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研究日誌第26号 受験に「最適化」しすぎることの危うさ

こんなことを書くと、きっと誰かに怒られるのだろうとは思う。
それでも、あえて書いておきたい。

受験勉強(ここでは大学受験を想定している)を頑張ること自体は、もちろん悪いことではない。むしろ、一定の集中力を持って努力する経験は、その後の人生にとっても大きな財産になる。ただし、問題は過剰に適応してしまうことだ。

数学でも物理でも、高校で学ぶ範囲など、正直なところ「たかが知れている」。それだけで何かができるようになるわけではないし、世界が大きく開けるわけでもない。ところが、その限られた範囲でやたらと足踏みをさせ、そこでの序列を固定しようとする力が、しばしば働く。

なぜそんなことが起きるのか。
おそらく、人は誰しも、自分が苦労して獲得したものの価値が「この先も永遠に通用してほしい」と願ってしまうからだ。受験で身につけた解法や知識、偏差値という序列が、ずっと意味を持ち続けてほしい――そう思う気持ちは、理解できなくもない。

しかし少なくとも、数学や物理に関して言えば、本当に面白く、意義深く、そして役に立つ内容は、大学以降に圧倒的に多い。概念の抽象度も、応用の広がりも、思考の自由度も、まるで別の世界だ。そこへ進むための入口が受験であるはずなのに、入口そのものに固執してしまうのは、あまりにももったいない。


「勉強が得意」な人の行き先について

もう一つ、個人的に気になっていることがある。
それは、勉強が得意な人が、受験産業などの学習支援業に過度に集中してしまう傾向だ。
誤解のないように言えば、学習支援業そのものを否定したいわけではない。教育に価値がないと言うつもりもないし、本当にそれが適職で、社会的にも重要な役割を果たしている人がいることも事実だ。
ただし、私見では、それが本当に向いている人は、全体の1割もいないのではないかと思っている。
英語が得意な人がいるなら、商社や企業の国際部門、官庁(国際的な仕事の多い仕事)や国際機関など、実際に国境を越えて動く仕事に就いた方が、その能力はより生きる。理系科目が得意な人なら、研究、設計、新製品や新サービスの開発など、未知のものを生み出す側に回った方が、社会全体にとっても本人にとってもプラスになる可能性が高い。


受験産業は、個人の人生より長くは続かない

ここで、もう一つ、あまり目をそらせない現実がある。
18歳人口は、はっきりと減り続けている。
これは予測でも警告でもなく、すでに進行している事実だ。

つまり、どれほど工夫を凝らし、どれほど情熱を注いだとしても、受験産業そのものの寿命は、今20代・30代の人間の職業人生より短い
つまり、「あなたが定年を迎えるより先に、市場そのものが縮みきってしまう」可能性が高い。

それでもなお、受験産業に全力で最適化するという選択を取るなら、それはそれで覚悟の上だろう。しかし、少なくとも「安定しているから」「今までうまくいってきたから」という理由で選ぶ仕事では、もはやない。

受験勉強が得意だった、という事実は、
「限られたルールの中で成果を出せる能力がある」という証拠にすぎない。
それは本来、より大きく、より不確実で、より創造的な世界に進むためのチケットのはずだ。


入口に居座らないために

受験はゴールではない。
ましてや、人生の本番でもない。
入口で身につけた技術を、どう使って外へ出ていくか。
より広い世界で、より難しい問題に挑むか。
受験に過剰適応した社会は、個人にとっても、社会にとっても、健全とは言いがたい。
入口は、あくまで入口として、さっさと通り抜けてしまっていい。
受験産業が縮む時代に必要なのは、入口を磨き続ける人ではなく、外へ出て道を作る人だ。
その先にこそ、本当に面白い世界が待っている。


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