなかった。感情を表に出すのが恥ずかしかった。だから娘にも妻にも——その泣き顔を、見せなかった。泣かなかったから、分かってもらえなかった部分がある、と今は思う。

 でも、あの夜、俺は泣いた。

 床にしゃがんで、ルーカスの頭を撫でながら、泣いた。

 廊下に出た。

 壁に背中をつけて、床に座り込んだ。足が震えていた。

 白衣の女性が出てきた。名札に「御子柴汐里」と書いてあった。

「落ち着きましたか」

「……すみません。さっきは怒鳴って」

「気にしていません」本当に気にしていない顔だった。「よくあることです」

 よくあること。

 その言葉が、少しだけ引っかかった。こんな夜が、よくあるのか。それとも——怒鳴られることが、よくあるのか。どちらの意味で言ったのか、俺には分からなかった。

「先生が助けてくれた」と俺は言った。「俺は何もできなかった」

「走ってきてくれた」御子柴は言った。「一人では無理だった」

 俺はその言葉を素直に受け取れなかった。

「走ってきただけです」

「それで十分です」

「十分じゃなかった」俺は床を見た。「機械が使えなかった。俺の手には何もなかった。あなたの手がなければ、ルーカスは死んでいた」

 御子柴は何も言わなかった。

 廊下の奥で、犬が低く鳴いた。

「なぜ」と俺はゆっくり言った。「AEDは——ルーカスを解析できなかったんですか」

四 存在しない心臓

 御子柴が教えてくれた。

 犬の心電図は人間と波形が違う。心拍数が違う。人間の安静時心拍は六十から百回。でも犬は八十から百四十回——ルーカスみたいな大型犬でも、人間より速い。AEDのアルゴリズムはその速さを、人間の「異常」として弾く。

 それだけじゃない。毛がある。分厚い毛が、電極の密着を邪魔する。心臓の位置が、犬種によって違う。小型犬と大型犬では押し方も違う。人間用に作られた機械には、そのどれも——最初から、想定されていなかった。

 俺はその説明を廊下で聞きながら、一つのことだけを考えていた。

 ルーカスの心臓は、あの機械にとって——存在しなかった。

 動いていた。確かに動いていた。モニターにも映っていた。なのに機械はそれをエラーだと言って、拒絶した。

 解析できません。

 認識されないものは、存在しないのと同じだ。

 あの毛の厚さ。指で探った、心臓の位置。それは人間と違う。でも——違うから、解析しなくていいということにはならない。違うから、存在しないということにはならない。

 それは機械だけの話ではない、と思った。

 俺は娘が中学のころ、娘の気持ちを解析できなかった。娘が何を望んでいるのか、何に傷ついているのか、信号は出ていたはずだ。見えていたはずだ。でも俺は——エラーだと思って、流した。忙しいから。分からないから。怖いから。

 解析できませんと言い続けて、気づいたら娘は俺に何も言わなくなっていた。

 俺はAEDを責めていた。でも——俺にも、同じことをしてきた記憶がある。

 離婚したのは、娘が中学二年の秋だった。

 元妻が出ていった後、俺は娘と二人で一週間、そのマンションに残った。親権は元妻が持つことになっていた。荷物をまとめる一週間だった。

 娘は小学校低学年のころ、よく俺の膝に乗ってきた。テレビを見るとき、本を読むとき、理由もなく寄ってきた。それがいつからかなくなっていた。いつからかは分からない。気づいたら、なくなっていた。

 思い出せるのは、娘が小学校三年のころの夜のことだ。

 珍しく俺が早く帰れた日があった。娘がダイニングで何か絵を描いていた。

「何を描いてるんだ」と俺は聞いた。

「犬」娘は言った。顔も上げずに。

「飼いたいのか」

「……うん」

「難しいな。お父さんは忙しいから」

 娘がペンを置いた。俺を見た。その目に何があったのか、俺はちゃんと見ていなかった。コートを脱ぎながら、別のことを考えていた。仕事のことか、明日の会議のことか。

「そっか」と娘は言って、また絵を描き始めた。

 それだけだった。

 その夜のことを、今になって思い出す。娘は何を言いたかったのか。ただ犬が欲しかっただけなのか。それとも——もっと別のことを、俺に聞いてほしかったのか。

 解析できなかった、というのは——こういうことだと思う。信号は出ていた。でも俺は、受け取らなかった。

 荷物をまとめる最後の夜、娘が台所に立って何かを作っていた。カレーだった。俺が好きだったからだと後になって気づいたが、そのときは「急に何だ」と思っただけだった。テーブルに座って、二人で食べた。娘は俯いていた。俺も俯いていた。

