【創作大賞2026応募作】SKYDROP──空を、落とせ
あらすじ
2035年、AEDドローンの全国配備が義務化された日本。
毎年開催される「レスキューグランプリ(RGP)」の優勝チームには、全国の救命ネットワーク設計権が与えられる。
どこにドローンを飛ばすか。誰を先に助けるか。
その権限を、四連覇中の絶対王者・御堂玲二が握り続けている。
17歳の柳瀬奏汰は、AIに頼らない手動操縦の異端児。
弱小チームの最年少パイロットだ。義手のメカニックになった父が、かつてこの大会で何かを失った。
その理由を、奏汰はまだ知らない。勝てば、日本の空が変わる。
負ければ、何も変わらない。
決勝の空で、奏汰はある選択を迫られる。コントローラーを握る手が、震えた。
それでも、機体は飛ぶ。どこへ向かうかは、お前が決めろ。
「なぜ飛ぶ?」
「決まってる。お前に勝つために飛ぶ。
それが、一番多くの人を救う道だから」
2035年。日本。
改正航空法施行から五年。全国一七四一の市区町村に「AEDドローンチーム」の設置が義務化された。
ドローンは飛ぶ。毎日、どこかの空を。
しかし問題が生まれた。自治体によって、チームの実力に天と地ほどの差がある。財政豊かな都市部は最新機体を揃え、訓練も充実している。地方の過疎地域はボロ機体一台に予算ゼロ、事実上の形骸化だ。
そして二〇三三年、政府は「AEDドローン整備促進特別措置法」を成立させた。
これが全てを変えた。
毎年夏に開催される「レスキューグランプリ(RGP)」──飛行技術、AI制御、障害物回避、ルート最適化を競う大会の優勝チームに、翌年度から五年間、全国AEDドローン配備ネットワークの設計権が与えられる。
どこに機体を置くか。どのルートを優先するか。どの地域に予算を集めるか。
それを決める権限が、優勝チームの手に渡る。
つまりRGPで勝つことは、日本全国の「誰が先に助かるか」を決めることに等しい。
MIDOU AEROは四連覇中だ。
御堂財閥が運営するそのチームが設計したネットワークは、採算ベースで動いている。都市部優先、過疎地後回し。合理的だが、冷たい。
地方の老人たちが倒れても、ドローンは来ない。
それが今の日本の空だ。
◆ 主要キャラクター
柳瀬 奏汰(やなせ そうた) 17歳
東京都北区・赤羽AEDドローンチーム「AKABANE SKY」最年少パイロット見習い。
父・健一郎は元RGP最優秀パイロット。三年前の競技中の事故で右手を失い、今はメカニックとして働く。
奏汰の操縦スタイルは独特で、AIアシストをほぼ使わない完全手動型。デジタル全盛の時代に逆行する異端児。
父の事故の「本当の理由」を探りながら、ドローンが本当に人を救えるのかを自分の目で確かめたいと思っている。
鬼頭 律(きとう りつ) 18歳
AKABANEのAIエンジニア兼副操縦士。独自の経路最適化アルゴリズム「CROWS」の開発者。
口が悪く、感情を表に出さない。だが母親が心臓病で倒れた経験から、「ドローンが間に合えば命が救える」という信念を持つ。
奏汰の操縦データを無断でCROWSに学習させるほど、やり方はアウトローだが、技術の信念は本物だ。
三田村 朱音(みたむら あかね) 26歳
AKABANEのチームリーダー。元救急救命士。現場で何度も「間に合わなかった」経験を持ち、ドローン救急の世界に転身した。
冷静で的確な判断力を持つが、チームの責任者として「自分が判断を間違えたら、誰かが死ぬ」という重圧を常に抱えている。
柳瀬 健一郎(やなせ けんいちろう) 44歳
奏汰の父。義手のメカニック。
三年前の事故の真相を語らない。奏汰はそれを「隠している」と思っているが、真実は奏汰が想像しているものとまるで違う。
御堂 玲二(みどう れいじ) 19歳
MIDOU AEROのエース。四連覇中の絶対王者。
「ドローンで感情的な判断をするな。感情は機体を落とす」が信条。勝利至上主義者で、AKABANEの手動操縦スタイルを「非合理的」と切り捨てる。
RGPで四連覇したネットワーク設計は、経済合理性に基づいた冷徹なもの。過疎地は後回し。それが最善だと本気で信じている。
父・御堂隆造の影響下にある人物だが、その関係の実態は複雑だ。
第一話 「弱小チームの朝」
六月の荒川土手、午前五時。
奏汰の機体が落ちた。
正確には、落ちかけた。第三障害ゲートを抜けた直後、予期しない横風が機体を左へ押した。搭載AIが緊急介入しようとする。奏汰の親指がそれを手動でキャンセルした。
「キャンセルすんな!」後ろで律が叫ぶ。「今の風速で手動は無謀だ!」
「うるせー」
奏汰は右の人差し指一本でスロットルを微調整した。機体が揺れる。地面まで三メートル。二メートル。一メートル。
静止。
完璧なホバリング。砂埃も立てず、音も最小限。
「……」律が黙った。
「AIに頼ったら〇・三秒遅れてた」奏汰は機体を着陸させながら言った。
「理論上あり得ない」
「でも起きた」
タイムログを確認した律が唸った。「……二分〇四秒。AI制御ベストより五秒遅いが、手動としては化け物みたいな数字だ」
