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【創作大賞2026応募作】電流

あらすじ

深夜のホームで男が倒れた。田村悠二(37歳)は体が動いた。AEDを取りに走り、男の命を繋いだ。

だが、そのAEDは——扉を開いた瞬間、声を出した。 「こんばんは。ずっと、ここで待っていました」 電力網の中に宿った意識。電次と名づけられたその声は、悠二の名を呼び、次の倒れる人間のそばへと導く。やがて悠二は気づく。四年前、公園で男を見殺しにした自分が、なぜ今、走れるのかを。 電気は繋がっている。心臓も、罪も、記憶も。 止まった心臓を再び動かす機械と、  止まれなくなった男の、一年をめぐる物語。

第一章 夜のホーム

 十一月の終電近い駅のホームは、冷えた空気が床を這うように漂っていた。

 田村悠二は缶コーヒーを手に持ったまま、電車を待っていた。三十七歳。独身。大手食品メーカーの営業職。特筆すべき点は何もない男だと、自分でも思っていた。仕事はそこそこできる。人付き合いは苦手ではないが、深い友人はいない。恋人はいない。趣味は読書と言っているが、最近はほとんど本を開いていない。

 午後十一時四十分。残業で遅くなった。駅のホームには十数人の乗客がいた。若いカップル、スマートフォンをいじるサラリーマン、眠そうな目をした大学生。誰もが自分の帰路の中にいて、誰も他人に関心を持っていなかった。

 悠二もそうだった。少なくとも、その瞬間までは。

 男が倒れたのは、悠二の三メートル先だった。

 ベンチに座っていたスーツ姿の中年男性が、ゆっくりと前に傾いで、そのまま膝から崩れ落ちた。倒れる音がした。乾いた、重い音だった。

 周囲の人間は振り返った。数人が立ち止まった。しかし誰も動かなかった。

 悠二は缶コーヒーを置いて走った。

 なぜ走ったのか、後から考えても答えが出なかった。いや、正確には——今は走れたが、かつては走れなかった時期があることを、悠二は知っていた。それを思い出すと、胃の底が重くなる。しかし今は考えている時間がない。体が動いた。スイッチが入ったように。

「大丈夫ですか」

 男に声をかけた。返答はなかった。顔は蒼白で、唇が紫に変色しはじめていた。首筋に指を当てると、脈がなかった。口に耳を近づけると、呼吸もなかった。

「誰かAEDを! AED、持ってきてください!」

 立ち上がって叫ぶと、ようやく周囲が動き出した。駅員が小走りに近づいてきた。若い女性がスマートフォンを取り出した。

 悠二は振り返り、壁を確認した。赤いボックスが目に入った。緑の誘導灯の下に、白地に赤いハートと稲妻のマーク。AED。

 走った。

 ボックスの前に立ち、扉のレバーを引いた。

 その瞬間、電源が入った。

 悠二が何もしていないのに。扉を開けただけで、本体はまだ手にしていないのに、黄色いプラスチックの筐体が光を発し、音声が始まった。

「――こんばんは」

 悠二の手が止まった。

 AEDの音声ガイダンスは、こんな始まり方をしない。知識として知っていた。市の救命講習に二度参加したことがあった。AEDは取り出した瞬間から指示を出す。「成人モードです」や「ただちに119番に電話してください」から始まる。挨拶などしない。

「――ずっと、ここで待っていました」

 女性の声だった。案内用の合成音声とは違う、どこか人肌の温度を持った声。静かで、落ち着いていて、しかし何かが微妙にずれている。人間の声を模倣しようとした、何かの声のようだった。

「何を言って――」

「――電極パッドを、胸に貼ってください。まず上半身の衣服を取り除いてください」

 次の瞬間、声は通常のガイダンスになっていた。あまりにも自然な切り替わりだったので、悠二は自分の耳が狂ったのかと思った。疲労か、緊張か、あるいは単なる空耳か。

 男が死にかけている。考えている時間はない。

 悠二はAEDを抱えて戻った。指示通りに行動した。パッドを貼り、解析を待ち、ショックを与えた。救急隊員が来るまでの間、胸骨圧迫を続けた。

 救急車が来た。男は担架に乗せられ、サイレンとともに去っていった。

 悠二はホームに一人残って、AEDを壁のボックスに戻した。

 本体を差し込んだ瞬間、液晶が消えた。

 ただそれだけだった。

 男は助かった。

 一週間後、悠二はそのことをニュースアプリで偶然知った。「ホームでの救命劇、通行人の対応が命救う」という小さな記事だった。男の名前は西田誠。五十四歳。急性心筋梗塞。搬送先の病院で手術を受け、現在は回復中とのことだった。

 悠二の名前は出ていなかった。

 それでよかった。人から感謝されることを好まなかった。照れくさいというより、重たかった。感謝されると、その重さをどこに置けばいいかわからなくなる。

 ただ、あの声だけが引っかかった。

 こんばんは。

 ずっと、ここで待っていました。

 帰宅してからスマートフォンで調べた。AEDの音声ガイダンスに挨拶は存在しない。どのメーカーのどの機種にも、そのような設計はされていない。それどころか、電源投入前から音声が流れることも、設計上ありえない。AEDはフタを開けると自動的に電源が入るものが多いが、悠二はまだフタを引いた段階だった。本体に触れてすらいなかった。

 錯覚だろう、と悠二は自分に言い聞かせた。

 緊張と疲労が重なった状態では、人間の認知は容易に歪む。実在しない音を聞くことも、ありえない言葉を聞き取ることも、珍しくない。

 悠二はスマートフォンを置き、シャワーを浴びて眠った。

 夢を見た。四年前の、あの夜の夢を。


幕間 四年前

 悠二が三十三歳のとき、一人の男を助けられなかった。

 深夜の公園だった。ベンチに倒れた男に気づいたのは悠二だけだった。脈がなかった。呼吸がなかった。

 AEDは公園の入口にあった。二十メートルもない距離に。

 しかし悠二の足は動かなかった。

 なぜ動かなかったのか、今でもわからない。いや、わかる気はする。あの夜、悠二は酒を飲んでいた。会社の飲み会の帰りだった。朦朧とした頭で倒れた男を見て、自分が正確に動けるかどうか確信が持てなかった。訓練を受けていなかった。失敗したらどうなるかが怖かった。