「お父さん」と娘が言った。

「何だ」

「……何でもない」

 それで終わった。

 今でも、あのとき娘が何を言おうとしていたのか分からない。分からないまま、娘は翌日、元妻のところへ行った。

 それから三年が経ったころ、娘がスマートフォンを持った。

 LINEのアカウントを教えてもらったが、俺の方からは一度も送らなかった。

 送ろうとしたことは、何度もあった。

 ルーカスが初めて砂浜を走った日、写真を撮った。スマートフォンを開いた。娘のアイコンを押した。「元気か」と打った。送信ボタンの前で、止まった。

 返事が来なかったら、どうしよう。

 それだけのことが、俺には越えられなかった。

 保存せずに閉じた。その夜、ルーカスと並んでソファに座って、俺はずいぶん長いこと、その画面を見ていた。送れなかった文字を。消えてしまった「元気か」を。

 機械に怒鳴ったあの夜、俺が本当に怒鳴っていたのは——もしかしたら、そういう自分に対してだったのかもしれない。解析できないことを理由に、信号を拒絶してきた、自分自身に対して。

 家に帰ったのは、夜中の二時過ぎだった。

 テーブルの上に、AEDを置いた。病院で返してくださいと言われなかったから、そのまま持って帰っていた。

 椅子を引いて、向き合って、座った。

 AEDを、見た。長いこと、見た。

 白いケース。緑のランプ。スタンバイ状態。

 この機械は、何も悪くない。設計通りに動いた。人間を救うために作られて、人間を救うために動いた。それだけだ。

 でも——その「それだけ」の中に、ルーカスは入っていなかった。

 誰かが入れなかったのか。誰も考えなかったのか。

 どちらにせよ——俺たちが作ったものが、ルーカスを弾いた。

 俺は深夜、ウイスキーを一杯飲んだ。寝られなかった。眠ろうとするたびに、あのエラー音が鳴った。

 解析できません。

 解析できません。

 解析できません。

 繰り返す。止まらない。まるでまだ機械が動いているみたいに、頭の中で繰り返す。

 俺は夜明けまで起きていた。

五 警察に行った理由

 三日後、警察に行った。

 なぜ行ったのか。今でもうまく説明できない。

 誰かに、言いたかった。それだけだ。

 機械に怒鳴っても、何も返ってこなかった。御子柴先生は親切だったが、答えを持っていなかった。ルーカスは回復しつつあったが、俺の頭の中のエラー音は止まらなかった。

 言葉を、どこかに置かないと、俺が壊れそうだった。

 届け出の欄に、できる限り書いた。AEDが動物に使えないのは、技術の問題だけなのか。誰がそれを決めたのか。誰が変えられるのか。これは問題なのか、それとも当たり前のことなのか。