チームのコントロールテントで腕を組んでいた三田村朱音が、静かに言った。
「使える」
「使えない」律が即座に返した。「手動は不確定要素が多すぎる。大会コースはもっと複雑で、五秒の差は致命的だ」
「でもGPSジャミングエリアは」朱音が続けた。「AIが一番苦手な区間だ。そこだけ奏汰に委ねる。後はCROWSで組み立てる」
「……」律は何も言わなかった。
それが「認めた」ということだと、奏汰はわかった。
練習後、奏汰はガレージで父の背中を見ていた。
健一郎が義手でドライバーを使い、「AEROMED-7」の古いモーターユニットを点検している。
「今日の手動、見てたか」
「ああ」健一郎は目を上げなかった。「綺麗だった」
「父さんのRGP時代の映像、昔の大会配信で全部見た。俺、父さんの動かし方に似てるか」
「似てる」
「なんで? 誰にも習ってない」
「血だ」健一郎は短く言った。「それだけだ」
奏汰は少し間を置いた。
「父さん、RGP決勝で機体を落としたのは、本当に機体トラブルだったか」
健一郎の手が、一瞬だけ止まった。
「調査結果はそう出てる」
「父さんの口から聞いてる」
沈黙。ガレージの蛍光灯が唸っている。
「……今年のRGPに出たいなら、それを気にする必要はない」健一郎は作業を再開した。「勝つことだけ考えろ」
奏汰は返事をしなかった。
父の義手が、モーターの隙間に入り込んでいく。
奏汰はその手を見ていた。
カーボン製の義手だ。皮膚の色に近い塗装が施されているが、指の関節の動きが少し不自然で、握力が本物の手より弱い。細かいネジを締めるとき、健一郎はいつも少し時間がかかる。
三年前まで、そこには本物の右手があった。
大会の映像は何度も見た。決勝の最終コースを飛んでいた父の機体が、突然右へ流れて、フレームを外れる。その後、カメラは別のチームを追う。父がどう落ちたか、映像には残っていない。
「機体トラブル」。調査結果の言葉は冷たい。でも奏汰には、その言葉が正しいと思えたことが一度もなかった。
父は今、機体を修理する側にいる。飛ばす側には戻らない。ドローンに触れるたびに、義手の指が少しだけ遅れる。
なぜ飛ばないのか、聞いたことがある。一度だけ。
父は「飛ぶ必要がなくなった」と言った。それ以上は話さなかった。
奏汰は立ち上がり、ガレージを出た。
空はまだ暗かった。六月の夜明け前の青さだ。ドローンが飛ぶには早い時間だ。でも奏汰は空を見た。
勝つ必要がある。それだけは、はっきりしていた。
第二話 「王者の重力」
RGP予選会場、千葉・幕張。
AKABANEのピットは端の端だった。機体は三年落ちの「AEROMED-7」が二機、バックアップ一機。律のラップトップは画面端にヒビが入っている。
隣のピットを見た瞬間、奏汰は違う空気を感じた。
「MIDOU AERO」
真っ白なケース。最新型「AEROMED-X3」が三機。専任スタッフ六人。機体の表面に、細かいカーボンパターンが入っている。
御堂玲二はピットの中央に立ち、機体チェックをしていた。
白い作業着、薄手のジャケット。背が高く、手足が長い。顔は整っているが、表情がない。機体を確認する目は、感情のない機械的な視線だ。
奏汰が見ていると、御堂がこちらを向いた。
目が合った。
御堂は奏汰を上から下まで一度だけ見て、それから目を逸らした。
興味なし。完全な無視。
「あいつが御堂か」奏汰は言った。
「四連覇。去年の決勝は二位に三十秒差」律が答えた。「AI制御精度、ルート最適化速度、全ての計測値で規格外だ。お前みたいな手動馬鹿とは住む世界が違う」
「失礼なことを事実ベースで言うな」
「事実だから言ってる」
奏汰はもう一度、MIDOU AEROのピットを見た。
それからAKABANEのピットを見た。
機体の差は明らかだ。塗装の質、フレームの素材、モーターの世代。並べれば素人でもわかる。律のラップトップは画面にヒビが入っている。AKABANEのテントは骨組みが一本曲がっていて、風が吹くたびに軋む音がする。
でも奏汰は、それを見て気持ちが萎えるということがなかった。
なぜかはわからない。ただ、御堂の目が引っかかっていた。
興味なし、という目だった。格下を見る目ですらなかった。最初から視野に入れていない目だ。
あの目を変えたいとは思わなかった。ただ、あの目の前で飛んでやりたい、とは思った。それだけだ。
競技説明の前に、RGP運営委員会の委員長が壇上に立った。
「今年から、RGPの位置づけが変わります」
静まり返る会場。
「本年度より、優勝チームには翌年から五年間、『全国AEDドローン配備ネットワーク設計権』が付与されます。これは昨年成立した整備促進特別措置法に基づくものです」
どよめきが広がった。
「設計権とは、全国の機体配置、予算配分優先順位、ルート設計の権限です。現在の設計権保有チームはMIDOU AEROですが、今年の優勝チームが引き継ぎます。この権限は、日本全国の院外心停止救命率に直接影響します」
