身体が教えてくれたこと ⓪ | 言葉は、なぜ二極をつくるのか― 平和や健康にこだわるほど、遠ざかることがある理由
平和でありたい。
健康でありたい。
その言葉は、
とても正し
やさしく聞こえる。
むしろ
そう願うこと自体が
「良いこと」として扱われている。
けれど私は、
長く身体と向き合ってきた中で
その「正しさ」とは別の何かが働いているような感覚を
何度も経験してきた。
言葉は、ただ意味を伝えるだけではない。
使われた瞬間に
世界の見え方そのものを変えることがある。
「平和」という言葉が立ち上がると
その向こう側に「戦争」が見えてくる。
「健康」という言葉を強く意識すると
「病気」や「不調」というものにも輪郭が生まれる。
善と悪
正と誤
健康と不健康
平和と戦争
私たちは世界を理解するために、言葉を使う。
けれど
その言葉によって
それまでひと続きだったものが
二つに分かれて見えることもある。
そして、ここから少し不思議なことが起きる。
「平和でいよう」
「健康でいよう」
そう強く願うほど
その反対側にあるものが気になり始める。
争いが起きていないか。
不調の兆しがないか。
何かが崩れていないか。
安心するために選んだはずの言葉が、
いつの間にか
「そうでなければならない」
という緊張に変わることがある。
その時、身体はどうなっているのだろう。
私は、このことを
最初から理解していたわけではない。
むしろ、身体の方が先だった。
ある時期、私は「健康」というものを
正しく管理しようとしていた。
食事
睡眠
思考
習慣
できる限り整えようとした。
けれど、その過程で
なぜか自分の身体の感覚が遠くなっていった。
正しくしようとするほど、呼吸は浅くなる。
整えようとするほど、内側は硬くなる。
その理由は、すぐには分からなかった。
ただ一つ感じていたのは、
「健康であろうとする私」と
「今ここにいる身体」が、どこかでズレている。
ということだった。
健康になろうとしているのに
身体から離れていく。
今思えば
この矛盾そのものが
私にとって大きな問いの始まりだったのかもしれない。
それから私は
少しずつ考えるようになった。
平和や健康は本当に目標として取りに行くものなのだろうか。
「健康になろう」とする前に、今の身体は何を感じているのか。
「平和でいよう」とする前に、今、自分の内側では何が起きているのか。
今、呼吸は楽だろうか。
身体のどこかで、無理に何かを支えていないだろうか。
何かを失わないように、静かに構え続けてはいないだろうか。
そこには
「健康か病気か」「良いか悪いか」では
捉えきれない領域がある。
ただ、今の状態がある。
それを感じることから始めてもいいのではないか。
そう思うようになった。
平和や健康を否定したいわけではない。
言葉を使わない方がいいと言いたいわけでもない。
ただ、言葉が先にあることで
見えなくなるものがあるのかもしれない。
そして反対に
身体は言葉になる前から
何かを感じ取っているのかもしれない。
私は、そのことを
ずっと後になってから考えるようになった。
なぜなら
自身がかつて「健康」という言葉を選んだ瞬間に
頭ではまったく理解できないほど
強い身体の反応を経験したことがあるからだ。
あの時、何が起きていたのか。
今でも、すべてを説明できるわけではない。
けれど
その体験は十年以上経った今も
身体の記憶として残っている。
このシリーズでは
そんなふうに、
身体が先に知っていて
私はあとから言葉を追いかけてきたこと
を書いていこうと思う。
理論をつくるためではない。
何かを正しいと証明するためでもない。
まだ言葉になりきらないものを、無理に答えにするためでもない。
ただ、身体が先に感じていたことを、一つずつ振り返ってみる。
そして今の私に見えていることを、今の言葉で置いてみる。
これは、身体が教えてくれたことを、少し遅れて言葉にしていくための記録です。