 書きながら、自分が何を言いたいのか分からなくなってきた。

 ただ——これは変だ、という感覚だけはあった。

 ルーカスの心臓は動いていた。なのに機械に存在しないと言われた。それは変だ。変なことに、黙っていたくなかった。

 若い警官が読んで、困った顔をした。

「これは事件にはあたらないので」

「分かっています」

「では、なぜ」

「言いたかっただけです」

 そう言ったら、警官はもっと困った顔をした。

 俺も困っていた。でも、来てよかった、と思った。紙に書くことで、頭の中が少し整理された気がした。

 一週間後、刑事が来た。

 桐島悠介といった。四十二歳。スーツが古い。少し疲れた顔の男だった。来るなり飴を口に入れた。

「届け出を読みました」

「事件じゃないって言われたのに」

「気になった」桐島はあっさり言った。「話を聞かせてください」

 俺は話した。

 ルーカスが倒れた夜。AEDを持って走ったこと。エラー音のこと。御子柴先生の手のこと。俺が何もできなかったこと。

 桐島はメモを取りながら、ほとんど喋らなかった。

 俺が話し終わったとき、桐島は飴を探した。鞄の中を探したが、なかった。口が少し寂しそうだった。そのまま数秒、黙っていた。

「黒沢さん」桐島は言った。「御子柴先生に話を聞きに行きます。一緒に来ますか」

「なぜ俺が」

「あなたの問いだから」

六 桐島の仕事

 警視庁に戻った桐島悠介は、机の引き出しから飴を三つ取り出して、全部口に入れた。

 口が甘くなった。少しだけ、頭が動く気がした。

 黒沢の届け出を、もう一度読んだ。事件ではない。そうは分かっている。でも——何かが引っかかった。長年の刑事の勘、というやつを桐島は信じていなかった。勘は大抵、見落とした事実が形を変えたものだと思っていた。

 引っかかっているのは、一点だ。

 公園に設置されていたAEDを、黒沢は「反射的に持ってきた」と言った。

 それは自然な行動だ。しかし——あのAEDは、どの公園に設置されたものか。獣医科病院の目の前の公園だ。

 偶然かもしれない。でも——確認するくらいはできる。

 その夜、桐島は机に一人残って、検索を始めた。

 「動物用AED」「犬 除細動」「veterinary defibrillator」。英語でも調べた。

 出てきたのは、主に海外の文献だった。アメリカ獣医心臓学会(ACVIM)の二〇一九年のガイドラインに、犬の心肺蘇生における除細動の項目があった。プリントアウトして読んだ。人間用AEDの使用については「心電図波形の相違により、犬への適用は現時点では推奨されない」と明記されていた。推奨されない、という言い回しが引っかかった。不可能、ではない。推奨されない、だ。

 イギリスの動物慈善団体が二〇二一年に出した報告書もあった。タイトルは"Cardiac Arrest in Dogs: A Case for Veterinary-Specific AED Development"。概要だけだったが、英国で年間約四万頭の犬が屋外で心停止を起こすと推定されており、そのうち飼い主が何らかの蘇生を試みたケースの半数以上で、人間用AEDが使用または使用が試みられていた、とある。結果は全てエラーまたは解析不能だった。

 桐島は紙にメモした。

 四万頭。半数以上。全てエラー。

 数字にすると、確かに見えるものがある。

 もう一つ、気になる記事があった。オーストラリアの獣医師協会が二〇二〇年に出した声明で、「動物用除細動器の公共設置を検討するよう行政に要請する」という内容だった。要請、という言葉が面白かった。要請したということは、まだ実現していないということだ。でも——そういう声が、どこかで上がっている。

