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【創作大賞2026応募作】その箱、命が入ってます。

あらすじ

 プレゼント選びで、僕はこれまで一度も成功したことがない。二十七年間、直ったためしがない。そんな僕が、人生でいちばん大事な女性への贈り物を選ぶことになった。

 彼女の名前は、来栖咲良。会社の防災研修にやってきた、AED講習インストラクター。彼女がずっと守ろうとしているものを、僕も一緒に背負いたい。指輪でも花束でもない、まっすぐな気持ちを形にできるものが、一つだけある。AEDだ。

 二十九万八千円。誕生日会の座敷で開けられた箱の中身に、その場にいた全員が凍りついた。だがその夜、路地裏で、本当に人が倒れる。

 咲良が明かす、彼女自身の過去。そして、僕が握るしかなかった、命を繋ぐボタン。

 不器用で、ずれていて、それでもまっすぐな愛の物語。笑って、ちょっと泣ける、AEDラブコメ。

 結論から言うと、僕はこれまでプレゼント選びで一度も成功したことがない。

 高校時代、初めて好きになった女子に贈ったのは、なぜか文房具屋で一番目立っていた「高級消しゴム三点セット」だった。当時の僕は、それを「実用的で気が利いている」と本気で信じていた。彼女は困った顔で「ありがとう」と言い、それ以来、僕に話しかけてくることはなかった。

 大学時代、初めてできた彼女の誕生日には、奮発して買った香水を、包装のまま彼女の目の前で盛大に落として割った。割れた瓶からむせ返るような香りが教室じゅうに広がり、彼女はハンカチで鼻を押さえながら、その日一日、僕と口をきいてくれなかった。

 社会人一年目、お世話になった先輩の結婚祝いには、奮発して赤ワインのボトルを選んだつもりが、レジで渡されたのは同じ棚に紛れていたノンアルコールのぶどうジュースで、乾杯の音頭を取った僕だけが延々と素面のまま盛り上がる羽目になった。先輩は今でも、飲み会のたびにその話を持ち出してくる。

 極めつけは去年、母の日に実家へ送った花束だ。「バラの花束を」と電話で注文したはずが、なぜか届いたのは、造花で作られた仏花風のアレンジメントだった。母は電話口で「拓海、これ、私にはまだ早いんじゃないかしら……」と、笑うに笑えない声を出していた。

 要するに、僕・北条拓海(ほうじょう・たくみ)という人間は、贈り物というものに関して、致命的にセンスがない。ずれている。まっすぐ相手を想う気持ちだけはあるのに、それが形になった瞬間、なぜかいつも斜め上に着地する。二十七年間、直ったためしがない。

 もっとも、僕がこんな風に「肝心なところで、いつも何かがずれる人間」になったのには、心当たりがないわけではない。

 小学五年生のとき、祖父の家に遊びに行った日、居間で祖父が急に倒れたことがあった。僕はその場に居合わせた唯一の人間だった。祖父の顔色がみるみる白くなっていくのを見ながら、僕はただ「おじいちゃん、おじいちゃん」と名前を呼ぶことしかできず、電話機の前に突っ立ったまま、指一本動かせなかった。結局、隣の部屋にいた祖母が異変に気づいて救急車を呼び、祖父は一命を取り留めたが、あのときの、体が凍りついたような感覚を、僕は今でも覚えている。

 あれ以来、僕はどこかで、自分のことを「肝心なときに、何もできない人間」だと思い込んでいたのかもしれない。プレゼント選びで毎回変な方向に転がっていくのも、根っこをたどれば、「ここぞという場面で、正しい一歩を踏み出せない自分」への、拭えない苦手意識のせいだったような気がする。人並みに気は利かせたいのに、いざとなると、指先から力が抜けてしまう。そういう人間だった。

 そんな僕が、人生でいちばん大事な女性へのプレゼントを選ぶことになった。今にして思えば、あの一件は、僕の人生における「斜め上」の集大成だったのかもしれない。

 彼女の名前は、来栖咲良(くるす・さくら)。二十九歳。看護師で、僕の勤める精密機器メーカーに去年、防災研修の講師としてやってきた人だ。

 あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。

 総務から「今年度は法定研修としてAEDと心肺蘇生の講習を全社員必須で受けてもらいます」と告知が回ってきたとき、僕は正直、面倒だなと思っていた。金曜の午後、お世辞にも快適とは言えない会議室に社員が四十人ほど集められ、椅子はぎゅうぎゅう詰め。誰もが早く終われと願う空気の中、講師として現れたのが咲良さんだった。

 白衣ではなく、動きやすいポロシャツにパンツ姿。片手に、講習用のダミー人形を小脇に抱え、颯爽と教壇の前に立った。

「今日は皆さんに、目の前で人が倒れたときに、絶対にやってはいけないことを一つだけ覚えて帰ってもらいます」

 通る声だった。迷いのない声、と言ってもいい。

「それは、"誰かがやってくれるだろう"と思って、突っ立っていることです」

 会議室がしんと静まり返った。それまで隣の同僚とスマホをいじりながら喋っていた人たちも、一斉に顔を上げた。

「あなたが動かなければ、目の前の命は助かりません。周りに何十人いても関係ない。あなたです。あなたが最初の一人になる。今日はその覚悟の練習をしに来てもらいました」

 僕は、その日、生まれて初めて「かっこいい」という言葉の意味を、正しい対象に対して使えた気がした。

 実技練習で組んだペアは、くじ引きで隣の席になった同期の女性社員だった。僕はダミー人形の胸を押す力加減がわからず、最初は弱すぎて咲良さんに「それじゃ亡くなります」と真顔で言われ、次は強すぎて「肋骨、折りますよ」と真顔で言われた。周りがどっと笑う中、僕だけが顔を真っ赤にして、人形相手に汗だくになっていた。

 何度やっても上手くいかず、とうとう人形の頭が横にずれてしまったとき、会議室の後ろの方から、露骨な失笑が漏れた。誰かが「あの人、才能ないんじゃない」と、小声のつもりで、でも十分聞こえる声で言うのが耳に入った。僕は、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなり、その場に立ち尽くした。

 そのとき、咲良さんが、笑い声のした方へ、まっすぐ顔を向けた。

「笑わないでください」

 冗談めかした空気は、一瞬で消えた。

「最初にできなくて、当たり前です。むしろ、できないことを笑われるくらいなら、誰もやろうとしなくなる。それが一番怖い。今、この人は、下手なりに、最後まで手を止めずにやり切ろうとしてました。それだけで、十分立派なことです」

 会議室は、しんと静まり返った。誰も、それ以上茶化そうとはしなかった。僕は、顔を上げることもできず、ただダミー人形を見つめていた。だが、胸の奥で何かが、確かに熱くなっているのを感じていた。誰かに笑われたことよりも、誰かに、こんなにまっすぐ庇ってもらったことの方が、ずっと強く記憶に残った。