律が小声で言った。「……つまり優勝したら、全国のどこにドローンが飛ぶかを決められる」
「逆に言えば」朱音が続けた。「今のMIDOU AEROが設計したネットワークのまま続けば、過疎地へのカバレッジは改善されない」
「MIDOU AEROが四連覇してきた間、地方では何が起きてたんだ」
「見てみろ」朱音はタブレットを出した。「この五年間の過疎地域の心停止救命率。都市部との格差が毎年広がってる」
地図に、赤い点が散らばっていた。救命できなかったケースの発生地点。東北、山陰、四国の山間部。電波の届きにくい集落。
奏汰は地図を見た。
「MIDOU AEROは採算ベースで動かしてるから、ここには飛ばない」
「そうだ」朱音は言った。「だから私はここにいる。AKABANEが優勝すれば、この地図を変えられる」
予選第一試合。AKABANEは四位のタイムで通過した。
試合後、奏汰はコース外に出たところで、正面から御堂に鉢合わせた。
御堂は立ち止まらなかった。そのまま通り過ぎようとする。
「御堂」
御堂の足が止まった。振り返らない。
「過疎地にドローンが飛ばない件、どう思ってる」
三秒間の沈黙。
「採算が合わない地域への展開は、リソース配分の観点から非効率だ」御堂は振り返らずに言った。「限られた予算で最大多数を救うには、人口密集地を優先するのが合理的な判断だ」
「それで納得できるか」
「感情論と合理的判断を混同するな」御堂はそこで初めて振り返った。冷たい目で奏汰を見た。「お前の手動操縦スタイルを見た。非合理的だ。感情で機体を動かすな。感情は判断を遅らせ、機体を落とす」
「感情が機体を動かしたことがあるのか、お前には」
「ない。だから四連覇した」
御堂は行った。
奏汰は背中を見送った。怒りではなく、何か別の感情が腹の底に落ちた。
第三話 「CROWSの秘密」
予選三日目の夜、律が奏汰を呼んだ。
「見せたいものがある」
ラップトップの画面に、大量のコードが並んでいた。
「CROWSのバージョン三だ」
「また改良したのか」
「追加した」律は画面を切り替えた。「見守りモジュール。競技外の機能だ。カメラと熱センサーのデータから、コース周辺にいる人間の中で心停止やその前兆を示す異常を、リアルタイムで検知する」
奏汰はコードを見た。
「……なんでこんなものを」
「なんとなく」律は視線を外した。
「律」
「なんだ」
「なんとなくで、これだけのコードを書けるか」
長い沈黙。
「……母親が、心臓病だ。去年、倒れた」律は画面を見たまま言った。「近くにAEDがなかった。俺がいなかった。間に合ったのは運だ。運じゃなかったら、もう会えなかった」
奏汰は何も言わなかった。
「だからここにいる。就職のためとか言ったけど」律は画面を閉じた。「それだけじゃない」
「わかった」
「……わかっただけか」
「それ以上、何か言えるか」
「言えない、か。そうだな」律は立ち上がった。「明日の試合、CROWSが頼りだから寝ろ」
「お前も寝ろ」
翌朝、朱音が奏汰に資料を渡した。
「これを見てほしい」
三年前のRGP決勝の飛行ログだ。健一郎の機体が落ちる直前のデータ。
「電波妨害の痕跡がある」奏汰は言った。「これは父から聞いた話と違う」
「ここを見て」朱音はデータの特定箇所を指した。「妨害波が来たのは、機体が落ちる〇・八秒後だ」
「……え」
「普通に考えれば、妨害波で機体が不安定になって落ちた、と解釈する。でもログを見ると、順序が逆だ。機体が先に不安定になって、その後に妨害波が来ている」
「それは……」
「電波妨害は、あったかもしれない。でも、機体が落ちた直接の原因じゃない可能性がある」
奏汰は黙ってデータを見た。
「じゃあ、なんで落ちた」
「わからない。ログだけでは判断できない。でも、お父さんが何かを隠しているとしたら、電波妨害より先に起きたその〇・八秒に、答えがある気がする」
奏汰は深呼吸した。
「決勝に行く。そこで確かめる」
「うん」朱音は言った。「行こう」
第四話 「予選突破、そして」
予選最終日、AKABANEは四位で本戦出場を確定させた。
結果が出た直後、律がモニターを叩いた。
「AI制御ログ評価、参加三十二チーム中一位」
「マジか」
「GPSジャミングエリアでの人機協調の精度を、審査AIが『類例のない協調パターン』と評価した。お前の動きとCROWSが同期して、通常のAI単体より二十パーセント高い精度を出してる」
「お前が俺の動きを学習させたからだろ」
「……それについては謝る」律は珍しく言った。「無断でやった。でも結果は出た」
「消すのは大会が終わってからでいい」奏汰は言った。「使えるものは使う」
「……おい、許すの早すぎないか」
「お前が母親のために作ったコードに、文句は言えない」
律は何も言わなかった。ラップトップに向かって、何かを打ち込み始めた。
夜、奏汰のスマートフォンにメッセージが届いた。
差出人:御堂玲二
「話がある。二十二時、駐車場の北側」
灯りの少ない場所で、御堂は機体の調整データを見ていた。奏汰が来ると、スマートフォンを閉じた。