 日本では。

 桐島は検索語を変えた。「日本 動物用 AED」。

 出てきたのは、ペット保険のサイトと、いくつかの個人ブログだった。学術的な資料は、ほとんどなかった。

 桐島は飴を一つ口に入れた。

 なるほど、と思った。

 声が上がっていない、のではないかもしれない。声が上がっても、どこにも届かなかっただけかもしれない。

 翌朝、桐島は学会データベースに問い合わせた。

 日本獣医循環器学会の事務局に電話すると、担当者は「学会誌の閲覧は会員のみですが、抄録集でよければ」と言って、直近三年分の発表テーマ一覧をメールで送ってくれた。

 スクロールしながら見ていくと——一件、気になるタイトルがあった。

 「動物用除細動アルゴリズムの開発可能性と倫理的課題」。

 発表年は二年前。発表者名の欄は空白になっていた。

 電話で確認すると「取り下げになった発表です」と言われた。

「理由は」

「記録にはありません。申請者からの申し出で取り下げ、とだけ」

 申請者の名前も教えてもらえなかった。個人情報、とのことだった。

 でも——タイトルと、取り下げの事実は残っていた。

 誰かが、この問題を学術的に問おうとして、やめた。

 桐島は抄録集を印刷した。

 翌日、桐島はAEDのシリアル番号を照会した。

 設置台帳を管理しているのは区の健康推進課だった。担当者は若い女性で、桐島の警察手帳を見て少し驚いた顔をしたが、すぐに端末を操作してくれた。

「このシリアル番号の機器は……」担当者が画面を見た。「三丁目の○○公園に設置されたものですね。設置は二年前の十月」

「設置立ち会いの記録は」

「あります。設置業者と、近隣施設の代表者が立ち会いをしています」

「施設の代表者の名前は」

 担当者がスクロールした。

「御子柴汐里、と書いてあります。獣医科病院の、獣医師の方ですね」

 桐島は飴を舌の上で転がした。

「立ち会いの後、管理用の合鍵の引き渡しはありましたか」

「はい。近隣施設に一本ずつ配布する規定になっています。この場合は、獣医科病院に」

「返却記録は」

 担当者がまたスクロールした。少し間が空いた。

「……返却の記録は、ないですね。未返却のままになっています」

 桐島は何も言わなかった。

 飴を噛んだ。甘さが、口に広がった。

 その足で、AEDメーカーに電話した。

 技術部門に回してもらうまで十分かかった。担当者は最初、警察からの問い合わせに警戒していたが、桐島が「製品の不具合調査ではなく、設定確認の問い合わせです」と言うと、少し声が和らいだ。

「このシリアル番号の機器の、心電図解析感度の設定履歴を確認できますか」

「……機器に直接アクセスするか、ログデータを取得すれば確認できます。ただ、設定変更のログは、機器を回収しないと」

「機器は今、ご遺族——いえ、当事者の手元にあります。任意で提出してもらえれば」

「設定変更があった場合、どういう意味になりますか」と担当者は聞いた。

「まだ分かりません」と桐島は正直に言った。「分かったら、また連絡します」

 電話を切る前に、もう一つだけ聞いた。

「心電図解析の感度設定は、どういう人間が変えられますか。専門知識がいりますか」

「設定画面自体は、機器の操作メニューから入れます。ただし——設定の意味を理解していないと、どこを何のために変えるのかは分かりません」

「つまり、専門知識がある人間なら、変えられる」

「……はい。医療機器の知識があれば」

 電話を切った。

 桐島はしばらく、窓の外を見た。

 曇天。東京の秋。

 御子柴汐里。三十代の獣医師。動物の命を救うために訓練してきた人間。あの夜、ルーカスを手で繋いだ人間。

 なぜ、合鍵を返さなかったのか。

 なぜ、感度設定が変わっていたとしたら——誰が変えたのか。

 答えは、まだない。

 でも——桐島には、一つだけ確かなことがあった。

 もし御子柴が設定を変えていたとしても、あの夜、彼女は止まらなかった。手を動かし続けた。ルーカスを繋いだ。

 悪意で動く人間は——そこまでしない。

 では、何が御子柴を動かしたのか。

 それが分かるまで、桐島はこの件を閉じるつもりがなかった。

七 御子柴の手

 病院の研究室に通された。本が多かった。獣医学の教科書だけでなく、動物の福祉についての本、哲学書が混ざって並んでいた。

 一冊、背表紙が気になった。抜き出しかけて、やめた。タイトルだけ読んだ。「社会実験の倫理」。隣には「内部告発の記録」とある。こういう人間が、この問題を考えているのだな、と思った。

 いや——こういう人間が、この問題を「やってきた」のかもしれない、と思った。でもそれが何を意味するのか、そのときの俺には分からなかった。

 部屋に入って、俺は最初にルーカスのことを聞いた。

「今日、立ちました」御子柴は言った。「後遺症はないかもしれない」

 俺は椅子に座る前に、少しのあいだ目を閉じた。

 よかった。本当に、よかった。

 桐島がいくつか質問した。御子柴が答えた。

 俺はほとんど喋らなかった。

 聞きながら、御子柴の手を見ていた。

 白くて細い手。あの夜、ルーカスの胸を押し続けた手。止まらなかった手。汗をかきながら、数を数えながら、止まらなかった。

 俺は何もできなかった。でもこの手は、動いた。

 羨ましいと思った。感謝もした。でも同時に——胸の奥に、何か重たいものがあった。

 俺にも手はある。二本、ちゃんとある。ただ、何をすればいいのか分からなかった。知識がなかった。あの夜、俺の手は完全に遊んでいた。ルーカスの頭を撫でることしか、できなかった。