 同時に、頭の片隅で、小学五年生のあの日の記憶が、不意によみがえっていた。祖父の前で立ち尽くすことしかできなかった、あの無力な自分。もしあのとき、誰かがこんな風に「できなくて当たり前」と言ってくれていたら、僕は、もう少し早く、一歩を踏み出せる人間になれていたんだろうか。そんなことを、柄にもなく考えていた。

「北条さん、でしたっけ。力の入りどころ、右に左にぶれすぎです。もっと、自分の体重を素直に乗せる感覚で」

 咲良さんは僕の隣にしゃがみこみ、僕の手の上に自分の手を重ねて、圧迫のリズムを実演してみせた。触れられた手の甲が、やけに熱く感じたのを覚えている。

 休憩時間、彼女の方から僕のところにやってきた。

「北条さん、さっきの圧迫、力の入れどころは滅茶苦茶でしたけど」

「はい、すみません……」

「でも、諦めずに最後までやり切ろうとしてたの、あなただけでしたよ。他の人はみんな途中で疲れて手を止めてた。腕、震えてたでしょう。それでも止めなかった」

 それだけ言って、彼女は次のグループへ歩いていった。

 僕はその背中を、しばらく見送っていた。

 こういうのを、一目惚れと呼ぶのだろうか。いや、正確には「一言惚れ」だったかもしれない。とにかく僕は、その日を境に、来栖咲良という人のことしか考えられなくなった。研修終了後の飲み会で、同僚たちが「今日の講師さん、格好良かったな」と話しているのを聞いて、なぜか僕は一人だけ、他人事とは思えないほど誇らしい気持ちになっていた。

 その夜、酔った勢いで、僕は同僚の一人にうっかり本音を漏らした。

「俺、今日の講師さんに、めちゃくちゃ惚れたかもしれない」

「北条、お前、あの人プロだぞ。しかも研修の講師って、社外の人だろ。連絡先とか知らないだろうし、諦めろ」

「……確かに」

 その場は笑い話で終わったが、家に帰ってからも、僕はスマホの画面を見つめたまま、なかなか寝付けなかった。検索窓に「AED 使い方」「心肺蘇生 コツ」と、意味もなく打ち込んでは消す夜が、しばらく続いた。自分でも、どうしてこんなに引っかかっているのか、うまく説明できなかった。ただ、あの日の会議室で感じた高揚感を、もう一度味わいたいという気持ちだけが、はっきりとあった。

 それから半年。

 僕は、恥ずかしながら未だに咲良さんと個人的な連絡先すら交換できていなかった。研修の後、総務経由で「講師への感想アンケート」を書く機会があり、そこに紛れ込ませる形で自分の名刺を渡すという、我ながら小賢しい作戦を実行したのが精一杯の進展だった。

 だが、運命というのは、時々ちゃんと帳尻を合わせてくれるものらしい。

 二ヶ月後、咲良さんの方から僕の会社に「地域の救命講習ボランティアに参加してくれるスタッフを探している」という相談が来た。総務の人が朝礼で「誰かやってくれる人」と募集をかけたとき、社内で唯一、食い気味に手を挙げたのが僕だった。同僚たちには「北条、急にやる気出したな」と怪しまれたが、僕は「地域貢献に興味が湧いて」と苦しい言い訳をして押し通した。

 それから月に一度、地域の公民館で開かれる救命講習の手伝いをするようになり、少しずつ、咲良さんと言葉を交わす機会が増えていった。

 最初の頃は、事務的な連絡ばかりだった。会場のセッティング、人形のメンテナンス、資料の印刷部数。だが、回を重ねるごとに、その合間の雑談が増えていった。

 ある月、講習の後片付けをしていたとき、咲良さんが不意にこう言った。

「北条さんって、ボランティア、飽きずに続けてくれますよね。他の会社の人、だいたい三回目くらいで来なくなるのに」

「咲良さんの講習、毎回勉強になるので」

「本当に? それとも他に理由がある?」

 からかうような目で見られて、僕は動揺のあまり、持っていた資料の束を見事にひっくり返した。散らばった紙を二人で拾い集めながら、咲良さんは声を上げて笑っていた。

「北条さん、講習中は真剣なのに、それ以外だとほんと危なっかしいね」

「よく言われます……」

 また別の月、講習の帰り道、公民館前のコンビニで、咲良さんに「ちょっと付き合ってよ」と誘われ、二人でアイスを買って、駐車場の縁石に座って食べたことがあった。

「北条さんは、なんで最初にこのボランティア引き受けてくれたの?」

 僕は、慌てて「地域貢献です」といういつもの言い訳を口にしかけたが、彼女のまっすぐな目に見つめられて、なぜか本当のことを言ってしまいそうになった。すんでのところで思いとどまり、代わりにこう答えた。

「咲良さんの講習を聞いた日、"かっこいいな"って、素直に思ったからです」

 咲良さんは一瞬きょとんとした後、「なにそれ」と言って、また笑った。だが、その日の帰り際、彼女は珍しく少し照れた顔で「じゃあ、また来月」と手を振ってくれた。

 その帰り道、僕らは初めて、講習にもAEDにも関係のない話をした。

「北条さんって、映画とか観る?」

「たまに観ます。咲良さんは」

「私、実は大のホラー映画好きなの。人には言うと引かれるんだけど、悲鳴を上げるくらいなら、まだ心臓が動いてる証拠だから、逆に安心するっていうか」

「それ、職業病なのか性格なのか、微妙なラインですね」

「両方かも」

 咲良さんは、悪戯っぽく笑った。それから、意外なことに、大の甘党で、辛いものが全く食べられないことも教えてくれた。

「講習の後、いつも無性に甘いもの食べたくなるんだよね。北条さんは?」

「俺は逆に、辛いものなら結構食べられます」

「へえ、じゃあ今度、皆で辛いもの祭りみたいなお店行ってみようかな。私は横で甘いデザートだけ頼むけど」

 たわいもない会話だった。だが、それまで僕の中で「命を救う人」というイメージだけで固まっていた咲良さんの輪郭が、その日を境に、少しずつ人間らしい色を帯びていくのを感じた。ホラー映画が好きで、辛いものが苦手で、疲れると甘いものが食べたくなる、ごく普通の二十九歳の女性。その普通さに触れるたびに、僕の気持ちは、憧れから、もっと違う何かへと変わっていった。

