ヤマケイ ―山の警察—(プロローグ-3)
(プロローグー3)
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「新堂、祭。そこにいるのかぁ」
呼びかける森口分隊長の声で、花は足を止めた。
息も絶え絶えだ。ようやく現場にたどり着いた。らしい。
「らしい」というのは何も見えないからだ。花は両ひざに手をついて喘いでいた。雪山を歩くのがここまで大変だなんて知らなかった。花は、先輩隊員たちの作ってくれたラッセルを追ってきただけだ。歩きやすく組んでもらった道を歩いてきたのにこの疲労だ。リーダーとして先頭を歩いていた森口分隊長はどうなってるんだ。どんな体力だ。
それも、ただ歩くだけではないのだ。注意力だって必要だ。冠雪した稜線は道が見えない。どこに岩が隠れていて、どこに雪庇(風にあおられた雪が作った庇のような部分)が張り出しているかわからないのだ。雪庇を踏み抜けばそのまま滑落して死ぬ。岩を踏んで滑ればそれも同じ。何百メートルも滑ってきっと死ぬ。でも隊員たちはそんなミスを犯さない。花より何倍も体力を使う道を、ずっと精神を緊張させたまま、花より早く歩くのだ。バケモノだ。
女性の声が返ってきた。
「モグさん? よかった。ちょうどいま要救をここまで引き上げたところ」
祭先輩だ。今年まで山岳警備隊の紅一点だった先輩だ。今は花にとって貴重な情報源で先導者になっている。
「要救はどうだ」
「両足の骨折以外に肋骨も折れてるかも。止血だけしてある」
「わかった」
「天候不良で"つるぎ"はまだ飛べないんでしょ? だからモグさん、ここから」
「了解だ。二人ともよくがんばってくれた。あとは任せろ」
森口分隊長が声を張り上げた。強い風音を吹き飛ばそうとするような大声だ。
「ここから一の越山荘までストレッチャーで要救を運ぶぞ」
霞の中からいくつも重なった声が返ってきた。
「はい」
「佐々木が先頭に立て。残りの隊員でサイクルを組んで搬送する」
「はい」
白い空気の中、ストレッチャーを運ぶ四人の隊員は一つの影になって、まるで四本足の巨大な動物みたいだった。花は身震いする。この雪の中、足元のおぼつかない真っ白の稜線上を運ぶなんて。
単純に怖かった。わたしは大丈夫だろうか。
搬送役はサイクルで回ってくる。当然、どこかでわたしの順番がくる。わたしは本当に、人の命を運べるのか。普段、ザックを背負うだけでもギリギリなのだ。任務終了後にしっかり筋肉をほぐしてやらないと翌日はもう歩けなくなる。この状況で、そんなヤツに死にかけた人間が運べるのか。
やがて、雪煙の向こうに尖った山塊が見えてきた。白い世界に急に現れた山塊は魔王の住む城みたいに見えた。真っ黒だ。
「竜王岳だぁ」
森口分隊長が言った。
「ここを巻いて一の越に向かうぞ。かなりの急坂になる。交替だ。祭、新堂、大丈夫か」
二人の先輩の声が聞こえた。「はい」
続けて森口分隊長が言った。
「奥村、行けるな」
花は答える。声が震えた。
「はい」
ストレッチャーをつかんだ瞬間に後悔した。
甘かった。体力には自信があったしトレーニングも十分に積んできたという自負がある。でもそんなの何の意味もなかった。温かく風のないトレーニングルームで、水と食事を補給しながらやってきた訓練に意味はなかった。この重さ、いままでに経験したことのない重さだ。四人で運ぶのだから単純な重さは分散される。だけどちがうのだ。重さの質がちがう。
ストレッチャーの上で、男性は辛うじて息をしていた。その息が一瞬だけ空を白く染めてすぐに消えていく。花が運んでいるのは命だ。もしここで花が雪の下の岩を踏んで足を滑らせたり、力尽きて転んだりしたらこの命も一緒に転がり落ちる。たぶんそれだけで要救は死んでしまう。かろうじて燃え続けている命の火を、わたしのミスが消してしまうかもしれない。
――先輩たちは、こんな重さを支えてたのか……。
一歩ずつ進んだ。花はストレッチャーの左後ろをつかんでいた。自分が運んでいる感じがまるでしない。まるで先輩たちに引っ張られているみたいだ。もしかしてわたしは、祭先輩や新堂先輩にただ余計な負荷をかけているだけなんじゃないか。そう思えて仕方がない。本当にわたしはここにいていいのか。完全に力不足だ。
まだ……?