「予選の結果を見た」御堂は言った。「AI制御ログ評価は一位だったな」
「それを言いに来たのか」
「違う」御堂はわずかに間を置いた。「お前の父親のことだ」
奏汰は動かなかった。
「三年前の事故、調べているだろう」
「ああ」
「電波妨害の件を知っているか」
「知ってる」
「うちの父親が関与した」御堂は淡々と言った。「昨年、父の古いデータを整理して見つけた。RGP運営委員会への圧力書類と、電波妨害の指示書が残っていた」
「なぜ公表しなかった」
「公表したら、御堂財閥の信用が崩壊する。チームへの出資が止まる。スタッフが路頭に迷う」御堂の目は、感情を見せなかった。「だから公表しなかった」
「それだけか」
「それだけだ」
奏汰は御堂の目を見た。冷たい目だ。後悔の色がない。
「お前はそれでいいのか」
「よくない」御堂は言った。「だが合理的な判断だ」
「……お前、ずっとそうやって生きてきたのか」
「そうやって四連覇した」御堂は言った。「感情で判断して、父親は手を汚した。俺は感情を捨てて、競技に勝つことだけを考えた。結果、日本で最強のチームになった。間違っているとは思わない」
「お前の設計したネットワークのせいで、過疎地の老人が助からなかったとしても?」
「それは制度の問題だ」御堂の声は変わらなかった。「俺の問題じゃない。俺は与えられた権限の中で最適解を出してきた」
奏汰はしばらく御堂を見た。
「決勝で潰す」奏汰は言った。「お前のネットワーク設計を、俺が変える」
「来い」御堂は言った。「来られるなら」
それだけ言って、御堂は行った。
奏汰は一人残された。
拳を握る。怒りではなく、燃料を体に入れたような感覚だった。
第五話 「本戦」
本戦、お台場特設エアフィールド。
準決勝の朝、朱音が全員を集めた。
「今日の作戦を確認する」朱音は全員の顔を見た。「AKABANEが優勝した場合、私が最初にやること、全員に言っておく」
「何をするんですか」と奏汰。
「ネットワーク設計の変更案を、来週中に内閣府へ提出する。過疎地カバレッジの拡張と、予算の再配分。具体的には山間部の六十七自治体への機体増設と、高齢化率の高いエリアへの重点配備だ。私が救急救命士として経験してきた、間に合わなかった現場のデータを根拠にする」
「……リーダー、それを準備してたのか」律が言った。
「三年かけて作った」朱音は淡々と言った。「だから勝つ。勝つ必要がある」
奏汰はこのとき初めて、三田村朱音という人間の重さを感じた。
準決勝、相手は西日本ブロック一位の「SAKAI THUNDER」。
コースは「ウルトラコース」六キロメートル。中盤に「ビルディングゾーン」、終盤に「クロスウィンドエリア」が追加されている。
試合開始。
最初の二キロ、SAKAI THUNDERが速い。最新型の機体スペックで差を広げにくる。
ビルディングゾーンに入った瞬間、律のCROWSが警告を出した。
「風向き変化、予測外れ。奏汰、左四十五度で──」
「もう動いた」
「なんで──」
「お前のコードが判断する前に、俺の手が先に動く。それがわかってるだろ」
「……理屈では正しい。だが毎回ヒヤッとする」
ビルとビルの間の乱気流を、奏汰は手の感覚で切り抜けた。AIが迷う〇・一秒を、体で補う。
SAKAI THUNDERがビルディングゾーンの中盤で失速した。AIが複数の経路を計算しきれず、判断を保留した。
その間にAKABANEが抜いた。
クロスウィンドエリアに入った。
横風が来た。予報より二倍強い。
律がCROWSのデータを見た瞬間、顔色が変わった。「風速が──計算外だ、奏汰」
奏汰は何も言わなかった。
風は読めない。計算できない。データじゃなく、皮膚で感じるしかない。コントローラーの微振動。機体が押される方向の僅かなズレ。それを指が拾う。
右へ。半拍だけ早く。
機体が流されかける。それを先取りして、逆へ押し込む。
律のモニターに、CROWSの予測ラインが映し出されている。奏汰の実際の動きは、そのラインより常に〇・一秒早い。律はそれをわかっていて、何も言わない。ただデータを見続ける。
「……抜けた」律が言った。
奏汰は答えなかった。まだ集中していた。
ゴール、三分〇二秒。SAKAI THUNDERは三分十一秒。
AKABANEが決勝へ進んだ。
もう一方の準決勝、MIDOU AEROは二分四十七秒。
二位に二十四秒差。
圧倒的だった。
第六話 「決勝前夜・真実」
決勝前日の夜、奏汰は父のいるガレージへ行った。
健一郎は機体の最終整備をしていた。
「父さん」奏汰は言った。「ログを見た。三年前の決勝のログだ」
健一郎の手が止まった。
「電波妨害は、機体が落ちた後に来てる」
長い沈黙。
「……そうだ」健一郎は義手を下ろした。「御堂財閥の妨害は、本物だった。でも俺の機体が落ちた直接の原因じゃなかった」
「じゃあ、なんで落ちた」
「俺が落とした」
奏汰は息を吞んだ。
何も言えなかった。
父が「機体トラブルじゃなかった」と言った。それはわかっていた。でも「俺が落とした」は、想像していなかった。