 撫でることしかできない手。

 それは娘のそばにいた頃も同じだった。何かしてやりたかった。でも何をすればいいか分からなかった。だから何もしなかった。

 話が一段落したとき、桐島が俺を向いた。

「黒沢さん、何か聞きたいことは」

「一つだけ」と俺は言った。

 御子柴を見た。

「先生は、あの夜——悔しかったですか」

 御子柴が、少し止まった。

「AEDが使えなかったとき」と俺は続けた。「俺は怒鳴りました。先生に怒鳴ったけど、本当は機械に怒鳴っていた。先生は——どうだったんですか」

 御子柴は眼鏡を外した。目元を押さえた。

 しばらくして、言った。

「悔しかったです」

 声が、初めて揺れた。

「AEDという道具があったのに、使えなかった」

 使えなかった。

 その言葉の響きが、少しだけ——変だった。

 使えなかった、ではなく、使わなかった、と言っているように聞こえた気がした。でも聞き違いだろうと思った。声は揺れていた。目には、涙があった。

「胸骨圧迫しかできなかった。間に合いましたが——もし間に合わなかったら、と何度も考えました」

 御子柴は眼鏡を戻した。

「腹が立っています。今も。誰に、とは言えないけど」

 誰に、とは言えない。

 その言葉も、妙に残った。言えない、のか。それとも言わない、のか。

「俺と同じです」

「……同じです」

 部屋がしばらく静かになった。

 桐島が、また飴を探していた。見つからない。あきらめた。

 帰り際、御子柴がICUに連れていってくれた。

 ルーカスが横になっていた。電極はまだついていたが、目は開いていた。大きな、茶色の目。

 俺が近づいたら、尾がかすかに動いた。

「ルーカス」と呼んだ。

 返事はない。でも、俺を見ていた。ただまっすぐ、俺を見ていた。

 俺はしゃがんで、頭を撫でた。温かかった。

「怖かったな」と言った。「俺も怖かった」

 ルーカスの目が、ゆっくりと閉じた。

 眠るように。安心したように。

 俺は立ち上がったとき、御子柴が自分を見ているのに気づいた。

 ルーカスではなく、俺を。

 研究者が実験を観察するような目、と思った。でも次の瞬間、その目が伏せられた。気のせいだと思った。疲れていたから、何でもおかしく見えた。

 廊下に戻ったら、桐島がいた。壁に背中をつけて、ぼんやりしていた。口が少しだけ動いていた。飴の代わりに舌を動かしていた。

「刑事さん」と俺は言った。

「ん」

「俺は——あの夜、ルーカスのために何もできなかった」

 桐島が俺を見た。

「機械が使えなかったのは仕方ない。でも——俺には医療の知識がなかった。胸骨圧迫のやり方も知らなかった。三十二キロ抱えて走ることしかできなかった。叫んで、怒鳴って、泣いた。それだけだ」

 桐島は黙って聞いていた。

「それが」俺は言った。「ずっと、引っかかっている。AEDのことよりも——自分が、何もできなかったことの方が」

 しばらく沈黙があった。

「娘がいるんです」俺は続けた。「もう二十三になりますが、離婚してからほとんど会っていない。中学のころに別れて——その後も、何をすればいいか分からなくて、だから何もしなかった。あの夜と同じです。傍にいながら、何もしなかった」

 桐島は何も言わなかった。

 また沈黙があった。長い沈黙だった。桐島はその間、ずっと俺を見ていた。値踏みするのでも、哀れむのでもなく——ただ、見ていた。

 それから桐島は、鞄の中を探した。また飴を探しているのかと思ったが、違った。取り出したのは、小さな名刺だった。

「これ」と渡してきた。「俺の携帯番号です」

「……なぜ」

「分かりません」桐島は言った。「ただ——何かあったとき、どこかに言える場所があった方がいいと思っただけです。あなたも、ルーカスも」

 俺は名刺を受け取った。

「刑事さん」

「ん」

「走ることと、立っていることは——違いますよね」

 桐島はすぐには答えなかった。廊下の奥を見て、しばらく考えていた。

「違います」とだけ言った。

「それだけですか」

「それだけです」桐島は言った。「理由はいらない。違うというのが全部です」

 俺はその言葉を、ポケットに入れた名刺と一緒に、しまった。

八 解析できません、の意味

 それから四ヶ月が経った。

 ルーカスは完全に回復した。春になったら、また公園を走るようになった。

 娘に電話した。

 最初の十秒、沈黙があった。俺が「元気か」と言ったら、娘は「まあ」と言った。それだけだったが、電話を切らなかった。三十分、話した。内容はほとんど覚えていない。でも、三十分、話した。

