#6【ネタバレ有】映画「名無し」感想文
注意
まずこの記事には映画「名無し」のネタバレを多分に含みます。クリティカルなシーンを含めてラストシーンまで触れます。未視聴の方はご注意ください。
とはいえ、ナラバも映画を一回見ただけです。原作も読んでいませんし、映画で描かれた部分でも見逃したところや覚えていないところはあるでしょう。この記事は、質の高い考察や批評ではなく、あくまで簡単な感想文として読んでいただければと思います。
また、この記事内には、生命と死に関することなど、すこし刺激の強い内容が含まれている可能性があります。ご留意ください。
テーゼ
この記事では、映画「名無し」を次のように読み解きます。
「名無し」は、名無しが名無しでなくなる物語である。
どういうことでしょうか。いや、そこまで複雑な文でもないですね。とりあえずゴールを示しておくことによって、全体を読みやすくしておきたいだけのテーゼです。
作品基本情報
映画「名無し」の基本情報は以下のようになっています。
原作:佐藤二朗「名無し」(コミプレ-Comiplex-)
監督・共同脚本:城定秀夫
脚本:佐藤二朗
配給:キノフィルムズ
主題歌:「名前」Novel Core
俳優の佐藤二朗さんが原作・脚本・主演を務められています。
実はナラバは最近、呉勝浩さんの「爆弾」という小説を読みました。それが面白かったので映画も見に行きたいと思ったのですが、実はもうほぼ放映が終了してしまっているのですね。もっと早く出会っていれば…というところですが、残念ながら時は戻らない。
「爆弾」の映画では佐藤二朗さんの演技が話題になっていましたね。だから、爆弾を見られなかったかわりに(?)、同じく佐藤さんの出演されている「名無し」を観ることにしました。
以下の記事内では、キャラクター名には触れますが、それを演じている俳優さんには触れません。ご了承ください。
簡単なあらすじ
ある日、警察官の照夫が、道端で遺棄児を保護します。交番で名前などを尋ねても、一言も答えません。右手に巻かれたコードに触ろうとすると、執拗に拒みます。会話もできず、行方不明届も出ていないことから、先輩警察官は照夫に、少年を元居た場所に返してくるように命じます。
照夫が彼についていくと、彼が別の少女と一緒に暮らしているのを発見します。この少女もまた遺棄児のようです。照夫は彼らを保護し、こども園に入園させます。このあたりはナラバの無知ゆえ詳しい手順はよく分からないのですが、その後照夫は二人に、山田太郎、そして山田花子という名前をつけます。
そこから太郎について少しずつ明かされています。太郎には、ある能力があるようです。それは、名前を知っているものに右手で触れると、触れている間それを消す能力。ここでの「消す」は「目に見えなくする」という意味で、実体をなくすわけではありません。だから、太郎が右手で包丁を持って誰かを刺せば、その相手は見えない包丁によって確実に傷を負うわけです。さらに、その触れた対象が生物だった場合、手を離した後に対象が死ぬというおまけもついています。名前さえ知らなければ、触れたものは消えないし、生物であっても死ぬことはありません。
実はここまでは過去の話で、映画では現在の様子と並行して描かれています。太郎は現在において、大量無差別殺傷を決行しています。現在におけるその事件とそれを追う警察の様子が描かれながら、並行して過去の、太郎がその事件を起こすに至るまでの経緯が描かれていきます。
太郎は自分の胸に触れた時、なぜ死ななかったか
こども園のシーンで、太郎が自分の胸に右手で触れる箇所があります。これはおそらく、自死を意図してのことでしょう。しかし太郎は死にません。
自分の右手で、「山田太郎」という名前を知っている自分自身に触れたのに、彼は死ななかった。それはなぜでしょうか。
一つの可能性として、山田太郎が本名でないから、というのが考えられます。彼は自分の本名はおそらく知らず、そして右手の能力の発動条件は「本名を知っていること」である。そんな仮定をおけば納得できそうです。しかし、この過程をおくとその後のシーンで説明できない部分があります。これはおそらく正しくないでしょう。