まだだった。目の前は白くて何も見えない。
また数歩進んだ。踏み込んだ足が雪に取られそうで慌てて姿勢を正した。早くも視界がぼやけてきた。緊張が続いて心の方がもたない。心が折れそうだから、体力もみるみる失われていく。足が重くて冷え切った鉛みたいだ。
まだなの。
まだだ。ようやく山塊を回り込んだ。山荘の屋根は見えてこない。
「あ。雲、晴れそう」
祭先輩の声がした。花は足元の雪から目を離した。顔を上に向ける。首筋に降り積もった雪がバサリと落ちた。灰色の雲。その雲の真ん中が白かった。
白くなった雲は二つに分かれて、そこから一筋の光が差し込んできた。
先輩隊員の紺色のウェアが見えた。祭先輩がストレッチャーを支えたまま首を空に向けていた。ゴーグルに落ちた雪が融けて、まん丸い水滴になっていた。新堂先輩が「ふうーっ」と長い息をついた。祭先輩に言っている。
「やっとお山の機嫌が直ったね」
世界が色を取り戻す。
「うん。まったく気分屋だよ。ここいらのお山は」
いつの間にか雪は止んでいた。一筋だった光の帯がその幅をしだいに広げて行く。山の稜線がはっきりと見えてきた。すぐ目の前に、来る時に見た富山大学の研究施設があった。その向こうに白い尾根がどこまでも連なっている。雪の白に半分うずまったハイマツの緑が見えた。隊員たちの顔も晴れていた。
光射す白の世界は清浄だった。
ババババと空気を切る音が聞こえてきた。花は再び空を仰ぐ。
「お。来た来た」
祭先輩の声が弾んでいた。
"つるぎ"だ。県警ヘリの〝つるぎ〟が、雲の切れ間を縫って飛んできたのだ。
――たった今、雲が切れたばかりなのに……。
真っ青なヘリが腹を見せて近づいていた。森口分隊長が無線に叫んでいる。
「こちら浄土山南峰の森口だ。要救一名、吊り上げ搬送願う」
確かな声が返ってきた。
〈了解。これよりホイストを下ろす〉
「了解」
空から降りてきたホイストケーブルを森口分隊長がつかんだ。手早くそれをストレッチャーのスリングにつないで姿勢を安定させる。
「OK。吊り上げ願う」
〈了解〉
要救が空に昇って行く。オレンジ色のストレッチャーが揺れながらだんだん小さくなっていく。回転するヘリのローターの下で、ヘリのドアから救助隊員が顔を出した。腕を伸ばしてストレッチャーをつかむ。揺れていたストレッチャーがピタリと止まった。命がつながった。
祭先輩が、打ち上げ花火でも見ているみたいな顔をして言った。
「意識もあったし大丈夫。きっと助かるよ」
それを聞いて花は、涎でも垂らしそうなくらいに脱力した。心の底からほっとした。体中のぜんぶの筋肉が弛緩してしまって立っていられない。
花たちのいる稜線に、サアッとさわやかな風が吹き抜けた。山を覆っていたガスが一息に吹き払われる。
そこに見えた。
立山連峰の山々。左奥に龍王岳がそびえている。大日山系、富士の折立。雪を冠した山々の稜線がキラキラと輝いていた。振り返れば槍も見えた。槍の頭が天を突き刺すように高々と突き出ていた。ガスが流れていく。まるで、ヴェールの下の花嫁を見るような気がした。美しいのだ。デザインやレイアウトとはちがう、あるがままの美しさだった。
ああ。
心が洗われる気がした。胸の奥底まで澄んだ空気が染み渡る。息を吸う。吐く。それだけで満たされる。これが山だ。この美しい山の中に、いまわたしはいるんだ。
鞍部を見渡すと、そこに一の越の山荘が見えた。山荘に繋がる山道も見えている。山道に色とりどりの小さな点が並んでいた。数えきれないほどの登山者たちが、山の頂を目指して登ってきていた。ルートを外れて登る者。雪渓の山道をトラバース気味に渡ろうとする者。ピッケルを持たずに雪深い登山道に取りつく者。みんな生きて歩いている。あの一つひとつが命だ。
たくさんの命が、いま、この山にあるのだ。
怖気とも取れる震えが花の全身を駆け巡った。花はその場に立ちすくむ。
自らを奮い立たせた。
わたしは、あの人たちを守るのだ。