 電話を切ったあと、俺はソファに座ったまま、しばらく動かなかった。

 何かが、動いた気がした。

 翌週、娘が来た。

 インターフォンが鳴ったとき、画面に映った顔を見て、俺は三秒、固まった。

「あけて」と娘は言った。「寒い」

 ドアを開けた。娘は黒いコートを着ていた。俺より少し背が高い。母親に似ている。

「急だな」

「急じゃないと来れないから」娘は言った。玄関に入りながら、足元を見た。ルーカスが尻尾を振っていた。「この子が倒れたって聞いた」

「誰から」

「お父さんが電話で言ってたじゃない」

 俺は覚えていなかった。三十分話した内容を、ほとんど覚えていなかった。でも——娘は覚えていた。

「元気になったよ」と俺は言った。「もう走れる」

 娘はルーカスの前にしゃがんだ。ルーカスが顔を舐めた。娘が笑った。久しぶりに見る顔が笑った。

「名前、ルーカスって言うんだ」

「ああ」

「なんで」

「強そうだから」

「……センスないね」

 俺も笑った。

 二時間、話した。

 ルーカスのこと。あの夜のこと。AEDのこと。機械が「解析できません」と言ったこと。俺が怒鳴ったこと。御子柴先生の手のこと。

 娘は黙って聞いていた。途中でコーヒーを自分で入れた。台所の場所を、なぜか知っていた。

「お父さん」娘は言った。「その先生、怪しくない?」

「怪しい?」

「AEDが使えないって最初から知ってて、でも使おうとした。それって——何かわざとじゃない?」

 俺は少し考えた。

「……そういえば」

「何」

「止まり方が、変だったんだよ。病院に駆け込んだとき。先生が、俺の腕の中を見て、一瞬止まった。でも——驚いた止まり方じゃなかった」

 娘がコーヒーを置いた。

「確認してたんじゃない? 来た、って」

 俺は何も言わなかった。

 娘の言葉が、頭の中で何かに引っかかった。

 来た、って。

 待っていた、ということか。

「でも」と俺は言った。「あの先生は——ルーカスを助けた。手を動かし続けた。もし全部わざとなら、なんでそこまでするんだ」

 娘はしばらく考えた。

「殺したかったわけじゃないから、じゃない?」

「じゃあ何がしたかったんだ」

「分からない」娘は言った。「でも——お父さんが怒鳴ったでしょ。あの『ふざけるな』って声。それが、その先生には必要だったのかもしれない」

 俺は娘を見た。

 二十三歳。十年、ほとんど会っていなかった娘が、俺の話を聞いて、そう言った。

「お前」と俺は言った。「賢くなったな」

「お父さんがバカなだけ」

 また笑った。

 二人で、笑った。

 御子柴から連絡が来たのは、桜が散った頃だった。

 「学会で発表することになりました。動物用除細動アルゴリズムの研究について。あの夜のことが、出発点になりました」

 俺は少し驚いた。あの夜が、誰かの出発点になっていた。

 「すごいですね。ルーカスが聞いたら喜ぶと思います」

 と返した。しばらくして、返信が来た。

 「ルーカスに伝えてください。あなたのエラー音が、私の問いの始まりでした、と」

 その一文を、何度も読んだ。

 エラー音が——問いの始まり。

 読んで最初は、感謝のメッセージだと思った。

 でも何度も読むうちに——妙な感覚がした。

 私の問いの始まり。

 あの夜は、俺が駆け込んだ夜だ。俺がAEDを持ち込んだ夜だ。偶然の夜だ。

 なぜ御子柴にとって、それが「問いの始まり」なのか。

 問いの始まりというのは——問う前から、問いがあった、ということではないのか。

 解析できません。

 あの乾いた音。あの抑揚のない声。

 あれは拒絶だと思っていた。

 でも——もし、あれが拒絶ではなく、問いかけだったとしたら。

 誰かが意図して放った、問いかけだったとしたら。

 俺は少し考えた。

 そして、考えるのをやめた。

 答えを知りたいような気もしたし、知りたくないような気もした。

 どちらにしても——あの夜、俺は走った。怒鳴った。声を上げた。それは本当だ。