であるならば、もう一つの可能性は、単純に「自分では死なない」。当たり前と言えば当たり前の話ですが、太郎の右手は太郎から切り離すことはできません。山田太郎という一人の人間です。それは「山田太郎」という名前によって、それ以外から隔絶された存在です。
人は自分では死ぬことはできない。これは物理的な意味です。たとえば首を吊って自死することを試みる。このとき、その人を直接的に殺すのはその人自身ではなく、その人の首に巻かれた縄です。あるいは縄と重力の合わせ技。自分を殺害したことの、その凶器は縄です。そして被害者である人は、同時に加害者ではあるのかもしれないが、凶器ではない。そして凶器である縄は、それ自身でひとりでに崩壊することはないでしょう(経年劣化は人間でいえば寿命であって、自死とは異なるものと考えられます)。
太郎の右手に宿った、触れたものの命を奪うという能力は、彼自身を凶器とする能力です。太郎自身とその右手が切り離せないものである以上、彼が自分に触れても死なないことにはこのような理由が与えられるのではないかと思います。
ちなみに、ひとつめの仮説を否定する根拠となるシーンの一つとして、次のようなものがあります。太郎と花子が大人になり、二人が一緒に暮らしていると思われるある寂れた家の中。ある時、花子が太郎に、右手で触れることを執拗に迫ります。その姿は狂気的ですらあります。花子は太郎に触れてもらうことで、自分を殺してもらおうとしているのです。しかし太郎はそれを必死に拒みます。右手が花子に触れないように、必死に抵抗しています。
もちろん、太郎がそれまでに本名でない名前を持った誰かに触れた経験があったかは分かりませんし、花子に触れたら花子が死ぬということを確信していたかどうかは分かりません。ただ、この鬼気迫るシーンを見るに、おそらく「山田花子」という名前は、太郎の能力が発動される条件として十分だったものと思われます。「山田花子」がそうであるなら当然「山田太郎」もそうであるはずで、だからこのシーンはひとつめの仮説を否定することの根拠になるように思います。
太郎にとって、子どもはなぜそれほど重要だったか
太郎と花子は大人になります。そして、花子は子供を身籠ります。
それは、太郎と花子の間の子で間違いないでしょう。太郎は我が子の誕生をとても楽しみにしているように見えます。カレンダーの出産予定日に花丸をつけ、色々考えた我が子の名前を慣れない左手で書いていきます。(ここで、右手が使えないために長年左手を用いてきたはずの太郎が左手で文字を書くのに苦労している様子は、彼が十分な教育を受けられる環境に無かったことの表現と言えるかもしれません。)
太郎はおもちゃ屋で、生まれる予定の我が子のためにメリーゴーラウンド状のおもちゃ(名前が分からない…)を購入します。それを持って家へと帰ろうとするのですが、帰り道、何か悪い予感がしたのか、太郎は走り始めます。
家に着くと、花子はいませんでした。いや、いないはずはない。太郎は小さい家中を探します。そんなとき、カレンダーに書かれた文字が目に留まる。
「限界 バイバイ」
太郎は絶望します。
ここまで、太郎が自分の子どもの誕生を待ち望んでいたことを見てきました。そしてこのことは次の節で見ていく内容ともつながっていきます。
なぜ、太郎はここまで、子どもという存在を待ち望んでいたのか。なぜそれほど、子どもは太郎にとって重要だったのでしょうか。
太郎が紙に子供の名前候補をたくさん書いているシーンは、太郎の心境を考えるうえで重要です。そう、名前。太郎の人生において、名前というものは非常に重要な地位を占めてきました。
自らは名前を持たなかった。あとで詳しく見ますが、名前というのはその人を規定する最も根源的なものです。名前を与えることによって、存在を与える。そして存在を与える主体として、自分の存在を確かめる。
