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ヤマケイ ―山の警察—(第6話-1)

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(第6話 縦走(冬)-1)


   

 花は伊波の操縦する〝つるぎ〟に乗っていた。後部座席は真冬の空気だ。機内の温度はマイナス十五度。外と同じだ。寒いけど仕方がない。ガラスが曇れば要救助者を探せない。伊波さんの〝つるぎ〟は、人の命を運ぶために飛ぶのだ。
〈緊急だ。状況は機内で伊波から聞け〉
 渡部隊長にそう言われた。向かうは剱岳、眼下に見えるのは立山連峰の山々だ。一面が白い凹凸でしかない。そして視界が悪い。まだ雪は落ちていないけれど雲が濃い。白すぎるガスが雲海みたいに山々を覆っている。
「新堂と要救一名が剱のチンネに取り残された。救助に向かう」
 伊波さんからそう聞いてもすぐには理解できなかった。操縦桿を握る伊波さんの表情は硬かった。いつもの顔とぜんぜんちがう。それだけ状況は切迫しているのだ。
「救助要請が入ったのは十三時だ。東京から来た社会人二人のパーティーが剱岳チンネの氷壁を登攀中、一人が落ちて死んだ。もう一人が岩壁に取り残された」
 淡々と伝えられた。
「場所が悪い。県警のヘリでは対応できないと判断され、自衛隊小松救難隊に大型ヘリの出動要請がなされた。それでレスキュー隊員一名が現場に降ろされた。そいつが新堂だ」
 唾を飲む。
「だが、新堂を現場に下した直後に、突風でヘリが大きく揺さぶられた。その振動でホイストケーブルが補助タンクにぶつかって破損、使用不能になった」
「…………」
「つまり、隊員と要救を収容できなくなったってわけだ。それで、急遽おれにお鉢が回ってきた。ひでえ話だよな。県警ヘリじゃ無理だからって自衛隊を呼んだのに、自衛隊がダメだったから今度は県警ヘリってよ。アホかよ」
 話の中身とは裏腹に、伊波さんの言葉は鋭かった。
「おれたちの任務は、新堂と要救一名の回収だ。緊急事態だ。遺体はこの際置いておく。回収は後でする」
「現場のガスは……?」
「まあ、濃いな」
「視界は?」
「不良だな。チンネと小窓ノ王の隙間にわずかだがガスの切れ目がある。そこから三ノ窓雪渓に入るしかない。予報も芳しくない。時間とともに雲の位置が下がってきてやがる。あの雲が降り切る前にピックアップしないとおしまいだ」
 伊波さんが首をクイと曲げた。
「見えるか」
 見えた。ガスの切れ目に紺色のウェアが見えている。隣にもう一人立っている。新堂先輩と要救助者だ。切り立ったチンネのテラスで直立してこっちを見ている。
 叫んだ。
「おーい!」
 伊波さんが短く言う。「聞こえやしねえよ。無線使え」
 無線機に顔を寄せて叫んだ。
「こちら上空の奥村です。目視で場所を確認しました」
 すぐに返事が返ってきた。
〈新堂です。だいぶガスってきている。急いでください〉
 伊波さんが毒づいた。
「急げったって、ガスの中突っ込めってのかよ。落ちるっつーの」
 ガシリと操縦桿を握りなおした。
「しかたねえ。境目を飛ぶ。奥村、お前目になれ」
「はい?」
 何を言われたのかわからなかった。
「目になれっつってんだよ。ガスに突っ込めばガラスは曇って何も見えねえ。お前が肉眼で確認しておれに指示出せ。お前の指示で飛ぶから」
「え……」
 さらりとすごいことを言われた。それってつまり、わたしが指示を誤れば落ちるってことなんじゃないの? みんな死ぬってことなんじゃないのか。
「わ……、わたしがですか」
「そうだよ。さっさとしろ。ドア開けろ。顔出せ」
 唇を噛んでドアに手をかけた。氷みたいに冷たい。スライドさせる。突風が吹きこんできた。仰向けに倒れそうになり慌てて手すりをつかむ。伊波さんが操縦桿を倒した。
「行くぞ。覚悟しろ」
「はい……!」
 乳みたいに白いガスの中に突っ込む。速度を持って突っ込む時、ガスは小さな氷の塊になって、花の頬にそれがビシビシとぶつかる。猛烈な風だ。背後から一万本の腕で引っ張られてるみたいだ。頬の肉が風でビリビリ震える。引っ張られ上手くしゃべれない。
「伊波さん! そのまま、ジャンダルムを目指して真っ直ぐ!」
 霞の向こうに三ノ窓のコルが見えてきた。その先にあるのは切り立ったチンネ。チンネ上部のテラス部分に二人が立っている。猛烈な風に吹き飛ばされないよう互いに支え合っていた。近づいた。だけどまだ遠い。あの真上に行かなきゃホイストを降ろせない。もっとヘリを近づけなきゃならない。
「伊波さん。も、もう少し左に」
「具体的に言え! 何フィートだ!?」