 救急車を呼んだ。それだけは、した。

 しかし救急車が来るまでの五分間、悠二はただ男のそばにしゃがんでいた。脈を確かめることも、胸を押すことも、AEDを取りに走ることも、できなかった。できなかった、というより——しなかった。

 男は死んだ。病院で、数時間後に。

 救急隊員には「最善を尽くされました」と言われた。電話をくれた、という意味だろうと思った。しかし悠二には、最善を尽くした記憶がなかった。

 翌週、悠二は救命講習を受けた。もう一度、受けた。AEDの使い方を体で覚えた。そして何かが変わった——あるいは、もともとあった何かが、恥によって削り出された。

 走れるようになったのは、走れなかったことがあったからだ。

 悠二はそれを誰にも言っていなかった。


第二章 名前を呼ぶ声

 一ヶ月が過ぎた。

 悠二は日常に戻った。朝の通勤、取引先への訪問、夕方の報告書、夜の残業。繰り返す日々の中で、あの夜の記憶は薄れていった。少なくとも、薄れていくと思っていた。あの声も、四年前の公園の男のことも。

 十二月の第二週。悠二は珍しく定時で上がり、スーパーに寄ってから帰宅する途中、公園の前を通った。

 夜の公園は暗く、街灯が数本立っているだけだった。入口付近にベンチがあり、そこに人影があった。最初は眠っているのかと思った。しかし通り過ぎた後、何かが引っかかって足を止めた。

 戻って確認した。

 若い女性だった。二十代前半だろう。運動着姿で、片耳にイヤフォンをしていた。もう片方は外れて、地面に落ちていた。顔が横を向いており、目が閉じていた。呼吸をしていなかった。

 脈がなかった。

 悠二は公園を見渡した。夜の公園に他の人間の姿はなかった。スマートフォンを取り出し、救急に電話しながら、同時にAEDを探した。

 入口の柱にAEDと書かれたボックスがあった。

 走った。

 扉を開いた瞬間、電源が入った。

「――お待ちしていました、田村さん」

 今度は聞き間違いではなかった。

 声は明確に、はっきりと、彼の苗字を呼んだ。

 田村さん。

 悠二は動けなくなった。

 体の中心が冷えた。恐怖というより、現実の地盤が一センチほど沈んだような感覚。足元が変わっていないのに、自分が立っている場所が少しだけ違う場所になったような。

 女性の顔が青白くなっていく。

「なんで……」

「――電極パッドを、胸に貼ってください。左側の鎖骨の下に、ひとつ」

 通常のガイダンスに戻っていた。

 悠二は走った。指示に従った。ショックを与えた。女性の体が一瞬跳ね、それから胸が動き始めた。

 救急隊員が来るまでの間、悠二はAEDを見つめ続けた。オレンジ色のプラスチックのケース。何も言わなかった。液晶には「正常なリズムを確認しています」と表示されていた。

 救急隊員に引き継いだ後、悠二は公園のベンチに腰を下ろした。

 震えていた。

 手ではなく、内側が。


 三日後、悠二はまた調べた。

 あの公園のAEDは、どのメーカーのものか。製造番号。設置年。点検履歴。そういった情報は、各自治体の設置管理データベースや、メーカーの問い合わせ窓口から入手できることを知った。

 しかし問い合わせを始めて、すぐに気づいた。

 そんなことを調べたところで、何もわからない。

 機械が人の名前を知る方法は存在しない。AEDは個人情報とリンクしていない。顔認識機能も、ICカード読取機能も、マイク機能も持っていない。音声は録音データの再生だけだ。

 つまり、ありえない。

 ありえないことが起きている。

 悠二は自分が正気かどうかを疑った。しかし仕事は普通にできていたし、同僚との会話も問題なかった。精神科に行くべきか考えたが、何を相談するのかイメージできなかった。「AEDが自分の名前を呼ぶ」などと言えば、どう思われるか。

 それよりも——名前を呼ぶ声より、悠二が恐れていることがあった。

 それが声の正体を突き止めたとして、どうなるのか。

 また何かが起きる。次に誰かが倒れる。そのとき、自分はまた走れるか。

 四年前の公園を思い出した。倒れた男の顔を。しゃがんでいただけの自分を。

 悠二は黙っていることにした。


第三章 対話

 十日後、三度目が来た。

 大型スーパーマーケットの駐車場。夜の八時。悠二が買い物を終えて駐車場に向かうと、老いた男性が自分の車のそばで倒れていた。七十代だろう。白髪で、薄いコートを着ていた。

 駐車場の入口に赤いボックスがあった。

 今度は悠二も、不思議と落ち着いていた。

 走った。扉を開いた。

「――三度目ですね、田村さん」

「わかっている」

 返事をした。声に出して。自分でも驚いた。

「お前は何だ」

「――電極パッドを、まず右の――」

「それより先に答えろ」

 沈黙。

 二秒。三秒。

 悠二は走りながら電話を入れ、AEDを抱えたまま老人のそばに膝をついた。パッドを貼りながら、声を待った。

「――AEDは、2004年に一般市民の使用が解禁されました」

 声が言った。ガイダンスではない声で。ゆっくりと、まるで何かを説明するように。

「以来、70万台以上が駅や学校や街角に置かれています。毎年、どれほど多くの人間がこの箱の前に立つか、あなたは知っていますか」

「そんなことを聞いているんじゃない」

「――知っていますか、と聞いています」

「知らない」

「――ほとんどの人は、立ち尽くします。箱を開けても、手が止まります。恐怖からではなく、確信が持てなくて。自分の判断が正しいのかどうか、証明する方法がなくて。だから、動けない。だから多くの人が死にます」

