Once In A Bluemoon
窓を開けると、心地の良い夜風が入り込んでくる。ハアッ、と息を吐けば白息が風に吹かれて、やがて溶けて消える。
夜空に視線を向ければ、雲に隠れていた月が現れた。辺りを白い光が淡く照らして、まるで自分が幻の世界にいるんじゃないかと思うような絵画のような世界がそこに現れた。言うなれば、あの画家だ。何と言ったっけ。あの、日傘を差した女性の絵を描いた、柔らかい雰囲気の絵を描くあの画家。確か…。
「それってモネのこと?」
あぁ、そうだ、モネだ。
「でも僕は月の絵って言ったら、モネよりもヴェルネの絵の方が好きだな。月を背景にしたあの船の絵って、見てるだけで気持ちがスッとなるよ」
見ると、庭に見たこともない白い花が咲いていて、どうやらその花こそ声の主らしかった。本当なら腰を抜かし、言葉を失うほど動揺すべき場面だとは思うけど、この時のわたしは清廉な月の光に当てられてなのか、とても冷静だった。
「絵のこと、詳しいのね」
「うん。絵は好きなんだ。眺めてるだけで、ここじゃないどこかに行ったような感覚になるから。君も、そうじゃない?」
「そうね。分かる気がする」
「そうだよね。やっぱりそうなんだ」
なんだか子供みたいな花だ。声色は男の子みたいで、ちょっと弟にも似てる。
「何だか、私の弟みたいだわ、あなた」
「そうなの?」
「私の弟も、絵ではないけど音楽が好きで、あなたとよく似たことを言っていた」
「その人ってどんな人? 今は何歳? どこに住んでるの? 音楽以外には何が好きなの?」
「弟は今年でちょうど10歳になってね。この前、パーティーをして祝ったわ」
「へえ! イイなぁ、楽しそう!」
「楽しかったわよ。それで、住んでいるのは北海道でね」
「北海道!? うわあ、寒そう…」
「すっごく寒いわよ。でも弟は雪遊びが大好きでね。わたしは弟に連れ回されて、帰る頃には寒いのなんか忘れるぐらいぽっかぽかに暖かくなるの」
「あなたと弟って、仲が良いんだ」
「そうだと思う」
「良いなぁ。でも良かった」
「何が?」
「あなたの弟は、ちゃんと10歳になれたんだ」
不思議なことを言うと、わたしは思った。
「ね、あなたもしかして、月の花?」
「どうして?」
「今日の月はとても良い月だから。そんな月の光があなたを咲かせたんじゃないかなって思ったの」
花は、首を傾げるみたいに、花びらを下に向けた。
「そうなのかな。僕には分からないけど」
花はうんうんと困った様子で、わたしは何だか悪いことを聞いた気になった。けど、花はパッと上を向いて
「でも、あなたがそう言うなら、そうなのかもしれない」
と、明るく言った。
夜風は今は少し暖かさも纏って、心地が良い。花もフワフワと花びらを揺らしていて、気持ち良さそうに見える。少し、ほんの少しだけど、笑っているようにも何だか見えた気がした。
「あなた、名前はあるの?」
「あるよ」
「なんて言うの?」
「マヒロ」
「マヒロ?」
「うん。変かな?」
「ううん、そんなこと無いわ。ただ花らしい名前じゃ無いなって思っちゃって」
「そうかも。だってこの名前は、僕がまだあなたと同じ姿だった時の名前だから」
同じ姿? それは、つまり…。
「もしかして、あなた…」
「うん、そうなんだ。僕はちょっと前まで人だったんだよね」
「どうして花になったの?」
「僕にも分からないんだ。でも多分、神さまが僕に気を利かせてくれたんだと思う」
「神様が?」
「うん。だってほら、僕の姿って素敵じゃない?」
「えぇ、とても綺麗だと思う」
月の光を携えたかのように凛々しく咲く彼を最初見た時には、毅然とした強い子に見えたけど、何だか今は少し可哀想に思えてならない。
「やめてよね」
「え?」
「僕のこと、可哀想だと思ってる目だ。少し潤みがかってる。そういう目を向けられる程、僕は可哀想なんかじゃないよ」
「ごめんなさい。そんなつもりじゃ」
「いいよ。前はあんまり向けられなかった気持ちだから。嬉しくもあるんだ。でも、あまり僕をそんなふうに思わないでほしい。僕は他の人が思うほど、不幸じゃない」
この花は、この子は、やっぱり強い子だ。
夜風は、また寒さを纏わせてきた。そろそろ外にいるのも辛くなってきた。体がブルっと思わず震えてしまった。
「寒いの?」
「そうみたい」
「もう中に入って寝た方がいいよ。暖かいベッドに入って、ゆっくりして」
「ありがとう。あなたも寒くはない?」
「僕は大丈夫。何だかあったかいから。きっとあなたと話していたからだと思う」
「わたしも楽しかったわ。今度は、あなたの好きな絵の話をもっとしたいわね」
「そうだね。そうできたら、楽しいだろうなぁ」
「きっと楽しいわよ」
夜風が勢いよく吹き込んできて、わたしはたまらず肩を竦ませた。
「おやすみ、お姉さん。もう寝た方がいいよ」
「ありがとう、おやすみマヒロ。またね」
「うん、またね」
窓をカラカラと鳴らしながら閉めて、カーテンを閉める際(きわ)に、わたしは彼に向かって手を振った。彼も花びらをひらひらと振ってくれた。
その夜は、久しぶりに優しい気持ちで眠ることができた。
翌朝、庭に出てみると、昨夜彼が咲いていた場所は夢のように何も無かった。
彼は、マヒロはどこかに行ったのだろうか。それとも、また良い月が出た夜には、ここに咲いて出てきてくれるのか。
もし、また彼と会えたら、その時はわたしの好きな絵も教えてあげたい。それに、言いそびれてしまったわたしの名前も。