 別の月には、講習が予定より早く終わった日、公民館の外のベンチで、咲良さんが資料をまとめながら、うとうとと舟をこいでいるところに出くわしたこともある。

「咲良さん、寝てます?」

「……寝てない、寝てない。ちょっと目を閉じてただけ」

 明らかに寝ていた咲良さんは、慌てて姿勢を正しながら、それでも眠気に負けて、また少しだけ船をこいでいた。看護師として、誰かの命に向き合っているときは決して隙を見せない彼女が、こんな無防備な顔をすることもあるのだと知って、僕はなんだか、無性に、その寝顔をずっと見ていたいような気持ちになった。もちろん、そんなことを言えるはずもなく、僕はただ、彼女が起きるまで、資料を静かに整理して待っていた。

 彼女は、僕が思っていた以上に、まっすぐな人だった。冗談は言うのに、命に関わることでは絶対に妥協しない。講習の予定が入っていれば、どんなに疲れていても絶対に休まない。台風が接近していたある月も、参加者が僕一人だけになったにもかかわらず、彼女は手を抜かず、いつもと同じ熱量で講習をしてくれた。かと思えば、公民館の帰り道、下らないテレビの話で子供みたいに笑う。そのギャップに、僕はどんどん惹かれていった。

 半年経った頃には、僕にとって咲良さんは「憧れの講師」ではなく、「誰よりも大切にしたい、一人の女性」になっていた。

 その気持ちが決定的になったのは、梅雨の終わりのある夜だった。その日の講習は台風並みの大雨で中止になったのだが、僕は資料を届けるという口実で公民館に立ち寄った。すると、休憩室の隅で、咲良さんが一人、缶コーヒーを片手にぼんやりと座っているのを見つけた。

「咲良さん、どうしたんですか、こんなところで」

「ああ、北条さん。ごめん、ちょっと、今日は病院の当直明けで」

 よく見ると、彼女の目の下には濃いくまができていた。

「昨日の夜、救急外来がめちゃくちゃ忙しくて。結局、助けられなかった人もいて……こういう日は、さすがに、講習のときみたいに元気に振る舞えないんだよね」

 彼女は、缶コーヒーを両手で包むように持ちながら、ぽつりと続けた。

「四十代の男性でね、搬送されてきたときにはもう、かなり厳しい状態だった。奥さんが、廊下で、"どうして、どうして"って、ずっと繰り返してて。ああいう場面に立ち会うたびに、思うの。あと数分早く、誰かが胸を押していたら、って」

「……」

「わかってるよ、いつも全部を救えるわけじゃないって、頭では。それでも、"もしも"を考えずにはいられない性分でね。北条さんには、こういう愚痴、初めて言った気がする」

 彼女がそんな弱音を漏らすのを、僕は初めて聞いた。いつも凛としている咲良さんの、その奥にある疲労と痛みに、僕は初めて触れた気がした。

「無理して笑わなくていいですよ、今日くらいは」

 僕がそう言うと、咲良さんは驚いたように僕を見て、それから少しだけ、肩の力を抜いたように微笑んだ。

「ありがとう。北条さんの前だと、なんか、素で喋れちゃうな」

 その一言が、僕の中で何よりも大きな意味を持った。彼女が誰にでも見せるわけではない顔を、僕にだけ、少し見せてくれた気がしたからだ。

 同じ頃、ボランティアの輪に、もう一人、新しい男性が加わっていた。同じ会社の消防設備関連の仕事をしているという田村さんという人で、話が上手く、講習の手伝いも手際が良かった。何かにつけて咲良さんに気安く話しかける田村さんを見るたびに、僕は説明のつかない苛立ちを覚えた。

「北条くん、もしかして、田村さんのこと意識してる?」

 亮太にそう指摘されたとき、僕は思わずムキになって否定した。

「別に、そんなんじゃない」

「顔にでかでかと書いてあるけどな」

 結局その苛立ちこそが、僕に「このままではいけない」と思わせる、最後の一押しになった。誰かに奪われるかもしれないという焦りではなく、このままただ隣にいるだけでは、自分の気持ちは永遠に彼女に届かないという、当たり前の事実に、僕はようやく向き合うことになったのだ。

 その少し前、真夏の盛りに、公民館の夏祭りの手伝いという名目で、講習仲間数人と一緒に、地域の夜店を回ったことがあった。咲良さんは、金魚すくいで一匹も掬えず悔しがったかと思えば、射的では見事に的を落として景品のぬいぐるみを手に入れ、子供のようにはしゃいでいた。

「拓海くんも、やってみなよ。金魚すくい」

 僕は張り切って挑戦したが、案の定、ポイの紙はあっという間に破れ、金魚は一匹も掬えなかった。それどころか、勢い余ってバケツごとひっくり返しそうになり、店主のおじさんに本気で怒られた。

「北条さんって、本当に、何やってもこうなるよね」

 咲良さんは、お腹を抱えて笑いながら、そう言った。だが、その笑い方には、呆れよりも親しみの方が、ずっと色濃く滲んでいるように、僕には感じられた。

 帰り道、浴衣姿の咲良さんの隣を歩きながら、僕はふと、この時間がずっと続けばいいのにと思った。友人としてでも構わない、ただ、この距離感のまま、彼女の隣を歩き続けられたら——そう思う一方で、心のどこかで、その「友人としてでも」という自分に対する妥協に、小さな苛立ちを覚えてもいた。

 問題は、それをどう伝えるか、だった。

 咲良さんの誕生日は、九月の終わり。ボランティア仲間内でささやかな誕生日会を開くという話が持ち上がったとき、僕は密かに決意した。

 今年こそ、ちゃんと気持ちを伝えよう。プレゼントに乗せて。

 この半年、彼女がどれだけ人の命に向き合ってきたか、僕はずっと隣で見てきた。だからこそ、ありきたりのアクセサリーや花束では、なんだか自分の気持ちに嘘をつくような気がした。