 そしてルーカスは、生きている。

 それも、本当だ。

九 傍にいること

 夜、ルーカスと散歩した。

 公園の砂利道。外灯が足元を照らす。あの夜と同じ道。

 ルーカスは元気だった。走りたそうにしていたが、まだリードを短く持っていた。俺が心配なだけで、ルーカスはもう大丈夫なのだろう。それでも、俺は短く持った。

 ルーカスが鼻を地面につけながら歩く。匂いを嗅ぐ。立ち止まる。また歩く。

 俺はポケットに手を入れて、ついていった。

 あの夜から、俺は救命講習を受けることを決めた。

 もう知らない、は言い訳にしたくなかった。

 走ることしかできない人間が、走ることに加えて、もう一つだけできることを持つ。それだけでいい。それだけで、誰かの命に少し近づける。

 胸骨圧迫のやり方を覚えた。AEDの使い方を正しく学んだ。——人間用だということも含めて。限界を知ることは、その道具を本当に使うことと同じだ、と俺は思うようにしている。

 あの夜、俺は何もできなかった。

 それは本当だ。今でも、そう思っている。嘘をつくつもりはない。

 でも——一つだけ、できたことがある。

 走ってきた。ルーカスを抱えて、革靴で砂利道を走ってきた。それしかできなかったが、それをした。

 御子柴の手が、ルーカスを繋いでくれた。俺の手ではなかった。でも、俺が走らなければ、御子柴の手も届かなかった。

 何もできない人間が走ることと、何もできずに立っていることは——違う。

 それだけの違いで、命が繋がることがある。

 それだけの違いを、俺は信じている。

 ルーカスが突然、立ち止まった。

 何かの匂いを嗅いでいた。真剣な顔で、鼻をひくひくさせていた。

 俺は待った。

 急かさなかった。

 ルーカスが嗅いでいる何か——草の匂いか、動物の跡か、それとも俺には感知できない何かか——は、俺には分からない。

 分からなくていいと思っている。

 ルーカスの世界の全部を、俺が解析しなくていい。

 ただ——傍にいる。

 それを、俺は選んでいる。

 毎晩、選んでいる。

 ルーカスが顔を上げた。

 俺を見た。

 大きな茶色の目。

 その目の中に、何があるのか——俺には解析できない。

 解析できなくていい。

 解析できなくても——この目が、俺を見ている。

 それは——分かる。

 ルーカスが歩き始めた。

 俺もついていった。

 砂利が鳴った。外灯が揺れた。夜空に星があった。

 ふと、俺はしゃがんだ。

 歩くルーカスを止めて、胸に手を当てた。

 心臓が、動いていた。

 どくん、どくん、と——人間より少し速いリズムで、動いていた。あの夜、AEDが読めなかったリズム。機械がエラーだと言ったリズム。でも——これが、ルーカスのスタンダードだ。

 七年間、俺はこのリズムを知らなかった。

 知ろうとしなかった。

 今、初めて、手のひらで感じている。

 ルーカスが振り返った。何をしているんだ、という顔で、俺を見た。

 俺は笑った。

「覚えておくよ」と言った。「お前の心臓のリズム。今度は、ちゃんと覚えておく」

 ルーカスはしばらく俺の顔を見て、それから、また歩き始めた。

 頭の中で、あの音がした気がした。

 解析できません。

 でも今は——怖くなかった。

 解析できないものがある、ということを——俺は知っている。

 知っている人間が、走ればいい。

 走って、走って、扉を体で押し開ければいい。

 それだけで——何かが始まる。

 解析できません。

 それは終わりじゃない。

 始まりだ。

 ——誰かにとっての。

 それが誰の始まりだったのかを、俺はまだ、完全には分かっていない。

 でも——走った。それだけは確かだ。

 走ったことを、後悔していない。

あとがき

 黒沢篤は答えを持っていない。

 ただ、走った。

 それだけのことが、どれほどの意味を持つか——あなたが判断してください。

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