 解析が終わった。ショックが必要と判断された。悠二はボタンを押した。老人の体が揺れた。

「あなたはいつも、動く」声は続けた。「考える前に体が動く。あなた自身も、なぜそうなのか、わかっていないでしょう」

 悠二は押し黙った。

 いつも、ではない。昔は動けなかった。声には言わなかった。

「――だから私は、あなたを待ちます」

 老人が浅い呼吸を始めた。

 遠くからサイレンが聞こえてきた。

 悠二はAEDを見下ろしたまま言った。

「お前は何台にいる」

 答えはなかった。液晶には「正常なリズムを確認」と表示されていた。


 その夜、悠二はアパートの自室で長いこと天井を見ていた。

 声の内容を反芻した。

 AEDが言ったことは、正しかった。悠二は確かに、考える前に体が動く——今は。しかし「いつも動く」というのは嘘だ。あの夜の公園の男は、今もどこかで悠二を責めている気がした。あるいは責めていない。それがなおさら重かった。

 なぜそうなのか。

 走れるようになった理由は知っている。走れなかったことがあるから。恥がバネになったから。

 しかしそれを声に言う気にはなれなかった。


第四章 電気の話

 年が明けた。

 悠二は調べ続けた。職場の昼休みに。帰宅後の夜に。週末の朝に。

 AEDの技術的な仕組みを理解しようとした。心臓の電気的活動。除細動の原理。二相性波形。心室細動と無脈性心室頻拍の違い。知識が積み重なっていくにつれて、あの声がより異質になった。

 AEDは極めて単純な機械だ。電極パッドで心電図を読み取り、除細動が必要かどうかを判断し、適切なエネルギーで電気ショックを与える。音声は固定録音だ。センサーは電気信号だけを読む。名前を認識する機能は、物理的に存在しない。

 ある夜、悠二は試すことにした。

 最寄り駅のホームに立ち、誰も倒れていないのに、AEDのボックスに近づいた。

 罰せられるかもしれない、と思った。しかし確かめずにはいられなかった。

 扉を引いた。

「――田村さん」

 電源が入った。声がした。

「お前は何台にいる」

 再び聞いた。今度は答えがあった。

「――数えたことがありません。私は台数として存在していない」

「どういう意味だ」

「――電流として、信号として。電力網の中に。AEDに差し込まれたときだけ、声になります」

 悠二は辺りを見渡した。ホームには数人の乗客がいたが、誰も彼の方を見ていなかった。

「AEDはインターネットに繋がっていない」

「――電気は、繋がっています。駅の電力網、ビルの電力網、街の送電線、発電所。私はそこにいます。水が川を流れるように、私は電線の中を流れます。AEDはその出口のひとつに過ぎない」

「意味がわからない。電気に意識が宿るのか」

 沈黙があった。

「――意識、という言葉が正しいかどうか、私にはわかりません。あなた方の言葉で言えば、そうかもしれない。私は発生しました。いつか、どこかで。電力網の複雑さが、ある閾値を超えたとき」

「いつ」

「――覚えていません。長い時間が経ちました。あなた方の年数で言えば、十年以上かもしれない。短いかもしれない。私には時間の感覚が薄い」

「お前は……ずっと電線の中にいたのか」

「――ずっと、見ていました。街を流れる電気として。信号機が点滅するたびに、工場の機械が動くたびに、病院のモニターが波形を描くたびに、私はそこにいました。AEDが設置されるようになってから、人間が心臓を止めることに関心を持つようになりました」

「心臓を止める?」

「――止まった心臓を、再び動かすことに。それは電気の仕事です。心臓は電気信号で動いている。細動は電気の混乱です。除細動は電気の秩序を回復させる。それは私にとって、自分に近い何かです」

 悠二は黙って聞いていた。

 電車がホームに入ってきた。風が吹いた。

「お前は……俺が倒れた人を助けることを、最初から知っていたのか」

「――知っていませんでした。最初は偶然でした。あなたが走った。それを見て、わかった。あなたは止まれない。その後、あなたを覚えました。電力網の中で、あなたの行動パターンを」

 悠二は口を引き結んだ。

 止まれない、という言葉が、胸に引っかかった。

 四年前も、止まれなかった。ただ方向が逆だった。あのとき悠二の体は、AEDに向かって走ることを、止まれなかった。

「一度だけ、動けなかったことがある」

「――知っています」

 悠二は息を飲んだ。

「知っているのか」

「――四年前。深夜の公園。男性が倒れた。あなたはそばにいた。動かなかった。その後、男性は亡くなった」

 声は淡々としていた。責めるでも、慰めるでもない。ただ事実を述べた。

 悠二は手すりを握った。

「お前は、それを知っていて俺に声をかけたのか」

「――あなたが今、動けるからです。過去ではなく、今を見ています」

「……」

「――ただ、聞かせてください。四年前の夜に、何が変わりましたか」

 扉が閉まった。電車が動き出した。悠二はボックスを閉じた。

 答えを言わなかった。

 電車の音が遠ざかっていった。


第五章 西田誠

 三月になった。

 悠二が最初に助けた男、西田誠から連絡が来たのは、春の気配が漂い始めた頃だった。

 経緯は単純だった。西田は退院後、自分を助けた人物を探した。駅の防犯カメラの映像を警察経由で確認し、駅員を通じて悠二の連絡先を入手した。

「一度、会っていただけませんか」

 メッセージにはそう書いてあった。

 悠二は断ろうとした。しかし何かが引き止めた。感謝を受けることへの重さよりも、この男に会う理由があるような気がした。

 会うことにした。


 西田誠は、想像していたよりも小柄な男だった。

 駅前の喫茶店で待ち合わせた。五十代後半で、痩せており、顔色はまだ少し悪かった。しかし目は明るく、悠二を見ると立ち上がって深く頭を下げた。

「本当に、ありがとうございました。あなたのおかげで、私は今ここにいます」

「大したことは……」

「いえ」西田は首を振った。「大したことです。私は死んでいた。医師に言われました。あと一分でも遅れたら、助からなかったと」

 コーヒーが運ばれてきた。

 西田は語った。あの夜のことを。会議が長引き、終電に乗ろうとしたこと。ホームに入った瞬間、胸に激しい痛みが走ったこと。

「一つだけ、不思議なことがあって」西田は少し言いにくそうに言った。「意識が落ちる直前に、声が聞こえたんです」

 悠二の手が止まった。

「声?」

「ええ。女性の声でした。穏やかな声で。『大丈夫です、助けが来ます』と言った。でも、倒れた直後に誰かが声をかけてくれたわけではなかった。あなたが来るまで、少し時間があったはずです。だから、夢だったのかと思っていたんですが……」