「拓海、お前が"ありきたりじゃ嫌だ"とか言い出すと、だいたいロクなことにならないぞ」

 相談した友人の亮太は、行きつけの居酒屋のカウンターで、そう言って露骨に嫌な顔をした。彼は大学時代、僕の香水事件を間近で目撃している数少ない生き証人だ。

「今回は違う。ちゃんと考える」

「お前の"ちゃんと考えた"は、いつも斜め上に飛んでいくんだよ……。普通に、指輪とか、財布とか、無難なものにしとけって」

「普通の指輪じゃ、俺の気持ちの何割も伝わらない気がするんだよ」

「気持ちの何割とか気にする前に、まず相手が使えるものを選べ。頼むから」

 亮太はその後も、思いつく限りの無難な案を挙げてくれた。

「マグカップは?」

「ありきたりすぎる」

「じゃあ、旅行券」

「それは、俺が"付き合ってもいない相手"に渡すには重すぎる」

「じゃあ、消防士とか警察官がよく使うっていう、あの高性能な懐中電灯は」

「それ、お前が単に好きなだけだろ」

「バレたか。……もう、普通に食器とかでいいだろ」

「咲良さんが一人暮らしの部屋でどんな食器を使ってるかなんて、俺、知らないんだよ」

「じゃあ調べろよ! 何一つ決められないくせに、無駄にハードル上げてくるのやめろ!」

 亮太の悲鳴のような声を聞きながら、僕は「決められない」のではなく、「正解が"モノ"の中には存在しない」と、うっすら気づき始めていた。

 亮太の忠告は正しかった。今にして思えば、痛いほど正しかった。

 だが僕は、翌週末、デパートのジュエリー売り場で指輪のケースを前にした瞬間、猛烈な違和感に襲われた。

「こちらのシリーズは、末永い愛の証として、多くのお客様にお選びいただいております」

「あの、プロポーズ前提というわけではなくて、その、まだ告白もしてなくて」

 店員は一瞬固まったあと、営業スマイルを崩さずに、別のケースを勧め直してくれた。

「でしたら、こちらのシンプルなペンダントなどはいかがでしょう。告白前の贈り物としても、人気がございます」

 店員の丁寧な説明を聞きながら、僕は「これは、僕が"贈りたいもの"じゃない」と直感した。世間が"贈るべきだ"と言っているものを、なぞっているだけだ。ケースの中でキラキラ光る指輪を見つめても、そこに咲良さんの顔は浮かんでこなかった。

「あの、少し考えます」

 僕は逃げるようにジュエリー売り場を後にした。

 帰りの電車で、僕は思い切って母に電話をかけた。あの母の日の造花事件以来、僕のプレゼントセンスに全幅の不信感を抱いている母は、開口一番こう言った。

「拓海、まさかまた変なもの選ぼうとしてるんじゃないでしょうね」

「そんなことないよ。今、ちゃんと真剣に考えてる」

「あなたの"真剣に考えた"が、一番怖いのよ……。相手の方、いくつなの? 好きな色は? 趣味は?」

「二十九歳。色はよくわからないけど、趣味は……多分、人を助けること、かな」

「はあ? なにそれ、質問の答えになってないじゃない」

 電話の向こうで、母が呆れたようにため息をつくのが聞こえた。

「とにかく、無難なものにしときなさい。アクセサリーとか、ブランドもののポーチとか。奇をてらうんじゃないの」

「わかった、考えとく」

 電話を切ったあと、僕は「無難」という言葉を頭の中で何度も転がしてみた。だが、どうしても、その言葉が咲良さんという人には似合わない気がしてならなかった。彼女は、僕がこれまで出会ったどの女性とも違う。無難なもので喜んでもらえるとは、到底思えなかった。

 その足で、僕は家電量販店にも寄ってみた。最近人気だという、女性向けの高級ドライヤーや、香り付きのアロマディフューザーを手に取ってみる。だが、どれも「咲良さんが休みの日に、家でゆっくり使う姿」を想像しようとしても、うまくいかなかった。彼女はきっと、休みの日ですら、地域の防災訓練の資料を作っていそうな人だ。

 次に向かったのは、花屋だった。フラワーアレンジメントの見本を見ながら、僕は「これを渡した瞬間の彼女」を想像しようとした。

「お相手の方は、どんな雰囲気の方ですか?」

「その……いつも人形の胸を、迷いなく押してる人です」

 花屋の店員は、意味がわからないながらも、プロらしく愛想笑いを浮かべ、「でしたら、凛とした印象のこちらの花束はいかがでしょう」と、白い花を中心にしたアレンジメントを勧めてくれた。それはそれで、確かに素敵だった。店員が「誕生日でしたら、こちらの華やかなブーケが人気ですよ」と勧めてくれるバラの花束を前に、僕は必死に想像を巡らせた。

 でも、頭に浮かぶのは、花束を抱えて微笑む咲良さんではなく、いつも真剣な顔でダミー人形の胸を押す咲良さん、汗だくになりながら講習を続ける咲良さん、コンビニのアイスを食べながら子供みたいに笑う咲良さんの姿ばかりだった。

「……すみません、少し考えます」

 僕は、二度目の敗走を喫した。

 その夜、僕は帰りの電車で、ぼんやりと窓の外を眺めながら、これまでの講習で咲良さんが言ってきた言葉を、一つずつ思い返していた。ふと、二ヶ月ほど前の講習の最後に、彼女がこう言っていたのを思い出した。

「AEDって、実際に使う機会がなくても、そこにあるだけで、誰かの勇気になるんです。"何かあっても、ここにはこれがある"って思えるだけで、人は一歩踏み出せる。だから私は、講習以上に、AEDをちゃんと"そこに置いておくこと"にこだわりたいんです」

 あのとき、僕はただ「なるほど」と頷いて聞いていただけだった。だが今、その言葉が、急に違う意味を持って、僕の中に降りてきた。

 ——"そこにあるだけで、誰かの勇気になる"。

 もし僕が、咲良さんのそばに、いつでも彼女を守れる何かを置いておけたら。それは、彼女にとっての「勇気」になるんじゃないか。指輪でも花束でもなく、彼女自身の言葉を、そのまま形にすることこそが、僕の気持ちを一番まっすぐ伝える方法なんじゃないか——僕は、電車の揺れに任せながら、そんな考えに、次第に取り憑かれていった。

 ちょうどそのとき、たまたま流れてきたニュースが、スマホの画面に表示された。

「駅のホームで倒れた男性、居合わせた高校生がAEDを使い救命」

 その記事を読んだ瞬間、雷に打たれたような衝撃があった。咲良さんの言葉と、目の前のニュースが、一直線につながった気がした。

 咲良さんが、いつも講習の最後に言う、もう一つの言葉も、耳の奥でよみがえった。

「私たちがこうして講習を続けているのは、"その場に居合わせた誰か"を、一人でも多く増やすためなんです。特別な誰かじゃない。普通の人が、普通に助けられる社会を作りたい」

 そうか。

 僕は、電車の中で一人、こぶしを握った。今にして思えば、僕はこのとき、彼女の言葉を、都合のいいように、少しだけ捻じ曲げて受け取っていたのだと思う。彼女が語っていたのは、あくまで「社会に、誰かを助けられる備えを増やしたい」という、公共に向けた願いだった。それを、いつの間にか僕は、「彼女個人に、僕からの備えを贈りたい」という、極めて個人的な——そして、恋愛の贈り物としては、決定的にずれた——結論にすり替えてしまっていた。

 咲良さんが人生をかけているもの。彼女がずっと守ろうとしているもの。それを、僕も一緒に背負いたい。指輪でも、花束でもない。「僕はこれから、あなたの隣で、あなたが大切にしているものを、一緒に大切にしていきたい」——そのまっすぐな気持ちを、形にできるものが、一つだけある。