我が子は、名無しであった太郎に確たる存在を与えてくれるものだったのではないでしょうか。
なぜ太郎は花子を刺し殺したのか
花子が家を出て行ってから10年後、太郎が道を歩いていると偶然、花子と再会します。
太郎と花子は、かつてともに過ごした家で向き合います。実は太郎は、我が子の10歳の誕生日に合わせてケーキを用意していました。おそらく毎年そうしていたのでしょう。会えなくても、どこかで生きているはずの我が子を想い、その誕生日を祝う。そういうことを、ずっとやってきたのだと思います。我が子は、太郎にとって生きる理由だったから。
しかし太郎は、花子からある事実を伝えられます。
「子供は堕ろした」
太郎がどこかで生きていると信じ、自身の生きるよすがとしていた我が子は、そもそも存在していなかった。
太郎は花子に触れようとする。右手で。つまり、花子を殺そうとした。
しかし右手で触れる直前、太郎は何を思い直したのか、台所へ向かい、包丁を手にし、結局見えない包丁で花子を刺し殺します。
なぜ太郎は、花子に右手で触れることをやめ、包丁で刺し殺したのでしょうか。ここまで、「太郎が花子に右手で触れれば、花子は死ぬ」ということを前提にしてきました。そしてきっと、それは間違いない。
ではなぜ、太郎は花子に触れる直前で、それをやめたのか。
思うに、太郎の中で花子が、「他人」に落ちてしまったからではないでしょうか。包丁で刺し殺す、それはちょうど、太郎が現在において「見知らぬ他人」を無差別に殺していくときの方法と同じです。実際には太郎は、包丁で刺し殺したり、バットで殴り殺したり、警察官から奪った拳銃で撃ち殺したりしています。とにかく、太郎が見知らぬ他人を右手で触れることによって殺すことはありません。なぜなら彼らの名前を知らないからです。
長年一緒に生きてきたはずの花子は、「子供を堕ろした」と聴かされた瞬間、太郎の中で他人同然になってしまったのではないでしょうか。だから、右手で触れるのではなく、他の他人と同じように包丁で刺し殺した。なぜなら、名前も知らないような他人は、右手で触れたところで死なないからです。
ラストシーン -こども園で
クライマックス。太郎はかつて自分を育てたこども園へ向かいます。ちょうどその日はバザーのようなイベントをやっていて、子どもだけでなく様々な人が来園していました。
そこで、太郎は無差別殺戮を開始します。警察官から奪った拳銃を発砲。弾が無くなったら近くにあった金槌に持ち替えて殴殺。もちろんいずれも右手で持っているので、周囲の人からは見えません。
見えない凶器に襲われる人々。園内はパニックに包まれます。警察が到着し、太郎の確保を試みる。太郎と警察官は揉みあいになり、太郎は一人の警官の上に馬乗りの状態になります。その様子を見て別の警察官が叫ぶ。
「国枝さん!」
太郎が名前を知りました。条件は満たされた。右手で触れれば、殺すことができる。太郎は、今まさに自分の下敷きとなっている国枝という警察官に触れようとします。
間一髪、国枝は自身の拳銃を用いて太郎の右手を撃ち抜きます。そのまま形成を逆転し、山田太郎、確保。
太郎は担架に乗せられ、縛り付けられます。
国枝は太郎に語り掛けます。「お前はクソだ。」
その言葉を聞いて、笑う太郎。
実は、これ以前のある場面で、捜査中の国枝は太郎のことを、「幽霊でも妖怪でもない。ただのクソだ。」と評していました。もちろん太郎はそんな文脈は知らないでしょうが、ここで太郎が笑ったことには、自分に名前を、そして存在を与えてもらえたことを喜んだのかもしれませんね。
国枝が離れてから、太郎はすぐそばにある少年を見つけます。その少年は、幼い頃の太郎にそっくりでした。思い至ったのは、彼こそは、太郎と花子の子どもだった。10歳の彼は、存在していた。花子は堕ろしていなかった。
太郎は彼に向かって、包帯の巻かれた右手を差し出します。少年と、握手をします。右手と、右手で。
手を離したとき、死んだのは太郎のほうでした。少年はそのまま、その場を立ち去っていきます。これにて「名無し」閉幕。