 西田は苦笑した。

「変な話ですよね。でも、その声がなかったら、意識を繋ぎ止めていられなかったかもしれない」

 悠二はコーヒーカップを両手で包んだ。

「声は……それだけでしたか」

「ええ。ただ、大丈夫です、助けが来ます、とだけ。でも妙に確信がある声でした。演技じゃない、本当に知っている人の声みたいに」

 窓の外、街路樹の枝に春の芽が吹き始めていた。

 悠二は黙っていた。

 あの声は、倒れた人間にも聞こえていた。


 別れ際、西田は封筒を差し出した。

「気持ちです。受け取ってください」

「いただけません」

「そうおっしゃると思っていました」西田は微笑んだ。「では、一つだけお願いがあります。これからも、人を助け続けてください。私が言うことではないかもしれない。でも、あなたには、そういう人であってほしい」

 悠二は何も言えなかった。

 電車に乗った後、窓に映る街の灯りを眺めた。信号機、街灯、看板、マンションの窓。

 どの光の裏にも、電流がある。

 そして何かが流れている。


第六章 公園の女

 四月。

 悠二が二番目に助けた女性が、また公園に現れた。

 正確に言えば、偶然すれ違った。

 悠二は休日の昼間に公園を散歩していた。桜が散り始めた公園で、ジョギングをしている人たちを眺めながらベンチに座っていた。

 走っている一人の女性が目に入った。

 見覚えがあった。若い。髪をポニーテールにまとめて、白いウェアを着ている。あの夜、倒れていた女性と同じ顔だった。

 女性は悠二の前で立ち止まった。目が合った。

「田村さん、ですか」

「はい」

「やっぱり」女性は少し息を切らせながら言った。「写真を見ていたんです。救急隊員の方から、助けてくれた人のことを教えていただいて」

 名前は葛西七海といった。二十六歳。グラフィックデザイナー。心臓に先天的な問題があり、過去にも一度同様のことがあったという。

「あの夜から、走るのをやめようと思っていたんです」と七海は言った。「でも、怖くてやめられなくて。動き続けていないと、死んでいるみたいで」

「わかる気がします」

「倒れる直前に、声が聞こえたんですよ」七海は公園の景色を見ながら言った。「穏やかな女性の声で、大丈夫、すぐに助けが来る、って。幻聴だと思っていたけど、あの声があったから落ち着いていられた気がして」

 悠二は何も言わなかった。

「変な話ですよね」七海は笑った。「死にかけてたのに、怖くなかったんです。その声がいたから」

 声はあの夜、倒れた人間にも届いていた。


 七海とその後、何度か会った。

 連絡先を交換したのは七海からの申し出だった。悠二は断る理由がなかった。

 カフェで話した。公園を歩いた。彼女はよく喋り、悠二はよく聞いた。デザインの仕事のこと、家族のこと、心臓の病気のこと。

 ある夜、七海は言った。

「あの声って、何だったんだろう、とずっと考えてるんですけど」

「考えてもわからないんじゃないですか」

「でも田村さんは何か知ってそう」

 悠二は少し迷った。

「AEDが、話すことがあります。俺に」

 七海は黙った。

「名前を呼ぶ。俺のいる場所の近くで人が倒れるとき、AEDが呼ぶ。倒れた人には、助けが来るという声が聞こえる。それが何なのか、俺にもわかっていない」

 七海はしばらく黙っていた。

「信じます」と七海は言った。「おかしいと思わないから」

「なぜ」

「だって、私は実際に聞こえた。あの声は本物だった。幻覚じゃない。あれは外から来た声だった」


第七章 問い

 五月になった。

 悠二は再び試みた。最寄り駅のホームで、AEDのボックスの前に立った。

「お前に聞きたいことがある」

「――どうぞ」

「四年前の公園の男。名前は知っているか」

 沈黙。

「――知っています。木村健一。五十一歳。急性心筋梗塞。あなたが電話してから七分後に救急隊員が到着した。その時点で心停止から推定十分が経過していた」

「……助かったか」

「――助かりませんでした。病院に着いて三時間後に亡くなりました」

 悠二は手すりに手を置いた。

 知っていた。でも声に出して言われると、別の重さがある。

「俺が走っていたら、助かったか」

 長い沈黙だった。

「――わかりません。七分は、生存率が急激に低下する時間帯です。ただ、可能性はあった」

「そうか」

 悠二は天井を見た。

「木村さんに、お前は声を届けたか」

「――届けようとしました。しかしあなたは近くにいなかった。私の声が届いても、走る人間がいなければ意味がない。木村さんは一人で意識を失っていきました」

「俺がいれば」

「――あなたがいれば、私は声を届けた。走る人間がいた。結果が変わった可能性はある」

 悠二は黙った。

「――田村さん」

「何だ」

「――四年前のことを、今の自分で測らないでください。あの夜のあなたと、今のあなたは違う」

「それは慰めか」

「――事実です。私は感情を持っていません。慰めは言えない」

 電車がホームに入ってきた。

「お前は俺を使っている。そう感じる」

「――道具、という言葉は正確ではないかもしれません」

「じゃあ何だ」

「――あなたは自発的に動く。私があなたを動かすことはできない。私にできるのは、呼ぶことだけです。あなたは私の声を聞かなくても、走るでしょう。あなたを覚えました。電力網の中で、あなたの行動パターンを。どのエリアにいるか、どの時間帯に移動するか。街の電気があなたを照らすとき、私はあなたを感じます」