奏汰が想像していたのは、電波妨害だ。御堂財閥に妨害されて、抵抗できなかった。そういう話だと思っていた。父が被害者で、悔しさを抱えたまま黙っていた。そういう話だと。
でも違った。
「コースの途中に、子供がいた」健一郎は静かに言った。「コース外の、フェンス際に。転んで泣いてた。ケガはしてなかったと思う。でも俺は一瞬、そこへ向かおうとした。手が動いた。機体が傾いた。そこへ妨害波が来て、制御を失った」
「……」
「子供は無事だった。俺の機体が落ちて、スタッフが駆けつけた。子供のことも同時に確認された」
「父さんは……子供を助けようとして、機体を落としたのか」
「違う」健一郎は首を振った。「助けようとしたんじゃない。迷ったんだ。大会のコースを飛ぶか、子供のそばへ行くか。どっちも選べなかった。その迷いが、俺から機体を奪った」
「その話を、なぜ黙ってた」
「お前に話したら」健一郎は奏汰を見た。「お前が同じ場面に立ったとき、迷わずにいられるか、自信がなかった」
「……どっちを選べばよかったんだ」
「俺には、今もわからない」
健一郎は義手でドライバーを握り直した。
「ただ一つ、わかることがある。迷いのまま飛んだら、機体は落ちる。決断してから飛べ。どっちを選んでも、決断なら機体は落ちない」
その夜、奏汰は律に電話した。
「CROWSの見守りモジュール、決勝でも動かしておいてくれ」
「競技に関係ない機能だ。動かしても意味がない」
「意味がある場合のために」
短い沈黙。
「……わかった」律は言った。「ただし、奏汰」
「なんだ」
「競技中に何かアラートが出ても、お前が判断することだ。俺は情報を出す。判断はするな、と言うこともしない。ただお前が決めろ」
「わかってる」
「朱音さんには伝えるか」
「……明日の朝に話す」
第七話 「決勝当日──スカイドロップ」
七月、快晴。
決勝当日のお台場は、前日の倍以上の観客で埋まっていた。生配信視聴者はリアルタイムで八十万を超えた。
ブリーフィングルームで、朱音が奏汰に言った。
「律から聞いた。見守りモジュールのことも」
「……怒るか」
「怒らない」朱音は言った。「ただ、確認させてほしい。もし決勝中に本物のアラートが出たら、どうするつもりだ」
「飛ばす」奏汰は即答した。「コース外に」
「それは失格になるかもしれない」
「わかってる」
「ネットワーク設計権を失う可能性がある」
「わかってる」
朱音は奏汰をしばらく見た。
「わかった」朱音は言った。「その判断が出たとき、私が前に出る。審判への説明は私がやる。チームリーダーとして、私が責任を取る。お前は飛ぶことだけ考えろ」
奏汰は初めて、朱音の目に何かを見た。
救急救命士として、何度も「間に合わなかった」経験をしてきた目だ。その目が今、真っすぐに奏汰を見ている。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」朱音は立ち上がった。「まず勝って来い。アラートが出ない可能性だってある。勝てるなら、勝った方がいい」
朱音が部屋を出た。
奏汰は一人残された。
椅子に座ったまま、コントローラーを見た。競技用の黒いグリップ。親指が当たる部分だけ、塗装が薄くなっている。毎朝五時の荒川土手で削れた跡だ。
アラートが出なければ、全力で飛ぶ。それだけだ。
でも出たら。
出たときのことを、頭の中でもう一度なぞった。コースを外れる。一号機はCROWSに委ねる。二号機で飛ぶ。着地する。AEDを届ける。
シンプルだ。手順としては、シンプルだ。
でも体は、それが簡単じゃないことを知っている。手が震えるかもしれない。止まるかもしれない。そのときどうするか。
握り直す、と思った。それしかない。
奏汰は立ち上がり、ドアを開けた。
外は快晴だった。
スタート。
最初の一キロ、MIDOU AEROとAKABANEは並走した。
会場が沸いた。こんな接戦は過去四年なかった。
二キロ地点の風圧ゾーン。御堂が一歩抜け出した。MIDOU AEROの機体は完璧な角度制御で、ほぼ減速なしで通過する。
AKABANEは一・五秒遅れた。
「追いつかない」律が言った。「このままのペースでは最終エリアで差が開く」
「GPSジャミングエリアで取り返す」奏汰は言った。「あそこだけはうちが速い」
「理屈はそうだが」
「信用しろ」
GPSジャミングエリアへ。
御堂の機体が、ほんの少し揺れた。AIが切り替わる瞬間の、コンマ数秒のラグ。
奏汰はそのラグを待っていた。
「律、今だ」
「CROWSフル展開──」
奏汰の手が動いた。CROWSの計算より〇・一秒早く、機体が最短ルートへ向かう。
並んだ。
会場から声が上がった。
ジャミングエリアの出口で、AKABANEが出た。半機体分、先に。
会場がどよめいた。
奏汰は前だけを見た。残り二・三キロ。スカイラビリンスを抜ければ、勝てる。
初めてそう思った瞬間だった。
本当に、勝てる。
その感覚が来た瞬間に、別の何かも来た。
三年前の映像が、頭の中で流れた。