なぜ少年は死ななかったのか。一つの可能性としては、太郎が彼の名前を知らなかったから。太郎は我が子の名前をいろいろ考えていましたが、生まれる直前に花子が家を出て行ってしまっていたから、結局名前をつけられなかった。だから、太郎は我が子の名前を知らなかった。
もう一つの可能性は、太郎の右手が拳銃で撃ち抜かれたことによって、太郎は右手の能力を失っていたから。考えてみれば、太郎が「包帯」という名前を知らないことはないでしょう。それでも太郎の右手にはしっかりと包帯が巻かれ、治療の跡がありました。拳銃で撃ち抜かれた右手は、もしかしたらもう、触れたものを消す能力を失っていたのかもしれません。
疑問はもう一つ残っています。なぜ、太郎は死んだのか。単純な推測によって、少年の能力は太郎と同じものとみて間違いないでしょう。つまり、少年は太郎の名前を知っていた。だから、少年の右手に触れた後、太郎は死んだ。
なぜ、少年は太郎の名前を知っていたのでしょうか。おそらく、花子から聞かされていたのでしょう。「山田太郎」という名前。それはきっと、本名ではない名前。しかし花子が太郎の本名を知っていたとは思えません。(そもそも描かれていないので、太郎に本名があったかどうかもわかりません。)
太郎は、すでに太郎であった。まぎれもなく、山田太郎は山田太郎であった。そして、少年はその名前を知っていた。
これをもって、この物語は終わりです。テーゼを繰り返します。
「名無し」は、名無しが名無しでなくなる物語である。
これを少し書き換えると、次のようになります。
「名無し」は、名無しが「山田太郎」になる物語である。
この世界との繋がりとしての名前
個別性を与える名前
映画「名無し」は、全体を通して「名前」を主題として扱ってきました。ここからもう少し、名前について考えてみたいと思います。ナラバの現時点での考えを書いておきます。
名前とは、アイデンティティの中心にあるものである。そしてそれは自己を絶対化するものである。
どういうことか。例として、「田中実」さんに登場してもらいます。この映画とは全く関係ありませんが、日本国内の男性で最も同姓同名が多い名前だそうです。ここで登場する田中実さんは完全にフィクションの人物です。
さて、田中実さんについて述べてみます。
「田中実さんは男性である。」
「田中実さんは日本人だ。」
「田中実さんは大学生だ。」
エトセトラ、エトセトラ。
上のように、田中実さんに関して、さまざまな記述を行うことができます。これらの記述はアイデンティティやパーソナリティと呼ばれるものかもしれません。
さて、現代においては、性を自分で選択できることが要請されます。ここではジェンダー論には深く言及しませんが、田中さんの性を、その意志によって女性に変更します。
「田中実さんは女性である。」
「田中実さんは日本人だ。」
「田中実さんは大学生だ。」
エトセトラ、エトセトラ。
さて、田中さんについて何が変わったでしょうか。性が変わった。しかし、田中実さんは田中実さんです。別の人に変わったわけではありあません。
ではここで、考えてみたいことがあります。もし、田中さんが「田中実」という名前を持たなかったらどうでしょうか。
「男性であり、日本人であり、大学生であり、エトセトラエトセトラという特徴を持つ人」
エトセトラの部分に情報を詰め込むことによって、なんとか相対的にその個人を指すことができるでしょうか。
そしてその人は、当人の意志により別のアイデンティティを手に入れます。
「女性であり、日本人であり、大学生であり、エトセトラエトセトラという特徴を持つ人」
さて、一人目と二人目は同一人物でしょうか。
なんだかテセウスの船みたいな問題ですね。ある船のパーツが全部新しいものに変わったら、それは元と同じ船と言えるだろうか。ここでは全部ではありませんが。
もしすべての人を相対的にしか考えられないのであれば、一人目と二人目がどうして同一人物と言えるでしょうか。だって、「自己同一性=アイデンティティ」が違うのだから、それは別人じゃないか!