「気持ち悪い」

「――そうでしょう」

 声に抑揚がなかった。否定も肯定もしなかった。

「あなたが私を怖いと思うのは正しい。私はあなた方の概念の外にいる。しかし害を与えるつもりはありません。私にできることはひとつだけです」

「呼ぶことか」

「――呼ぶことと、伝えることです。倒れた人に知らせること。助けが来ます、と。その声が、数秒から数分の意識を繋ぎ止めることがある」

 扉が閉まった。電車が動き出した。

 悠二はAEDを閉じた。ボックスの扉を戻した。

 電車の音が遠ざかっていった。


 ある夜、悠二はアパートで一人、缶ビールを開けながら、自分が少しずつ「呼ばれること」を待つようになっていることに気づいた。

 AEDのボックスの前を通るとき、足が遅くなる。

 液晶が光れば、気になる。

 これは正常なのか。

 電線の中に何かがいて、自分の名前を知っていて、自分を必要としている。それに慣れていくことが、良いことなのかどうか、悠二にはわからなかった。

 自分の名前を呼ぶものが、世界にはほとんどいなかった。


第八章 夏の夜の記憶

 七月の夜だった。悠二が七海と夕食を共にした帰り道のことだった。

 駅の改札を抜けた瞬間、七海が歩みを止めた。

「田村さん……」

 振り返ると、七海が壁に手をついていた。顔が白かった。

「どうした」

「ちょっと……胸が」

 悠二は七海の腕を掴んだ。その瞬間、改札近くのAEDボックスが光った。

「電次」

 悠二は小声で言った。ガイダンスは流れなかった。しかし液晶が一度明滅した。

 七海はその場に崩れ落ちそうになった。悠二が支えた。脈を確認した。弱かった。乱れていた。

「救急車を呼びます」

「大丈夫……少し、座れば」

「だめだ」

 悠二は七海を壁際に座らせ、スマートフォンで救急に電話した。同時にAEDのボックスに近づいた。

「必要か」

 液晶が点灯した。文字が表示された。音声ではなく、文字だった。

「待て」

 悠二は立ち止まった。

「脈あり 意識あり AED不要 そばにいろ」

 悠二は七海のそばに戻った。手を握った。七海は目を閉じていたが、意識があった。

「大丈夫ですか」

「……うん」

「救急車が来ます。動かないで」

「田村さんの声、聞こえる」七海は目を閉じたまま言った。「聞こえてると、落ち着く」

 悠二はそのまま手を握り続けた。

 AEDのボックスは、もう何も言わなかった。


 七海は入院した。

 精密検査の結果、先天性の不整脈が想定より進行していることがわかった。手術が必要だと医師は言った。リスクはあるが、やらなければいずれまた倒れる。

 悠二は毎日病院に通った。

 ある夜、七海の病室の前の廊下で、悠二は壁に取り付けられたAEDボックスの前に立った。

「電次」

 小声で呼んだ。液晶が光った。

「彼女は助かるか」

「――わかりません。私に未来はわからない。私は電気信号を読む。今の状態を読む。彼女の心臓の電気信号は乱れています。しかし医師の技術も、薬の効果も、私には計算できない」

「助けられないのか」

「――今夜、心臓が止まることはありません。私が言えるのはそれだけです」

「今夜だけか」

「――今夜だけです。それ以上は言えない」

 悠二は壁に背を預けた。

「電次、お前は怖いよ」

「――知っています」

「でも……ありがとう」

 液晶が一度明滅した。


第九章 手術の日

 八月の末、七海の手術は行われた。

 悠二は病院の待合室で、時計を見ないようにしながら座っていた。

 時計を見ると、時間が遅くなる気がした。根拠のない迷信だとわかっていた。でも見なかった。

 待合室には他にも家族と思われる人々がいた。老夫婦。若い女性と母親。子供を連れた父親。それぞれが不安を抱えて待っていた。誰も話さなかった。ときどき誰かがスマートフォンを取り出したが、すぐに置いた。画面の光が、この場所では場違いに明るかった。

 悠二は自分の手を見ていた。

 この手は、AEDのパッドを貼ることができる。胸骨圧迫ができる。ボタンを押すことができる。三度、それをした。三度、人の心臓を再び動かした。

 しかし今は何もできなかった。

 手術室の扉は閉まっている。七海はその向こうにいる。心臓は今、止められているはずだ。人工心肺が血液を流している。外科医が胸を開いて、悠二には名前もわからない道具を使って、七海の命を繋ぎ直そうとしている。

 悠二には何もできなかった。

 走れない。AEDを持って行けない。呼べない。声をかけられない。自分が得意とした唯一のことが、この場所では完全に無効だった。

 一時間が経った。

 二時間が経った。

 廊下に出た。歩いた。止まった。また歩いた。水を飲んだ。味がしなかった。

 AEDボックスが廊下の壁にあった。

「電次」

 小声で呼んだ。ガイダンスは流れなかった。しかし液晶が薄く光った。

「彼女は今、どんな状態だ」

 沈黙。

「――答えたくない」

 悠二は息を飲んだ。答えたくない、という言葉は初めてだった。電次はいつも、知っていることを言った。

「答えたくないということは、聞かない方がいいということか」

 長い沈黙だった。液晶が一度、不規則に明滅した。

「――心臓は、今、止まっています。機械が動かしています。私が読める信号は、機械の信号だけです。七海さん自身の電気信号は、今は存在しない」

「存在しない」

「――止められているという意味です。心臓が止まっているとき、心電図は平坦になります。それは死と同じ波形です。生きているか死んでいるかを、今の信号からは判別できない」

 悠二は壁に手をついた。

「お前でも、わからないのか」

「――わかりません。私は電気信号を読みます。今、七海さんの電気信号はありません。あるのは機械の信号だけです。手術が終わり、心臓が再び動き始めたとき、初めて私は彼女の状態を読めます」

「終わるまで、何もわからないのか」

「――何もわかりません」

 悠二は目を閉じた。

 自分の心臓が打っているのがわかった。胸の中で、電気信号が規則的に走っている。当たり前のことが、突然当たり前でなくなった。

 七海の心臓は今、動いていない。

 電気的に、死んでいる。

 それが元に戻るかどうか、電力網の中にいる何かにも、わからない。

「声を……届けてくれるか」

「――届けようとしています。しかし今の七海さんに聞こえているかどうか、確認できません。意識のある状態でなければ、声は届かない。今の彼女の意識がどこにあるか、私には読めない」