 AEDだ。

 僕はその場で、スマホの検索窓に「AED 購入」と打ち込んだ。それだけでは足りない気がして、翌週末には、市の消防署が開いている「上級救命講習」にも申し込んだ。咲良さんの講習だけでは物足りない、もっと本気で向き合いたいという、ほとんど衝動に近い気持ちだった。

 上級講習の会場で、僕は消防士の教官に何度も注意された。

「そこ、圧迫の深さが浅い。もっと体重かけて」

「はい!」

「顎、上げすぎ。気道確保、そんな乱暴にやったら首痛めるよ」

「すみません!」

 同じ講習を受けていた見知らぬ参加者たちの前で、僕は何度も名指しでダメ出しをされた。汗だくになりながら人形相手に奮闘する僕を見て、隣の主婦らしい女性が、気の毒そうな顔で「頑張って」と声をかけてくれたほどだった。それでも僕は、その日の講習を最後まで、一度も休まずやり遂げた。修了証を受け取ったとき、教官が最後にぽつりと言った。

「あんた、筋はよくないけど、根性だけはあるな。それが一番大事なんだよ、この手の技術は」

 その言葉を、僕は密かに、咲良さんの「諦めずに最後までやり切ろうとしてたの、あなただけでしたよ」という言葉と重ねて、大事に胸にしまった。

 亮太に電話で報告すると、電話の向こうで長い沈黙のあと、絞り出すような声が返ってきた。

「拓海……お前、それは、さすがに、その、なんというか」

「なんだよ」

「いや、もういい。お前が決めたなら、もう止めない。ただ、俺は一つだけ言っておく。今日この日のことを、一生忘れないだろうな、俺は」

 電話は切れた。あとになって、亮太が正しかったことを、僕は思い知ることになる。

 AEDは、想像していたよりずっと高価だった。医療機器を扱う専門店に足を運んだ僕は、価格表を見て、財布の中身と真剣ににらめっこすることになった。二十万円台からラインナップが並ぶ現実に、僕はその場で三十分立ち尽くした。

 初老の店員が、心配そうに声をかけてきた。

「お客様、どちらのモデルをお探しでしょうか」

「あの、誕生日プレゼント用に、一番いいものを探してます」

 店員は、僕が「これをプレゼント用に」と言った瞬間、一瞬、聞き間違いかという顔をした。

「あの、AEDを……プレゼント、ですか」

「はい。誕生日プレゼントです」

「……失礼ですが、お相手の方は、ご病気か何か、心臓に不安のある方でしょうか」

「いえ、めちゃくちゃ元気です。看護師で、救命講習の講師をしています」

 店員はますます不思議そうな顔をしたが、それでもプロらしく、丁寧に各モデルの違いを説明してくれた。音声ガイダンスの明瞭さ、電極パッドの耐久年数、小児用モードの有無、バッテリーの保証期間。僕は一つ一つの説明に、真剣に耳を傾けた。それはそうだろう。プロの看護師にAEDを贈るというのは、パティシエにホットケーキミックスを贈るようなものだ。それでも僕は、この人が一番真剣な顔で命と向き合っているのを見て、絶対にこれだと決めた。

「こちら、最新モデルになります。二十九万八千円です」

「それにします」

「お客様、本当によろしいですか。もう一度お伺いしますが、贈り物ですよ」

「はい。真剣です」

 店員は、しばらく僕の顔を見つめたあと、小さく頷いた。

「……わかりました。では、ラッピングコーナーへご案内します」

 ラッピングコーナーで、僕は一番大きなリボンを選んだ。担当の若い女性店員は「これ、本当に、贈り物用の包装で大丈夫ですか」と三回確認してきたが、僕は「大丈夫です」と言い張った。彼女は最終的に、諦めたような、それでいてどこか応援するような笑顔で、丁寧にリボンを結んでくれた。

「……頑張ってください」

「ありがとうございます」

 僕は何を頑張るのか、正直そのときはよくわかっていなかった。

 こうして僕は、二十九万八千円のAEDを、大きなリボンのついた箱に入れて、誕生日会の会場である居酒屋の座敷に持ち込むことになった。

 誕生日会当日、僕は仕事を定時で切り上げ、二十九万八千円の箱を大事に抱えて、居酒屋に向かった。電車の中で、何度もリボンの結び目を確認し、箱の角がぶつからないよう、膝の上に乗せたまま一時間、微動だにしなかった。

 居酒屋の座敷に一番乗りした僕を見て、店の女将さんが「今日はえらく大荷物ですね」と声をかけてきた。

「大事な人へのプレゼントなので」

「あら、素敵。何が入ってるの?」

「それは、当日のお楽しみで」

 女将さんは、嬉しそうに笑って、奥の座敷へ案内してくれた。あのとき僕は、まだ自分の選択が「斜め上」だとは、微塵も疑っていなかった。

 誕生日会は、公民館の講習ボランティア仲間、七人ほどが集まる、こぢんまりとしたものだった。ケーキが出て、みんなで歌って、咲良さんは照れくさそうに笑っていた。その笑顔を見た瞬間、僕は自分の決断に、揺るぎない自信を持った。

「咲良さん、誕生日おめでとう。これ、私から」

 まず、同じボランティア仲間の女性が、可愛らしい包装のハンドクリームを渡した。咲良さんは「わあ、ありがとう!」と嬉しそうに受け取る。

「咲良さん、これ、俺から」

 僕は、大きな箱を彼女の前に置いた。座敷にいた全員の視線が、その箱に集まる。

「わ、大きい……なにこれ」

「北条さん、なんかそれ、めちゃくちゃ重そうですね」と田村さんが横から茶々を入れる。

「開けてみないとわからないでしょ。ねえ咲良さん、早く開けてくださいよ」

 仲間の一人がはやし立て、座敷の空気は一気に誕生日会らしい盛り上がりを見せた。誰もが、その箱の中に、ロマンチックな何かが入っていると信じて疑わなかった。

 咲良さんは目を輝かせながら、リボンをほどいた。包装紙を開き、箱の蓋を開けた瞬間——彼女の表情が、凍りついた。

「……え」

 箱の中には、オレンジ色の、見慣れた機械。誰もが一度は駅や学校で目にしたことのある、あの形。

「これ、AED……ですよね?」

 同じ講習仲間の一人が、恐る恐る確認する。座敷は、一瞬にして水を打ったように静かになった。誰かがビールのグラスを止めたまま、固まっている。

 僕は、意気揚々と説明を始めた。

「咲良さんがずっと大事にしてるものを、俺も一緒に背負いたいと思って。指輪とか花束より、これの方が、俺の気持ちに合ってるって——」

「拓海くん」

 咲良さんが、僕の言葉を遮った。声のトーンが、いつもの講習中の彼女に戻っていた。

「これ、いくらしたの」

「え、あの……二十九万八千円、です」

 座敷にどよめきが走った。誰かが小さく「にじゅうきゅうまん……」と呟く声が聞こえた。

「……ちょっと、外、出よう」

 咲良さんは静かに立ち上がり、居酒屋の外に出ていった。座敷では、田村さんが気まずそうに「いや、でも北条くんなりの、何か理由があるんじゃないか」とフォローを入れてくれていたが、誰も上手く言葉を継げず、座敷はしんと静まり返っていた。残された僕は、蒼白な顔をした亮太に似た視線を全員から向けられながら、慌てて彼女を追いかけた。