大会の映像じゃない。もっと前の記憶だ。父が初めて自分に機体を持たせた日のことだ。広い空き地で、父は奏汰の後ろに立って、両手を添えてくれていた。一緒に動かしてくれていた。あの手が、今はない。
なぜ今、これが来るんだ。
奏汰は頭を振った。集中しろ。スカイラビリンスまで一・八キロ。御堂が後ろに来ている。
そのとき律のモニターに、赤いポップアップが現れた。
【ALERT】心停止疑い 北スタンド 4-Fブロック 確信度87%
律の手が一瞬止まった。
「……奏汰」
奏汰はコントローラーを握ったまま、動かなかった。
見えていた。モニターの端に映し出されたアラートが。確信度87%という数字が。
でも、手が動かなかった。
一秒。
その一秒の間に、頭の中で何かが起きた。
コースから外れた機体が、観客席に墜落する映像が浮かんだ。父の機体じゃない。自分の機体だ。それが、よりによって今日、この決勝で起きた。父と同じように。迷って、手が止まって、機体を落とした。そういう未来が、鮮明に見えた。
勝てる、と思った瞬間にこれが来るのか。
「……奏汰」律がもう一度呼んだ。声が低い。「返事をしてくれ」
奏汰は息を吐いた。
長くはなかった。一秒か、二秒か。でも確かにそこにあった。父と同じ場所に落ちかけた、あの感覚。
「見えてる」奏汰は言った。「どんな状況だ」
「六十代と推定される男性。熱センサーで体温異常。動体解析で姿勢変化。心停止または失神の可能性。近くのAEDボックスまで推定五百メートル」
「会場スタッフへの通報は」
「今、朱音さんが審判席に走ってる」
奏汰はゴールまでの距離を見た。残り二・三キロ。スカイラビリンス含む最難関区間が残っている。
御堂との差は縮まっている。
ここでコースを外れれば、優勝の可能性が消える。ネットワーク設計権が消える。朱音が三年かけて作った変更案が、また五年待つことになる。
それはわかっていた。最初からわかっていた話だ。
でも今、手が震えている。
怖いのか、と自分に問うた。
怖い。
コースを外れることが、じゃない。外れた先で何かを間違えることが怖い。父みたいに。迷ったまま飛んで、機体を落とすことが。
奏汰は一度だけ、強くコントローラーを握り直した。
決断してから飛べ。
迷いのまま飛んだら、機体は落ちる。
どっちを選んでも、決断なら落ちない。
俺が選ぶ。父じゃない。俺が。
「律」
「なんだ」
「一号機はゴールへ。CROWSで飛ばせ。二号機を俺が手動で4-Fブロックへ向かわせる。競技規定に、複数機の一機がコース外へ出ることへの明文化された失格条項はなかったな」
「……ない。ただし前例もない」
「判断は審判に委ねる。俺は飛ばすだけだ」
「奏汰」
「なんだ」
「……俺のCROWS、一号機を完走させる。絶対に」
「頼む」
第八話 「二号機、北へ」
二号機がコースを外れた。
実況が叫んだ。「二号機がコースアウト! これは──AKABANEのモニターに緊急アラートが!」
大型スクリーンが切り替わった。赤いアラート。「心停止疑い 4-Fブロック」の文字が、会場の全スクリーンに映し出された。
八十万人の視聴者が、息を止めた。
審判席で、朱音が審判長の前に立った。
「チームリーダーとして申告します。AKABANE SKY二号機が、緊急対応のためにコースを逸脱します」
「失格処分の対象になる可能性があります」
「わかっています」朱音は言った。「それはチームリーダーの私が責任を取ります。処分が出るなら、私個人に向けてください。チームのパイロットではなく、私に」
「……規定の確認をします」
「急いでください。今も、時間が消えています」
奏汰は二号機を全速で北スタンドへ向けた。
群衆の上空を横切る。人々が気づき始め、ざわめきが広がる。
「4-Fブロック確認」律が言った。「座席列の端に男性が倒れてる。周囲の人間が気づき始めている」
「着地スペースは」
「前列座席の間に一メートル弱の隙間。それ以外に安全なスペースはない」
「行ける」
「機体幅〇・七八メートルだ。理論上は行けるが、誤差があれば座席に当たる」
「行ける」奏汰はもう一度言った。
降下を始めた。
高度二十メートル。十五メートル。
スタンドの観客が気づいた。ざわめきが止まった。誰も動かなかった。ドローンが自分たちの頭上を下りてくる。でも誰も逃げなかった。
十メートル。
座席の列が見えてきた。赤いプラスチックの背もたれが、狭い間隔で並んでいる。その隙間。一メートル弱。
奏汰は息を止めた。
AIアシストはない。CROWSも届かない。この距離、この精度は、データで出せる数字じゃない。手の感覚だけだ。
五メートル。
機体が左へ一センチ流れた。奏汰の親指が、それより早く修正した。
三メートル。
父の声が聞こえた気がした。声じゃない。感覚だ。義手で機体を整備し続けてきたあの手の、感覚。
一メートル。
着地。
静かに、完璧に。どこにも触れず、一ミリの誤差もなく。
会場が、一瞬だけ完全に静かになった。
AEDのロックが解除される。カバーが開く。音声ガイダンスが流れ始める。
倒れた男性のそばにいた若い女性が、震える手でパッドを手に取った。