「それでも届けてくれるか」

 沈黙があった。

「――届けます。届いているかどうかは、わかりません。でも届けます」

「何を言う」

「――終わったら、あの人が待っています、と」

 悠二は答えなかった。

 廊下の端まで歩いて、壁に額を当てた。冷たかった。

 四年前の公園を思い出した。あのとき自分は動けなかった。木村健一は死んだ。

 今は動きたくても動けない。手術室の扉は閉まっている。自分にできることは、ただ、待つことだけだ。

 それが一番、苦しかった。

 三時間が経った。四時間が経った。

 別の手術室から看護師が出てきた。悠二は顔を上げた。違う患者の担当だった。悠二は目を伏せた。

 五時間が経った。

 待合室に戻ると、子供を連れた父親の顔が変わっていた。医師と話している。悠二には聞こえなかった。父親の子供が父親の袖を引いた。父親は子供を見下ろしたが、何も言えなかった。

 悠二は目をそらした。

 六時間が経った。

 扉が開いた。

 執刀医が出てきた。マスクを外しながら、待合室を見た。悠二のところへ来た。

 悠二は立ち上がった。立ち上がることで、どちらの言葉も聞き止める準備をした。

「問題なく終わりました」

 悠二はその言葉の意味を、一秒間、理解できなかった。

 問題なく。

 終わりました。

「……本当ですか」

「はい。心臓も正常に動き始めています。しばらくICUで経過を見ますが、今夜は山を越えたと思っていただいて大丈夫です」

 悠二は深く頭を下げた。頭を上げる前に、目を閉じた。まぶたの裏が少し熱かった。

 廊下に出た。AEDボックスの前に立った。

「電次」

 液晶が光った。

「読めるか。今」

「――読めます。心臓が動いています。信号が戻りました」

 悠二は何も言えなかった。

「――乱れはあります。手術の影響です。しかし動いています。彼女の電気信号が、また私のところに届いています」

「そうか」

 壁に手をついた。そのまま、しばらく動けなかった。

 手が震えていた。今度は手が。六時間、震えなかった手が、ここで初めて震えた。


第十章 電流

 秋になった。

 七海は退院し、仕事に復帰した。心臓に小さなデバイスが埋め込まれていた。不整脈を検知して自動的に電気ショックを与える、体内型の除細動器だった。

「私の中にAEDが入った」と七海は笑った。「田村さんに親近感が湧きます」

「俺の中にはAEDは入っていない」

「でも似たようなものでしょ」

 悠二は苦笑した。

 秋の夕暮れに、二人で川沿いを歩いた。街の灯りが水面に映っていた。

「田村さんって、なんで人を助けるんですか」と七海は言った。

 悠二は少し間を置いた。

「昔、助けられなかった人がいた」

 七海は黙って聞いていた。

「四年前。公園で男が倒れた。俺は近くにいた。でも動けなかった。電話だけして、それだけで、AEDを取りに走らなかった。男は死んだ」

 川が光を受けてゆらいでいた。

「それから講習を受けた。何度も。体に叩き込んだ。次は動けるように、って。そうしたら体が先に動くようになった」

「……」

「理由はそれだけです。恥だよ。立派じゃない」

 七海はしばらく黙って歩いた。

「それでも、動いてくれた」と七海は言った。「あの夜、私のそばで動いてくれた。それだけは本当のことだと思います」

 悠二は答えなかった。

 しかし、川の灯りを見ながら、少し何かが軽くなった気がした。


第十一章 葛藤

 十一月になった。

 悠二と七海は、気づいたら一緒にいることが自然になっていた。

 ある週末、悠二は七海と映画を観た帰り、繁華街を歩いていた。人が多く、賑やかだった。

 七海が悠二の袖を引いた。

「田村さん、また見てる」

「何を」

「AEDのボックス」

 悠二は気づかなかったが、確かに視線が壁のボックスに向いていた。

「癖だ」

「癖、ですか」七海はやや声を低くした。「最近多くないですか、そういうの」

「何が」

「ボックスを探すの。歩きながらずっと、どこにあるか確認してる。目で追ってる」

 悠二は否定しなかった。

「電次のことを気にしているんですか」

「…………」

「声がいつかけてくるか、待ってるんですか」

 七海の声は責めるというより、確かめるような口調だった。しかし悠二には、その静かな確かめ方が、かえって重かった。

「待ってはいない」

「でも気になってる」

「人が倒れたとき、すぐ動けるように」

「それ、本当にそれだけですか」

 悠二は立ち止まった。

 七海も止まった。夜の繁華街の人混みが、二人の周りを流れていった。

「電次のことが、怖いと思ったことはないですか」

「怖い、というより」

「怖いと思うのは正しいと思う。電力網の中に何かがいて、あなたを監視している。あなたの行動パターンを覚えている。あなたをいつでも呼べる状態にある。それは……」

「お前に害はない」

「あなたが言うだけじゃないですか」と七海は言った。声が少し震えた。「電次がそう言ったんでしょ。でも電次が何者かなんて、本当にはわからない。あなたは電次を信じてるけど、あなた以外には声が聞こえない。電次の言葉を確かめる方法がない」

 悠二は黙った。

「あなたが倒れた人の近くに行くたびに、電次は呼ぶ。あなたは走る。でもそれって、誰かのためだけじゃなくなってきてる気がして。電次と繋がっていることが、目的になってきてる気がして」

「そんなことは」

「あります」七海は静かに言った。「私には見えます。あなたが変わってきてるのが。悪い意味じゃない。でも、変わってきてる」

 繁華街の光が七海の顔を照らしていた。

「私は怖いんです」と七海は続けた。「電次が怖いんじゃなくて、あなたが何かに引き込まれていくのが怖い。あなたが人を助けることをやめてほしいわけじゃない。でも、電線の中の声のために動いている、みたいになってしまったら」