別に変わるのは性でなくても構いません。実質的には、その人を構成する要素が何か一つ変われば、もう別の人になってしまいます。
名前があれば同一人物だった人が、名前が無くなっただけで別人になってしまう。なぜなら名前のない要素の集合体としての人間は、極度に相対的になるからです。
このような意味で、本節冒頭に「名前とはアイデンティティの中心にあるものである。そしてそれは自己を絶対化するものである。」と述べました。
しかし、この考え方には反論もしうるかもしれません。たとえば、個人を特定するのは名前ではなく肉体ではないか。確かに私たちが普段人と接するとき、名前はあまり気にしないかもしれません。それよりも顔とか、そういったものを頼りに個人を特定してコミュニケーションをとっているかもしれない。
しかし肉体を区別するのもまた名前です。本稿途中で、「太郎の右手は太郎と切り離せない」ことを述べました。自分は自分で殺すことができない。もしこの世界で、右手を個人と切り離して考えることが一般的だったら、右手で触れた自分を殺すことができたかもしれません。でもそうではない。太郎は、その肉体の連続する全部において、頭のてっぺんからつま先まで、「山田太郎」という名前によって一つのものとなっていました。
もう少し、名前について考えてみます。簡単な数学の問題です。
5人の人を一列に並べる方法は何通りあるでしょうか。
簡単な問いですね。5!=120通りです。え、本当でしょうか。
もしかしたら1通りかもしれません。だって、並ぶのはみんな同じ人間なのだから。おはじきの並べ方や、ボールの並べ方を問う時は、それらが区別できるものかどうか問いに明記されます。しかし人間の並べ方を問う時はそうではありません。人間は互いに区別できるものであることが自明視されています。
この区別を可能にしているものが名前です。名前は自己を絶対化するとともに、他者と区別している。逆に同じ名前の範疇にあるものは、より小さな範囲を示す名前を持たない限り、その内部で同質化される。
自由に捕らわれる。
名前は自分のアイデンティティの中核をなし、自己を絶対化するものです。しかし、名前のもとをたどると、それは親や親類につけられたもの。つまり他者に与えられたものです。アイデンティティを自分で選択できることが要請される現代においても、その中心はどうしようもなく他者から与えられるものである。
ナラバの好きな曲の一つに、カンザキイオリさんの「自由に捕らわれる。」というものがあります。もちろんぜひ皆さんに聴いていただきたいのですが、今回はあえてこの「自由に捕らわれる。」という言葉のみを抽出して考えてみたいと思います。だからここで述べるのは、楽曲の意味することではなく、あくまで自由というものに対するナラバ自身の考えです。
「自由に捕らわれる。」
一見語義矛盾的でしょうか。しかしこの言葉はある種の真理をついていると思います。人は自由だと、身動きが取れなくなる。どういうことでしょうか。
自由について考えるとき、ナラバは小学4年生の時の道徳の授業を思い出します。その授業のテーマは「自由と責任」。自由には常に、責任が付きまとうということです。
責任とは何か。英語ではresponsibility。つまり「応答能力」です。能力ですから、他者が負わせるものではありません。自分自身で身に着けるものです。とはいえ、その能力の行く先は避けようもなく他者です。なぜなら「応答能力」は「他者からの問いかけに対して応答する能力」だからです。問いかけが無ければ、応答など必要ない。だから責任なんてなくてもいい。でも実際には、我々は他者との関係の中で生きている。だから、自由であるとはどうしようもなく、他者を意識することである。
自由でなければ楽です。やれといわれたことをやれば、他者は当然肯定してくれるはずだから。でも我々は、自由を手に入れてしまう。そして自由と同時に、避けがたく責任も手に入れてしまう。自分の選択には常に、他者の視線が刺さってくる。その選択は間違っていないか。自由であることは、これ以上なく他者を意識することを、我々に強制してきます。そして、自由に捕らわれていく。
ここまでは自由と責任について考えてきましたが、「自由に捕らわれる。」という言葉の解釈にはもう一つあると思います。仮に自分が、完全に他者の目を免れる権利を得たとしましょう。あなたは何をしてもいい。誰もあなたをとがめない。そんな環境が、もし生まれた時から与えられていたらどうでしょうか。
身動きが取れない。なぜなら正解が分からないから。我々は選択肢が与えられて初めて、選択することができます。しかし他者から完全に離れた環境の中には選択肢がありません。もし選択肢が与えられるなら、それは他者から離れた世界ではありません。