立山黒部アルペンルートへの入山者は、富山県側、長野県側合わせて年間約百万人。そして毎年、百人近い人間が遭難している。
山に無敵のヒーローなんていない。誰だって山の前には等しく小さいからだ。
だから、花たちはこうして隊を組む。そうすれば死んだり怪我をしたりするリスクを減らせるからだ。助けられる人が増えるからだ。
花は稜線に立って、前を行く隊員たちの背中を眺めた。富山県警山岳警備隊は約三十名の隊員からなっている。そのうちの八名は常駐組。春から夏にかけてのハイシーズンは、一週間交代でずっと山にこもる。めったに町には降りてこない。
「マコトさん、今日のご飯はどうしようか」
新堂先輩が祭先輩に言っている。
「んー。立山センターにトマトの缶詰あったじゃん。あれにウインナ入れて、トマトスープとかどう?」
「おおー」
二人は今日から室堂警備派出所に常駐する。次に山を下りるのは一週間後だ。料理だって自分でする。何もない小さな派出所にずっと詰めて、事故が起きればそれに対応するために雪を掻き分けて山を走る。夜も寝ずに人を担ぐ。
「最後にリゾットにもできるしさ。ノブヒデ好きでしょ?」
「うん。超好き。マコトさん愛してる」
新堂先輩をスルーして祭先輩が花を向いた。
「花ちゃんも食べてく?」
「え?」
聞かれた途端に猛烈な空腹を覚えた。湯気の立つリゾットが目の前に浮かぶ。柔らかい味付きの米の中にほかほかのウインナが顔を出している。唾が湧き出す。抑えられない。
「い……、いいんですか!? やった!」
ものすごく喜んでしまった。山は不思議だ。ただ歩いているだけで、胃の底が抜けちゃったんじゃないかと思うほど猛烈にお腹が空く。お腹が鳴るとかそういうんじゃなく、切実な感じで食べたくなる。そして山で食べるご飯は、これがもう、信じられないほどおいしいのだ。
ヌッと何か大きいものが祭先輩と花の間に割り込んできた。
「おれも食いたいぞ」
森口分隊長だ。何というか熊みたい。お腹を空かせて人里に迷い出てきた熊みたい。祭先輩が露骨に嫌そうな顔をした。
「ええー。やだよモグさんバクバク食べるし」
「なんでだ。おれはあれだぞ。何でも食うぞ。何でもおいしくいただくぞ」
「だからヤなんだよ……。超手抜きでも超気合い入れたのでも、ぜんぶ何でも『うまいうまい』じゃん。作り甲斐ないんだよモグさんには」
「でもうまいんだからしかたないじゃないか」
「あーもー。じゃあお酒はモグさんね。日本酒とか持ってくんなよ」
森口分隊長がほくほくした顔をしている。大きな鮭をゲットして巣に帰る親熊みたいだ。
「じゃー、急いで室堂まで戻ろう。おっなか減ったー、あっと少し!」
祭先輩が歌い出した。この人はいつもこんな感じだ。救助活動の時は人を助けるのだけにひたむきでものすごく格好いいのに、一段落つくとこんな感じになる。どっちが素なんだかわからない。
花も歩き出す。お日様の見える稜線はほっとする。
「ほら、花ちゃん、がんばって歩け!」
「はは……。正直もう、足、ガクガクしてます」
歩き出した途端に無線機が鳴った。森口分隊長が無線を手に取る。
「はい。浄土山南峰の森口です」
渡部隊長の声が聞こえた。
〈立山川上流で道迷い遭難だ。悪いが、頼む〉
祭先輩が花に向けて顔をくしゃっと歪ませた。新堂先輩が映画の中のアメリカ人みたいに大げさに肩を竦めている。他の隊員たちも「やれやれ」って様子だ。森口分隊長はもう救助隊の顔になっていた。だけど誰も嫌だって言わない。足元の雪を払って、次の出動のために気合いを入れ直す。
森口分隊長がみんなを振り返った。
「道迷い遭難だ。隊を二つに分けて捜索するぞ」
みんなの声がそろった。
「はい」
新堂先輩が花の肩を叩いた。「残念。もっとお腹空かせてからご飯だ。早く見つけてあげよう」
そして歩き出す。山に向かって、人を助けに。
花も思う。
――これがお山の警察。わたしたちの仕事。
胸を張って誇れる。
わたしたちは、ヤマケイだ。
※涌井の創作小説です。