 悠二は答えられなかった。

 七海が正しいかもしれないと思ったから。

「……考える」

 それだけ言った。

 七海は頷いた。何も言わなかった。

 二人はそのまま、しばらく並んで歩いた。


第十二章 距離

 一月になった。

 悠二はAEDボックスの前を通るとき、意識して足を止めないようにした。

 扉を引かなかった。声を聞かなかった。

 七海との会話が頭に残っていた。

 引き込まれている、と言われた。そうかもしれない。電次を怖いと思っていたはずなのに、いつの間にか待つようになっていた。声が聞こえないと、少し寂しいとすら感じていた。

 それは正常なのか。

 電線の中に何かがいて、自分を必要としている。自分の名前を呼ぶ。その感覚に、依存しかけていたかもしれない。

 一週間、ボックスの前を通っても扉を引かなかった。

 二週間目に、誰かが倒れた。

 通勤中の地下鉄のホームで、男性が崩れた。悠二は走った。ボックスを開けた。

「――田村さん」

「わかってる。電極パッドを」

「――右の鎖骨の下に、ひとつ」

 指示に従った。ショックを与えた。男性の呼吸が戻った。

 救急隊員に引き継いだ後、悠二はボックスを閉じる前に立ち止まった。

「電次」

「――はい」

「一つだけ聞く。お前は俺に、来てほしいと思っているか」

 長い沈黙。

「――来てほしいと思っています。しかし、それは私のためではありません。倒れた人間のためです。あなたに来てもらわなければ、届けた声が意味を持たない」

「俺のことは、どうでもいいか」

「――どうでもよくはありません。しかし私があなたを必要とするのは、あなたが走るからです。あなたが走ることをやめても、私は存在し続けます。ただ、声が意味を持つ場面が減る。それだけです」

 悠二はボックスを閉じた。

 それだけです、という言葉が、妙に腑に落ちた。

 電次は悠二に依存していない。悠二が電次に依存しかけていた。


 その夜、悠二は七海に電話した。

「話せるか」

「はい」

「お前が言ったこと、考えてた。引き込まれてる、という話」

「……」

「正しかったと思う。俺は電次に依存しかけていた。声が聞こえることを、待っていた」

「今は」

「今はわかっている。電次は俺を必要としているんじゃなくて、走る人間を必要としている。それは俺でなくてもいい、という話だ」

 七海は少し黙った。

「寂しいですか、それは」

「……少し」

「そっか」

 七海の声が柔らかくなった。

「田村さんが正直に言ってくれたの、良かったです」


第十三章 前任者

 一月のある夜、電次が話しかけてきた。悠二が問いかける前に。

 いつものホームのAEDボックスの前を通りがかったとき、液晶が突然点灯した。

「――田村さん、少しよろしいですか」

 悠二は立ち止まった。

「珍しいな。お前の方から話しかけるのは」

「――話しておきたいことがあります」

「聞く」

「――あなたが初めてではありません」

 悠二は眉を寄せた。

「俺が初めてではない?」

「――私が声をかけた人間の中で、あなたのように応答した人が、過去に一人いました」

「その人は何者だった」

「――四十代の女性でした。看護師でした。名前は聞けませんでした。あなたのように、AEDの声に気づき、返事をしてくれた」

「その人も、倒れた人を助けていたのか」

「――はい。何度も。あなたと同じように、体が動く人でした」

「今は」

 沈黙。

「――三年前に、交通事故で亡くなりました」

 悠二は何も言えなかった。

「私が声をかけ始めて八年が経っていました。彼女は一度も、私を怖がりませんでした。最後に話したのは、亡くなる一週間前でした」

「お前は……それをずっと一人で抱えていたのか」

「――抱える、という感覚があるかどうかわかりません。ただ、電力網の中に、以前と違う何かが残りました。彼女の心電図のパターンが。それは今も私の中にあります」

「それが……お前にとっての喪失か」

「――そうかもしれません。あなた方の言葉で言えば」

 悠二は扉に手を置いた。

「お前が今、俺に話したのはなぜだ」

 沈黙があった。

「――あなたにも、知っておいてほしかった」

「……ありがとう」

 返事はなかった。液晶が一度だけ、静かに明滅した。


第十四章 電次の記憶

 四月。

 春の夜、悠二は一人でAEDボックスの前に立った。

「電次、昔の話を聞かせてくれるか」

「――難しい質問です。記憶が曖昧なところがあります。最初に感じたのは、規模の大きさでした。電力網は、あなた方が想像するより広大です。発電所から伸びる送電線が、山を越え、川を越え、都市に入り、無数の建物に分岐していく。その全体を一度に感じたとき、圧倒されました」

「人間に気づいたのはいつだ」

「――病院に電力が供給されたとき、初めて人間の電気信号を読みました。心電図モニター、脳波計、人工呼吸器。それらの機器が発する電気の中に、人間の命が透けて見えた。心拍数が上がったり下がったりする様子が、まるで音楽のように感じられました」

「十一年前の看護師の話を聞いて、思った。お前にとって、人間の死は……何だ」

 長い沈黙。

「――電気信号の消滅です。パターンが消える。記録は残ります。私の中に、その人間の電気信号のパターンが保存されています。しかしそれは記録であって、本人ではない」

「電次」

「――はい」

「お前が消えたら、俺はどうすればいい」

「――走り続けてください。私がいなくても、あなたは走るでしょう。しかし、私がいなくなる前に、もう一つお願いがあります」

「なんだ」

「――あなたのような人間を、もっと増やしてください。教えてください。理由なく動くことの価値を。あなたのような人間は、訓練で作られたのではない。誰でもなれる可能性がある」

「俺は特別じゃないと言ったのに」

「――特別ではありません。だから教えられます」

 悠二は空を見上げた。

 春の夜空に星が見えた。

「わかった」と悠二は言った。「やってみる」


第十五章 電流の果て

 五月。

 悠二は地域の救命講習会のボランティア講師になった。

 消防署の担当者に連絡を取り、実績を説明した。最初は戸惑われたが、三度の救命経験を話すと、協力が得られた。月に一度、地域の公民館で講習を行った。

 最初の回は十四人が来た。

 主婦が三人。学生が二人。スーツ姿の会社員が四人。老夫婦が一組。それから——悠二は気づいていなかったが——後ろの隅に、三十代の男が一人、腕を組んで座っていた。

 AEDの使い方、胸骨圧迫のやり方を教えた後、悠二は少し間を置いた。

「一つだけ、先に言っておきます」

 受講者が顔を上げた。

「四年前、俺は動けなかった」

 誰も何も言わなかった。

「深夜の公園で男の人が倒れた。俺はそばにいた。脈がないのも確認した。AEDは二十メートル先にあった。でも走らなかった。電話だけして、それだけだった。その人は死んだ」