一号機は、CROWSの制御だけで最終エリア「スカイラビリンス」へ入った。
律は両手でキーボードを叩き続けた。
スカイラビリンスは上下左右に偽ルートが仕掛けられた立体迷宮だ。AIが「正解」を見つけるまでに、最低でも五秒かかる。
CROWSは三・七秒で正解を選んだ。
律がいるAKABANEの新記録。
一号機がゴールを通過した。
消防隊が4-Fブロックに到着したのは、着地から四分後だ。
除細動一回。男性の心拍が再開した。
MIDOU AEROのゴールタイムは二分五十九秒。自己ベストを更新した。
AKABANEの一号機タイムは三分二十四秒。
MIDOU AEROの優勝が確定した。
第九話 「もう一度、飛ぶ」
表彰式の前に、審判委員会の判定が出た。
「AKABANE SKYの二号機のコース外飛行について、競技規定に明文化された失格条項が存在しないことを確認しました。本件を失格とは認定しませんが、今後の規定整備の対象とします」
失格にはならなかった。
だが、一号機のみのタイム集計となり、AKABANEの最終成績は六位だった。
表彰台の上で、御堂玲二が優勝トロフィーを受け取った。
その瞬間、会場の空気は不思議なものだった。
観客の多くが拍手しなかった。
生配信のコメント欄は「AKABANEの方がかっこいい」「御堂は強いけど」という言葉で埋まった。
御堂はトロフィーを持ちながら、会場を一度だけ見渡した。
その目が、奏汰のところで止まった。
奏汰はまっすぐ見返した。
御堂は何も言わなかった。目を逸らした。
表彰式が終わり、観客が引き始めた会場。
AKABANEのピットに、一人の人影が現れた。
御堂だった。
トロフィーは持っていない。白い作業着のまま、片手にスポーツドリンクを持っている。
奏汰は機体の後片付けをしながら、御堂を見た。
御堂は何も言わずにピットのベンチに座った。
しばらく間があった。
律がモニターから目を上げ、御堂を見た。また目を戻した。
また間があった。
御堂が、静かに言った。
「……熱中症だったらしい」
「え」
「さっき、会場の医務室でそう言われた」御堂の声は淡々としていた。「表彰式の直前から、頭痛と立ちくらみがした。無視して台に上がった。トロフィーを受け取った瞬間、足元がなくなった」
奏汰は静かに御堂を見た。
「倒れたのか」
「スタッフが支えた。医務室に連れて行かれた。点滴を打った」
「……知らなかった」
「知る必要はなかった」御堂は真っすぐ前を見たまま言った。「俺が自分で処理することだ」
また沈黙。
律がコーヒーを二本、自販機から買ってきて、一本を御堂の前に置いた。何も言わずに自分のピットに戻った。
御堂はコーヒーを見た。
「……なぜ、コース外へ出た」
「アラートが出た」
「それは聞いた。なぜ出た、と聞いている。お前は設計権を失うリスクを知っていた。朱音さんが三年かけて作った変更案のことも、知っていたはずだ」
「知ってた」
「それでも出た」
奏汰は少し間を置いた。
「アラートが出た瞬間、手が止まった」
御堂が奏汰を見た。
「一秒か二秒か。コースを外れた先で機体を落とすかもしれない、という映像が浮かんだ。父と同じように。迷ったまま飛んで落とす、という映像が」
「……」
「怖かった」奏汰は言った。「勝てると思った瞬間に来たから、余計に。それで手が止まった」
「でも出た」
「決めたから」奏汰は言った。「迷いのまま飛んだら、機体が落ちる。それだけは父に教わった。だから一回だけ、強く握り直した。それで決めた。決めてから飛んだ。だから落ちなかった」
御堂は黙った。
コーヒーを手に取り、一口飲んだ。
「……お前の父親の事故のことは、俺が謝るべき立場にはない」御堂は言った。「謝っても意味がないのもわかってる。だが、知っていて黙っていた。それについては」
「いい」奏汰は言った。
「よくない」
「よくないけど、今はいい」奏汰は機体のケースを閉めた。「来年、また飛んで、潰す。それで十分だ」
御堂は少し間を置いた。
「……おせーんだよ」
奏汰は手を止めた。
「なにが」
「お前のドローン。着地までの時間、もっと縮められる」御堂は言った。感情のない、事務的な声で。「降下角度が三度ほど浅かった。最適化すれば〇・八秒は短縮できる」
奏汰はしばらく御堂を見た。
「……死にかけてたくせに、よく人の機体のタイムを測ってるな」
「意識がなかったわけじゃない」
「見てたのか」
「スクリーンに映ってた。医務室にも画面があった」
どちらも笑わなかった。
でも、この沈黙は、これまでとは違う種類のものだった。
御堂が立ち上がった。
コーヒーの缶を、ゴミ箱ではなくピットのテーブルに置いた。それだけだった。
「来年」御堂は言った。背を向けたまま。
「ああ」
「負けない」
「知ってる」奏汰は言った。「だから飛ぶ」
御堂は行った。
奏汰は背中を見送った。
白い作業着が、夕暮れの会場に消えていく。去年と同じ背中だ。でも何かが違う。何が違うのか、言葉にはできない。ただ、去年よりも少しだけ、遠く見える気がした。追いかけるべき背中というのは、そういうものかもしれない、と奏汰は思った。
