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魂が宿る場所 コリーヌ・セロー「美しき緑の星」


いつかたどり着く処


私たちは、魂の故郷(ふるさと)を目指して、螺旋(らせん)の階段を昇り続ける、「人生の探究者」であり、「命の表現者」です。

幾千もの時を超え、姿かたちを変えながら、魂が最終的にたどり着こうとしている場所。
それは、コリーヌ・セローの映画『美しき緑の星』が教えてくれたような世界。

貨幣も争いもなく、人々が自然の一部として調和し、テレパシーのように心を通わせ合う。
『命が命として輝く』崇高な世界ではないでしょうか。

その星には、私たちを縛り付ける上下関係や勝ち負け、支配や搾取といった概念は存在しません。
あるのは、長い経験を積んだ熟練者たちの深い智慧と、それを受け継ぎ、お互いを尊重し合う、調和の心だけです。

社会を見渡してみれば、生産性や効率ばかりを追い求める「経済至上主義」の波が、大切なものを飲み込もうとしているようにも観えます。

貨幣という対価がなければ成り立たない。
目に見える「数値」や「成果」、偏ったものさしで推し量る価値観は、いつしか私たちの視野を狭め、ありのままを尊重し合う「人間の尊厳」や、すべてのいのちの源「恵み」との繋がりさえも、遠ざけてしまいました。

大自然を支配し、搾取を繰り返すことで、私たちは本来魂が安らぐはずの場所を、自ら壊してしまっているのかもしれません。

こうした歪みは、私たちの心にも影を落とします。

「~すべき」という外側からの決めつけや、「〜しなければならない」といった潜在意識に刷り込まれた思い込みは、「誰かと自分を比べる心の棘(痛み)」や「優劣を競い合う不協和音(不安)」となって、私たちを苦しめます。

他者を尊重できず、常に何かを奪い合わなければ豊かになれない、という強迫観念が、争いの連鎖を、知らず知らずのうちに引き寄せてしまうのです。

けれど、そうした観念から自由に解き放たれたとき、人は初めて「表裏のない人間性」を取り戻します。
あらゆる支配『洗脳』からの、接続解除です。

映画の中で、地球の人々が社会的な仮面を脱ぎ捨て、本来の純粋な自分を取り戻したように。私たちもまた、自分自身を縛る、観念から、自由になれるはずです。

自分の得意なことが誰かの喜びになり、他者の輝きをまるで自分のことのように祝福できる。

「自分は自分、他者は他者、ありのままでいいのだ」という、元々備わっていた感性が心を満たしたとき、そこには恵みを分かち合う、共生社会が広がっていきます。

「美しき緑の星」は、どこか遠い宇宙の彼方にあるのではありません。

ありとあらゆるものに魂が宿っては、感受され心動かされる、生きる歓びに値する、本来の「美しき青い星」。
それはまさに、此処に在ったのではないでしょうか。

私たちが今、この場所で、「命の尊厳」を優先し、どのような心で生き、どのような種を蒔くのか。
その積み重ねの先に、本来の在り処(ありか)は形作られていくのです。