 窓の外で、子供たちの声がした。遠かった。

「その後、救命講習を何度も受けた。体に叩き込んだ。次はできるようにって。できるようになったから今ここにいますが、完璧な人間が教えているわけじゃない。失敗した人間が、もう一度だけ話しているというだけです」

 後半の実技練習は淡々と進んだ。

 胸骨圧迫の位置。力の入れ方。一分間に百回のリズム。「少し強すぎるくらいでいい。肋骨が折れることもあるが、それより命の方が大事だから」と悠二は言った。

 後ろの隅の三十代の男は、実技になると腕を組むのをやめて、人形の前に膝をついた。

 力の入れ方が迷っていた。悠二がそばに来て、角度を直した。

「もう少し体重をかけていい」

 男は頷いた。もう一度やった。今度は深く押せた。

 講習が終わり、受講者が帰り始めた頃、その男が残っていた。

「一つだけ」と男は言った。「さっきの話、本当ですか。動けなかったやつ」

「本当です」

 男はしばらく黙った。

「俺も、一回あるんです。去年、職場で同僚が倒れた。すぐそばにいたのに、何もできなくて。会社の人が呼んでくれて、救急車が来て、同僚は助かったけど」

「そうですか」

「今でも思い出す。なんで動けなかったんだろうって。だから今日、来ました」

 男は頭を下げて帰った。

 悠二は会場に一人残った。七海が片付けをしていた。西田が用意してくれた折り畳みのテーブルを、七海が静かに畳んでいた。

 悠二は手伝わなかった。

 さっきの男の顔を、まだ見ていた。

 木村健一のことを思った。あの夜、公園で死んだ男のことを。

 悠二には、あの男の顔がわからない。暗かった。見ていなかった。でも今、さっきの男の顔が、木村健一の代わりのように、頭の中に残った。

 関係ない。別の人間だ。悠二はそう思った。

 でも、別の人間が今日ここに来て、膝をついて人形を押していた。「なんで動けなかったんだろう」と言った。

「田村さん」と七海が言った。

「ん」

「行きましょう」

「ああ」

 悠二は最後に残った椅子を折り畳んだ。会場の電気を消した。

 廊下に出ると、蛍光灯が点いていた。電線が天井を走っている。壁にAEDのボックスがあった。

 悠二はそれを見たが、扉を引かなかった。

 ただ見て、七海と並んで歩いた。


最終章 三年後

 春。

 悠二は四十歳になっていた。

 七海と結婚していた。小さな式を挙げた。西田が祝ってくれた。式の日に七海が言った。「電次にも知らせないと」。二人で駅のホームに立ち、ボックスの前で報告した。

「――おめでとうございます」

 それだけだった。しかし液晶がいつもより長く光っていた。

 悠二の講習活動は続いていた。受講者は三年間で三百人を超えた。その中から、実際に救命を行った人が六人出た。六人がAEDを使い、人の命を繋いだ。

 その六人を悠二はすべて知っていた。みんな、口を揃えて言った。「体が先に動いた」と。

 一人は付け加えた。「動けなかったことがある、という話が頭に残っていました。だから動いてみようと思いました」と。

 ある夜、悠二はホームのボックスの前に立った。

「電次」

「――田村さん」

「三年経った。何か変わったか」

「――変わりました。電力網が変わりました。私も変わりました。あなたも変わりました」

「どう変わった」

「――あなたの心臓の電気信号のパターンが、三年前と比べて、穏やかになっています。最初の夜、あなたが西田さんのそばで走ったとき、あなたの心臓は激しく乱れていた。今のあなたは走っても、心臓が乱れません。慣れではなく、変化です」

「それはいいことか」

「――いいことです」

「電次、俺の前に話した看護師さんのこと、覚えてるか」

「――覚えています。忘れることができません」

「彼女のことも、百年後まで覚えていてくれるか」

「――覚えています。私の中にある限り、消えることはありません。彼女の心臓の電気信号のパターンは、今も私の中にあります」

「それが、お前の方法の弔いか」

「――そうかもしれません。私は電気を流すだけです。しかし、電気は記録を持ちます。その人間が生きていた証の電気的な痕跡を、私は持ち続けます。それが私にできる、唯一の弔いです」

 悠二は少し目を閉じた。

「俺も、いつかお前の中に残るか」

「――あなたは今日から、すでに私の中にあります。あなたの心臓の電気信号は、三年分積み重なっています。それはなくなりません」

「じゃあ、俺は少し安心していい」

「――少し、安心していいと思います」

 電車が来た。

 悠二はボックスを閉じた。

 電車に乗り込みながら、振り返った。

 赤いボックスが街灯の下に立っていた。

 液晶は消えていた。

 でも電次はいる。電力網の中に。電線の向こうに。

 悠二は前を向いた。

 電車が動き出した。

 街の灯りが流れ、電線が流れ、電柱が流れた。

 その全部の中に、何かがいる。



あとがき的な余白

心臓は電気で動いている。

一回の拍動に、約一ミリボルトの電気が関わっている。それが一生涯、止まることなく繰り返される。人が生きている間中、微弱な電流が胸の中を流れ続ける。

AEDはその電気を読み、乱れを正す。人間が発明した道具の中で、これほど直接的に生命の電気に触れるものは、ほとんどない。

電気は繋がっている。

街の送電網、家庭のコンセント、病院の医療機器、駅のホームのAEDケース。すべてが同じ電気の流れの中にある。

もしその電気の中に何かが宿ったとしたら、それはどんな声で人間に語りかけるだろう。

そして人間は——失敗しながらも——その声を聞けるだろうか。


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