 夜風の吹く路地裏で、咲良さんは僕に背を向けたまま、しばらく黙っていた。

「咲良さん、あの……変な意味で贈ったわけじゃなくて」

「わかってる。拓海くんが、変な下心とかで贈ったわけじゃないのは、わかってるよ」

 彼女は振り返らないまま、そう言った。

「でもね、拓海くん。私、正直に言うと、今、すごく複雑」

「……ごめん」

「謝らないで。謝られたいわけじゃないの」

 咲良さんは、ようやくこちらを振り返った。その目には、僕が初めて見る色の感情が浮かんでいた。怒りでも呆れでもない。もっと、深いところにある何かだった。

「私がなんで、看護師になって、休みの日までAEDの講習をボランティアでやってるか、拓海くん、知らないよね」

「……講習のときは、いつも"使命感"って言ってたから、そうなのかなって」

「使命感、間違ってはいないけど、本当の理由は違う」

 咲良さんは、路地裏の自動販売機の灯りに照らされながら、ぽつりぽつりと語り始めた。

「私が高校二年生のとき、リビングで父が倒れたの。目の前で。夕飯の支度をしてる私のすぐ後ろで、どすんって音がして」

「……」

「振り返ったら、父が床に倒れてた。呼びかけても返事がなくて、顔色がどんどん白くなっていって。私、何もできなかった。救急車を呼ぶことしか、思いつかなかった。父の胸を押すことも、AEDを探しに走ることも、何一つできなかった。ただ、震えながら電話をかけて、救急隊員が来るまでの八分間、父の横で泣いてるだけだった」

 彼女は、遠くを見るような目をしていた。

「八分間って、短いようで、途方もなく長いんだよ。父の唇の色がどんどん変わっていくのを見ながら、私はただ、"お願い、お願い"って繰り返すことしかできなかった。何か知識があれば、動き方を知っていれば、あの八分間は違ったかもしれないって、今でも思う」

「咲良さん……」

「父は、一命は取り留めたけど、後遺症が残った。今も、右手が思うように動かない。箸も上手く持てないし、字を書くのも一苦労してる。私はその日からずっと、"あのとき、私が何かできていれば"って、ずっと考え続けてる。だから看護師になった。だから講習をやってる。誰かが、あの日の私みたいに、目の前で立ち尽くすだけの人間にならないように」

 彼女は、少し笑った。泣きそうな笑い方だった。

「だからね、拓海くん。AEDって、私にとって、プレゼントみたいなロマンチックな箱に入れて渡されるものじゃなくて……ずっと、"あの日、そこになかったもの"なの。誕生日会の座敷で、リボン付きの箱から出てきたとき、正直、ちょっと、苦しくなっちゃった。まるで、あの日の記憶を、そのまま目の前に突きつけられたみたいで」

「咲良さん、俺、そんなつもりじゃ——」

「わかってる。わかってるの。拓海くんの気持ちは、本当に、嬉しいよ。私が大事にしてるものを一緒に背負いたいって言ってくれたこと、それ自体は、すごく嬉しい。でも」

 咲良さんが言葉を切ったそのとき。

 路地の向こうから、悲鳴に近い声が響いた。

「誰か……! 誰か来てください、人が倒れてます……!」

 僕らは反射的に、声のした方へ駆け出していた。

 居酒屋のすぐ裏手、細い路地の先に小さな公園があり、そこのベンチの前に、初老の男性が倒れていた。周りには、通りすがりらしい若いカップルが二人、パニック状態で立ち尽くしている。

「意識……意識確認して! 呼吸見て!」

 咲良さんが叫びながら駆け寄る。だが彼女の足が、途中で止まった。ヒールが石畳の隙間に挟まり、彼女はその場に転倒しかけていた。

「咲良さん!」

「私はいい、先に……! 呼吸確認、あなたやって!」

 咲良さんの声が飛んできた瞬間、僕の中で、何かのスイッチが切り替わった。

 この半年間、公民館で咲良さんの隣に立ち続けてきた時間が、頭の中を駆け抜けた。ダミー人形相手に何十回、何百回と練習した動き。咲良さんに何度も「力加減が違う」と怒られた、あの練習。台風の日、参加者が僕一人だけになっても、手を抜かずに教えてくれたあの時間。

 僕は男性の傍らに膝をつき、肩を叩きながら大声で呼びかけた。

「大丈夫ですか! 聞こえますか!」

 反応がない。呼吸も見られない。胸が動いていないのが、はっきりとわかった。

「咲良さん、反応なし、呼吸なしです!」

「よし、胸骨圧迫、始めて! 私も今行く!」

 僕は、両手を組んで、男性の胸の真ん中に置いた。

 ——強すぎず、弱すぎず。まっすぐ、垂直に。

 あの日、咲良さんに何度も直された感覚を、体が覚えていた。頭で考えるより先に、手が動いていた。祖父の前で立ち尽くすことしかできなかった、あの小学五年生の自分とは、もう違う。

「1、2、3、4……」

 声を出しながら、頭の片隅で、僕は場違いなほど冷静にこう考えていた。もし今、この人を助けられなかったら、咲良さんは、あの高校二年生の日の自分を、また一つ、思い出してしまうんじゃないか。彼女があの日感じた無力感を、今度こそ、繰り返させたくない。

 だが、圧迫を続けるうちに、その思いは、少しずつ形を変えていった。この人には、僕たちの事情なんて関係ない。ただ、今日を終えて、誰かのところへ帰るはずだった。その一心で、僕は腕の痛みも忘れて、圧迫を続けた。

 声に出しながら圧迫を続ける僕の隣に、ヒールを脱ぎ捨てた咲良さんが滑り込んできた。彼女はスマホで救急に連絡を入れながら、通行人の若い男性に「そこの公園の入口にAEDがあります、走って取ってきてください!」と叫んだ。