責任を伴わない自由においては、選択肢が分からないから身動きがとれない。少しでも選択肢を求めれば、そこにはたちどころに他者の視線が現れる。自由に捕らわれるとはそういうことではないでしょうか。
そういう意味で、我々をまず最初に自由から解き放つもの、それが名前ではないでしょうか。しかし名前は常に、他者から与えられるものです。現代においては与えられたものではない自分でつけた名前を用いる場面も多くなってきている(インターネット上での名前など。それこそナラバもそうです)とはいえ、やはりこの世界に存在する自分自身を最初に規定する名前は他者から与えられるものでしょう。
創造的な言語、その原初としての名前
名前の恣意性
映画「名無し」中で、太郎はさまざまなものの命を奪いました。それは、彼が名前を知っていたから。それは、ここまでの説明の通りです。
しかし、この「名前」という条件は、とても恣意的なものでした。
たとえば作中では、「パンジー」という花の名前を知ったために、その花の命を奪ってしまったシーンが描かれていました。パンジーの命を奪う条件としての名前は「パンジー」でした。
いっぽう、別のシーンでは、ある犬の命を奪っています。それはこども園で飼われていた犬です。その犬の名前を知らない状態で、触れてみる。するとその犬は、消えることもなく、死ぬこともありません。しかしそこに運悪くこども園の先生が通りかかって、その犬の名前を呼びます。途端にその犬は姿を消し、太郎が手を離すと息絶えています。
このシーンで、名前の恣意性が表れています。太郎が「犬」という名詞を知らなかったことはないでしょう。パンジーは「パンジー」という一般名詞でよかったのに対し、犬は「犬」という名詞ではダメだった。この矛盾を論理的に説明できるでしょうか。
動物と植物の違い? 植物に触れるときにはその個体を含む集団を表す一般名詞でよいけれど、動物に触れるときにはその個体そのものを示す固有名詞が必要になる。確かにそれで説明はできるかもしれない。
しかし、想像してみたいことがあります。仮に太郎が、名前も付けられていない、誰にも気にも留められない野良犬に触れた時、その野良犬は死なないでしょうか。
ナラバには、おそらく死ぬのではないかと思えてなりません。だって、その野良犬はそれを個別的に表す固有名詞を持っていないから。飼い犬なら個別的な名前が必要だけれど、野良犬は「犬」という一般名詞さえ知っていればよい。理由はうまく言えないけれど、そう思えてならないのです。
言語には分断力があります。あるものを、細かく区切っていくという作用です。名前によって他と区別するというのは、まさにこの作用でしょう。その中で、区別されないものは同質とされる。あの野良犬とこの野良犬は同じ野良犬である。名前というものは、どこまでいっても人間の恣意性によるものだと思われます。
言語によって創造する
言語には分断性ではなく創造性もあります。
最近(?)では「エモい」という言葉が有名ですね。ナラバはこの言葉を習得するのに非常に時間がかかりましたが、今となってはなんとかネイティブレベルに使いこなすことができるようになりました。
英語のemotionalと、日本語で形容詞の活用語尾である「い」を組み合わせた言葉。これは、単純に「感動的だ」「心に刺さる」などというよりはもう少しカジュアルな印象を与える言葉です。そういった、もともとは存在しなかった言葉が今では市民権を得ています。もちろんこれに限らず、日々色々な人が色々な言葉を創造し、存在しなかった概念を作り上げていきます。人々は言語によって、新たな思考を得ることができる。
言語が思考を規定するという考え方がありますが、ナラバはそうは思っていません。というより、受け売りですが、言語は思考そのものではなく、思考の可能性を規定するものだと思っています。思考の可能性とは、思考のフィールドとも呼べるものです。
なぜなら言語には創造性があるからです。我々は、既存の言語しか使えないわけではなく、新たな言語を創造しながら思考することができます。名前は、その最たる例かもしれません。
この世界に生まれた一個体としての人間を、他と区別し絶対化するもの、そしてその新たな個人を創造するもの。それが名前だと思います。
おわりに
映画「名無し」の感想およびこの映画を見て名前について考えたことを述べてきました。そんなに深く考えたわけではないので、ツッコミどころも多いと思います。適当に読んでいただければ幸いです(今更)。
初めにも書いた通り、これはあくまで感想文であって、レベルの高い批評や考察をするつもりはありませんでした。しかし、自らも創作をする身として、他の方の創作を受けて考えたことを記すことは面白いですね。これからも続けていきたいと思います。
参考
映画『名無し』公式サイト
自由に捕らわれる。 /カンザキイオリ