 グラグラどころじゃない。ガクンガクン揺れる。つかまらないと立っていられない。この揺れ方、大丈夫なのか。
「さ、三十フィート!」
「どうだ!?」
「も、もう五フィート……、左へ!」
 今度は縦にガクンと揺れた。首が縦に振られて舌を噛みそうになる。伊波さんが叫んだ。
「新堂は!? どこだ!?」
 風が強すぎて瞼が閉じられない。乾いた目で真下を見た。
 叫んだ。
「真下です!」
 右手を大きく上げていた。
「二十フィートダウン!」
 ヘリのローターがガスを吹き飛ばしていく。新堂先輩のゴーグルに雪の欠片がビシビシぶつかっていた。だんだん大きくなる。岩壁もすぐそこだ。ヘリのローターがぶつかりそうだ。
「そこです! ホバリングしてください!」
 横殴りの風の中、スリングを降下した。真っ白い空気の中を赤い輪っかが降りて行く。ガスを突き破るようにして新堂先輩の手がスリングをつかんだ。
 操縦桿がガクンガクン揺れている。伊波さんが大声で言った。
「だめだ。このままだとダウンしちまう。二人一緒に上げるぞ! さっさと固定しやがれ!」
「了解! 新堂先輩!」
「三島さん! 行くよ!」
 新堂先輩の生の声が聞こえた。そこに先輩がいる。ケーブルにつながっている新堂先輩と要救を見ようと思って、ヘリから大きく身を乗り出した。
 その瞬間、ヘリがぐうんと奇妙に揺れた。機体が斜めになって、鋭く尖った岩壁に近づいていく。
 花は振り返り叫んだ。
「伊波さん!?」
 伊波は操縦桿を大きく傾けていた。ヘルメットの頭が揺れている。
 声が震えていた。
「お……、奥村、ヘリは今どっちに向いてる? 平行を保ってるのか?」
 花の顔から血の気が引く。伊波さん、今、自分がどこにいるのかわかっていない。どっちが天で、どっちが地かわからなくなってる。ホワイトアウトの視界の中、ずっと飛んでいたから空間認識が狂ってしまったんだ。
 バーティゴだ。
 すぐそこに壁が迫っていた。ローターがかするような距離だ。ヘリが斜めになれば、ケーブルでつながった新堂先輩たちも引きずられる。ピンと伸びきったホイストケーブルの先に、爪先だけを地に着けた新堂先輩と要救助者がぶら下がっていた。岩場に足先を擦っている。
「伊波さん! ダメ! 岩壁にぶつかる! 操縦桿を逆に倒して!」
 伊波が自分の頭をガンガン殴っていた。操縦桿を倒す。今度は右側にヘリが揺れ出した。花はケーブルにつながった新堂たちを見る。今度は雪面上を引きずられている。下半身が雪を擦っている。必死でハーネスからカラビナを外そうとしていた。
 叫んだ。
「伊波さん! 〝つるぎ〟を信じて!」
 その瞬間、伊波の頭の揺れが治まった。白く曇ったウインドウから目を離し、ヘリの計器だけをじっと見つめる。大きく息を吸い込んだ。吐き出す。速度計、昇降計、高度計だけを見て操縦桿をつかみ直した。
「……頼むぜ。つるぎ」
 伊波さんの掠れきった声がした。左右に大きく揺れていたヘリが姿勢を保ち始める。
 ウインチを回してホイストケーブルを引き上げた。新堂先輩と要救助者、二人がしだいにヘリに近づいてくる。全身雪まみれだ。要救助者の三島さんは死体みたいな顔をしていた。大きく揺れるヘリに雪原上で引きずられたのだ。当たり前だ。
 新堂先輩の顔も疲れ切っていた。鉛みたいに重い息を吐いていた。死なずに済んだのは奇跡だ。花も疲れていた。非常に危なかった。二人とも助かったのは僥倖としか言いようがない。
 ヘリが山から離れて行く。ガスに包まれた剱岳がしだいに小さくなっていく。
 空間失認に陥ってしまったら、回復するためには、自分の感覚を一度捨て去るよりないのだ。感覚的には下降していると感じていても、昇降計が上昇を示しているなら、それを信じてレバーを下げるよりない。自分の感覚より計器の示す数値を信じるのだ。
 〝つるぎ〟を信じている伊波さんだからそれができた。少しでも計器を疑ったら、自身の感覚と計器の数値の板挟みになってヘリは落ちる。いままで何度もそういう事故が繰り返されてきた。花たちを救ったのは、伊波と〝つるぎ〟の絆だ。
「花ちゃん」
 新堂先輩が花を見て言った。「ありがとう。助かった」
「……いいえ」
 新堂先輩のヘルメットが雪に濡れていた。その下の二つの目が花を見ていた。
「マコトさんが戻ってくる日まで」
 笑った。
「ぼくらペアの、これが初仕事だね」

 

(「第6話 縦走(冬)-2」へ続く)

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※涌井の創作小説です。


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