 だが、若い男性は青ざめた顔で戻ってきて、震える声で言った。

「あの、公園のAED、点検中で使えないみたいです……! 貼り紙がしてあって……!」

 その瞬間、咲良さんと僕の目が合った。

 同時に、二人の頭に、同じものが浮かんだ。

「拓海くん、居酒屋の座敷!」

「持ってくる!」

 僕は走った。人生で一番速く走った。座敷に飛び込み、まだ呆然としていた仲間たちに「AED貸してください!」とだけ叫んで、リボンのついたままの箱を抱えて、また全力で走った。息が切れて、心臓が破裂しそうだったが、止まるわけにはいかなかった。

 公園に戻ると、咲良さんが休みなく胸骨圧迫を続けていた。彼女の額から、汗が滴り落ちていた。三十回押しては二回の人工呼吸、その繰り返しを、彼女は一度も乱すことなく続けていた。

「持ってきました!」

「開けて、電源入れて!」

 僕は震える手で箱を開け、パッドを取り出した。咲良さんの指示通りに、男性の胸にパッドを貼る。機械が解析を始め、無機質な音声が公園に響いた。

「心電図を解析しています。体から離れてください」

 周りの人たちが一斉に手を離す。数秒の沈黙が、永遠のように長く感じられた。

「ショックが必要です。充電中です」

 僕はボタンに手をかけた。指先が震えていた。咲良さんが、隣で静かに、でも力強くうなずいた。

「大丈夫、押して」

 僕はボタンを押した。男性の体が、ぴくりと跳ねた。

 ショックの直後、咲良さんの声が飛んだ。

「すぐ圧迫再開して! ショック一回で戻るとは限らないから!」

 僕はまた両手を組んで、圧迫を再開した。二分ほど経った頃、機械が再び解析を始めた。

「心電図を解析しています。体から離れてください」

 僕らは、また手を離した。

「ショックが必要です。充電中です」

 二度目のショックの後、男性の喉から、小さく「うっ」という声が漏れた。同時に、遠くから救急車のサイレンが近づいてくるのが聞こえた。

「呼吸、戻ってきてます!」

 僕の声は、半分泣き声のようになっていた。

 周りで見ていた若いカップルの女性の方が、その場にへたり込んで泣き出した。連れの男性が「良かった、良かった……」と何度も繰り返しながら、彼女の肩を支えていた。通りすがりのはずの見知らぬ人たちが、いつの間にか、ひとつの輪になって、男性の無事を祈っていた。

 救急車が公園の入口に到着し、隊員が二人、担架を抱えて駆け寄ってきた。

「代わります! 状況教えてください!」

「反応なし、呼吸なしから、圧迫継続、AEDで二回除細動、その後、自発呼吸が戻りました! 発見からここまで、約七分です!」

 咲良さんが、看護師の顔になって、てきぱきと状況を報告する。隊員たちは頷きながら、手際よく男性をストレッチャーに移していく。

「奥さん、旦那さん、ご家族の方は?」

「私たち、通りすがりです。倒れてるところに、たまたま居合わせただけで」

 隊員の一人が、僕らの顔を見て、深く頭を下げた。

「よく、ここまで対応してくださいました。この後の予後、全然違ってきますから」

 男性を乗せた救急車が走り去っていくのを、僕と咲良さんは、並んで見送った。

 救急隊員に男性を引き渡したあと、僕と咲良さんは、公園のベンチに並んで座り込んでいた。二人とも、汗だくで、声を出す気力もなかった。隊員の一人が去り際に「意識、戻りそうです。処置、間に合いましたね」と声をかけてくれた。

「……助かる、って、隊員さん言ってましたね」

「うん」

「咲良さんの指示がなかったら、俺、絶対途中で固まってました」

 咲良さんは、僕の方を見て、首を振った。

「今日、動いたのは、拓海くんだよ。二回目のショックの後も、腕が震えてるのに、圧迫の手を止めなかった。あれは、付け焼き刃じゃできない」

 彼女は、隣に置かれたままの、あの空箱を見た。リボンはもう、ぐしゃぐしゃになっていた。

「地域貢献とか言ってたけど、あれ絶対嘘でしょ」

「……はい、嘘です」

「知ってる」

 咲良さんは、悪戯っぽく笑った。

 僕らは、しばらく黙って、遠ざかっていく救急車の赤いランプを見つめていた。

 どちらからともなく手が触れて、咲良さんは、そのまま僕の手をそっと握った。まだ、圧迫を続けた手の震えが、少しだけ残っていた。

 言葉は、それ以上なかった。ただ、その手の温かさだけで、今日という一日を、二人で乗り越えたのだということが、静かに伝わってきた。恋人になったわけでも、何かを約束したわけでもない。それでも、あの箱がここに転がっていることの意味を、僕らはもう、どちらも間違えずに理解していた。

 それから二週間ほど経った頃、居酒屋の店主経由で、一通の手紙が僕らのもとに届いた。差出人は、あの夜、公園で倒れていた男性だった。

「先日は、命を助けていただき、本当にありがとうございました。意識が戻ってから、あの夜のことを何度も家族に話しています。実は私も、若い頃に消防団で救命講習を受けたことがあるのですが、まさか自分が助けられる側になるとは思ってもみませんでした」

 便箋の最後には、少し震えたような字で、こう書かれていた。

「来月、孫の運動会があります。去年は仕事で、最初の五十メートル走しか見られませんでした。今年は、最後まで見られそうです」

 それだけだった。それ以上の言葉は、何もなかった。

 咲良さんは、その一文を何度も指でなぞりながら、静かに涙をこぼしていた。

「こういう手紙、看護師をやってても、なかなかもらえるものじゃないんだよ」

「良かったですね」

「うん。……本当に、良かった」

 僕らはその手紙を、居酒屋の「命の恩人プレート」の隣に、小さく額装して飾ってもらうことにした。

 後日談を一つ。

 あの誕生日会の帰り際、居酒屋の店主が、恐る恐る僕らのところにやってきて言った。

「あの、お代のことなんですけど……AEDの箱、うちの座敷、そのままにしてもらっていいですか。備品として。今日みたいなこと、正直、いつうちの店で起きてもおかしくないと思ってて」

 こうして、僕が二十九万八千円で購入したAEDは、紆余曲折の末、行きつけの居酒屋の座敷に常設されることになった。壁には「北条様ご寄贈」という小さなプレートまで貼られ、常連客の間では、いつの間にか「命の恩人プレート」と呼ばれているらしい。

 翌週、月曜日の出社と同時に、僕は同僚たちから質問攻めにあった。誕生日会に参加していた同僚が、週明けまでに一部始終を社内に広めていたのだ。

「北条、聞いたぞ。合コンで女性にAEDプレゼントしたって」

「合コンじゃないし、公園で本当に人が倒れて、そのAEDのおかげで命が助かったんだよ」

「いや、その説明だと余計意味わかんないから」

 僕は結局、給湯室で三回、休憩室で二回、同じ説明を繰り返す羽目になった。ある同僚などは、「北条、お前、実は運命に愛されてるタイプだろ」と、妙な感心の仕方をしていた。