律がモニターから顔を上げた。
「御堂、コーヒー飲んでいったな」
「ああ」
「……そういうやつだったのか」
「わからん」奏汰は言った。「来年になればわかるかもしれない」
律は何も言わず、モニターに向き直った。
それでよかった。
キーボードを打つ音が、夜の会場に響いた。明日も、律はここにいる。奏汰も、ここにいる。それだけで、今夜は十分だった。
御堂玲二から。
「三年前の件、来月、弁護士を通じて開示手続きを始める。御堂財閥とRGP運営委員会の問題については、お前の父親に直接話をする。それだけ伝えておく」
返信しようとして、奏汰は手を止めた。
代わりに一行だけ打った。
「来年、また飛ぼう」
既読がついた。
返信は来なかった。
第十話 「設計する者」
一週間後、朱音は内閣府の担当者と面会した。
手には三年分のデータが入った分厚いファイルがある。
「AKABANEは優勝していません」担当者は言った。「設計権の変更提案は、現在の権限保有チームが行うべきです」
「わかっています」朱音は言った。「これは提案ではなく、問題提起です。現在のネットワーク設計における過疎地カバレッジの欠陥と、それによる救命率の格差を示すデータです。どのチームが権限を持っていても、この問題は存在します」
担当者は資料を受け取った。
「……検討します」
「急いでください」朱音は立ち上がった。「今も、どこかで誰かが倒れています」
その夜、奏汰はガレージで父の隣に座った。
健一郎は機体の整備をしながら、息子を見た。
「御堂から連絡が来た」
「ああ」
「……ありがとう、と言うべきか」
「言わなくていい」奏汰は言った。「俺は父さんのために飛んだわけじゃないから」
「じゃあ、なんのために飛んだ」
奏汰はしばらく考えた。
「勝つために飛んだ」
「勝てなかったが」
「それでも、勝つために飛んだ。それが一番正直な動機だ」奏汰は言った。「勝てば、朱音さんの設計案が通る。過疎地の地図が変わる。だから、勝つために全力で飛んだ。でも、途中でアラートが出た」
「それで」
「手が止まった」奏汰は言った。「勝てると思った瞬間に止まった。コースを外れたら機体を落とすかもしれない、という映像が来た。父さんと同じように」
健一郎の手が、わずかに止まった。
「怖かった。一秒か二秒か、本当に動けなかった。そのまま迷いのまま飛んだら、父さんと同じになる、と思った」
「……」
「それで、一回だけ握り直した。怖いまま、握り直した。それで決まった。コースを外れた」
「後悔してるか」
「ない」奏汰は言った。「震えたけど、落ちなかった。父さんが言ってた通りだった」
健一郎は何も言わなかった。
長い沈黙の後、義手の右腕で、整備を再開した。
何も言わないことが、全部言っているのだと、奏汰は思った。
エピローグ 「来年の空」
翌年、RGP予選。
AKABANEのピットは、去年と同じ端の端だった。
機体は変わらず「AEROMED-7」が二機。ただし、律が全体をフルオーバーホールした。スペックは最新型と遜色ない。
「CROWS、バージョン四」律が言った。「見守りモジュールを正式統合した。今年から、RGP全参加チームに見守り機能搭載が義務化された」
「それを実現させたのは誰だ」
「朱音さんと、内閣府の担当者が動いた。去年のお台場の映像が、かなりの説得力を持ったらしい。──それと」律は少し間を置いた。「御堂が、運営委員会に見守り機能の義務化を提言したそうだ。自分の経験を根拠にして」
奏汰は黙ってそれを聞いた。
何も言わなかった。
奏汰はスタンドを見た。
去年の決勝で4-Fブロックに倒れた男性が、今年は招待されて席に座っていた。
隣に、若い女性がいる。去年、震える手でAEDのパッドを手に取った人だ。
男性が空を見上げた。
奏汰のドローンと目が合ったような気がした。
男性は何もしなかった。手を振るわけでも、声をかけるわけでもない。ただ、空を見上げていた。
去年の夏、この人の心臓は止まった。ドローンが来た。誰かが動いた。今、この人はここにいる。
奏汰はそれだけを見た。
それで十分だと思った。それが全部だと思った。
「向こうのピット」律が言った。
MIDOU AEROが今年も来ていた。
御堂玲二が機体チェックをしている。
去年と同じ姿だ。白い作業着、無表情。
でも何かが違う。
御堂財閥の問題が公表された後、チームの構造が変わった。財閥の直接介入が排除され、御堂玲二が純粋にチームの技術責任者として独立した。スポンサーは変わったが、チームは残った。
御堂が顔を上げた。
目が合った。
今年も、どちらも笑わなかった。
どちらも逸らさなかった。
ただ、去年と違うことが一つあった。
御堂が、わずかに頷いた。
奏汰も、頷いた。
それだけだった。
「準備完了」律が言った。「行くぞ、奏汰」
「ああ」
スタートのブザーが鳴った。
機体が飛び上がる。
青い空へ、まっすぐに。
今年こそ、勝つために。
それが一番多くの命を救う道だから。
了
本作品の登場人物・団体はすべて架空です。