 その後、あの居酒屋には「あそこで倒れたら、絶対助かる店」という、なんとも物騒だが心強い評判が定着したらしい。女将さんいわく、「北条さんのおかげで、うちの店の安心感、業界一かもしれないわね」とのことだ。僕は、その話を聞くたびに、少しだけ誇らしい気持ちになる。

 亮太は、その話を聞いて、しみじみとこう言った。

「拓海、お前、プレゼントのセンスは相変わらず壊滅的だけど……今回だけは、人類史に残る大金星だったよ。俺、お前のこと、ちょっとだけ見直した」

「ちょっとだけかよ」

「ちょっとだけだよ。次にお前が"ちゃんと考えた"とか言い出したら、俺は全力で止める」

 それから一年。僕と咲良さんは、正式に付き合うことになった。

 告白らしい告白は、実はあの夜からしばらく経った、秋の終わりの花火大会の夜だった。僕と咲良さんは、講習仲間たちと少し離れた土手に座って、夜空に上がる花火を見ていた。

「拓海くん、ずっと聞きたかったんだけどさ」

「なんですか」

「なんで、あの日、そんなに一生懸命、こっそりCPRの練習してたの。地域貢献のため、じゃないよね」

 僕は少し迷ってから、正直に答えることにした。

「咲良さんが、一番大切にしてるものの隣に、ちゃんと立っていられる人間になりたかったんです。咲良さんの人生ごと、好きになったから」

 花火の音にかき消されそうな声だったが、咲良さんにはちゃんと届いたようだった。彼女はしばらく黙って夜空を見上げたあと、隣に座る僕の肩に、そっと頭を預けてきた。

「私も、そういう、不器用だけどまっすぐなところが好きだよ。……これから先も、講習のボランティア仲間じゃなくて、隣にいてほしい」

 夜空に、一際大きな花火が上がった。その明かりに照らされた咲良さんの横顔を見ながら、僕は、これまでのどんなプレゼント選びよりも迷わずに、はっきりと答えることができた。

「はい」

 それが、僕らの始まりだった。

 僕は今でも、公民館のボランティア講習に毎月参加している。咲良さんに教わりながら、去年よりは少しだけ、圧迫の力加減が上手くなったと思う。最近では、新しく参加してくれた高校生ペアの指導係を任されるまでになった。田村さんとも、今ではすっかり気の置けない飲み仲間だ。

 咲良さんのお父さんとも、去年の暮れに初めて挨拶をした。

 実家に招かれた日、僕は緊張のあまり、手土産の紙袋を電車の網棚に置き忘れるという、いつもの調子を発揮してしまった。慌てて次の駅で降りて逆方向の電車に飛び乗り、なんとか回収して咲良さんの実家に着いた頃には、約束の時間を三十分も過ぎていた。

「すみません、僕、電車で忘れ物をしてしまって……」

 開口一番、情けない詫びから入った僕を、咲良さんのお父さんは、じっと見ていた。右手が思うように動かないせいで、お茶を淹れるのも一苦労している様子だったが、それでも自分でやると言って譲らなかった。

「咲良から、聞いています。あなたが、その、AEDを贈った人ですね」

「はい……大変申し訳ないことをしたと、反省しています」

「いや」

 お父さんは、湯呑みを僕の前に置きながら、静かに首を振った。

「咲良の母さんが亡くなったとき——ああ、これは咲良からまだ聞いていないかもしれませんが、私が倒れる何年も前、咲良の母は、外で急に倒れて、そのまま逝ってしまいましてね。その場に、AEDどころか、誰も居合わせなかった」

「……」

「だから私は、あなたが持ってきたというその機械の話を聞いたとき、正直、胸が詰まりました。誰かがそれを"当たり前に持っている"世の中に、少しでも近づけようとしてくれる人が、娘の隣にいてくれるんだなと」

 お父さんは、湯呑みをそっと置いて、改めて僕の顔を見た。

「咲良は、母さんが逝ってから、ずっと一人で、誰かを助けられる自分になろうとしてきました。その重荷を、これからは二人で分け合っていけそうだ。娘の人生の続きに、あなたがいてくれるなら、私は安心して、これから先のことを任せられます」

 お父さんは、右手をゆっくりと動かしながら、僕の手を握った。力は弱かったが、確かな重みがあった。

「これから、末永く、娘をよろしく頼みます」

 僕は、人生で初めて、贈り物ではなく、言葉だけで誰かに気持ちが伝わる瞬間を経験した気がした。それは同時に、僕と咲良さんの関係が、二人だけのものではなく、これから先の暮らしや家族という、もっと大きな時間の中で認められた瞬間でもあった。

 そして今も、月に一度の講習の日々は続いている。

 先月、公民館に新しく顔を出したのは、大学生の男の子だった。実技練習でダミー人形の胸を押す力加減がわからず、最初は弱すぎて周りに笑われ、顔を真っ赤にして立ち尽くしていた。

「笑わないでください」

 気づけば、僕はそう言っていた。かつて、咲良さんが僕のために言ってくれた、あの言葉だった。

「最初にできなくて、当たり前です。今、この人は、下手なりに、最後まで手を止めずにやり切ろうとしてました。それだけで、十分立派なことです」

 会議室ならぬ公民館の一室が、しんと静まり返った。大学生の男の子は、驚いたように僕を見て、それから、少しほっとしたような顔をした。

「北条さん、でしたっけ。力の入りどころ、右に左にぶれすぎです。もっと、自分の体重を素直に乗せる感覚で」

 僕は、彼の隣にしゃがみこみ、彼の手の上に自分の手を重ねて、圧迫のリズムを実演してみせた。あの日、咲良さんが僕にしてくれたのと、同じように。

 部屋の隅で、咲良さんが、その様子をじっと見ていた。目が合うと、彼女は、いつかのように少しだけ照れた顔で笑って、小さく頷いた。

 僕はもう、誰かに手を取って教えてもらう側だけの人間じゃない。今度は、僕の隣で誰かが、迷わず一歩を踏み出せるように、手を差し伸べられる人間になっている。

 小学五年生のあの日、電話機の前で立ち尽くすことしかできなかった僕は、もういない。肝心なときに何もできない人間だという、あの拭えなかった思い込みに、僕はようやく、自分の手で決着をつけられた気がした。

 それに気づいた瞬間、僕は、これまでのどんな贈り物よりも確かな何かを、ようやく自分の中に見つけた気がした。

(了)


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