アガサ・クリスティー再読感想文 その22 好きな作品⑥ 『ポケットにライ麦を』 後編 グラディスという名の女の子
『ポケットにライ麦を』は、復讐の女神ミス・マープルの誕生を告げる物語なのだ。
そしてその誕生の原因はおそらく一人の少女の悲劇なのだと思います。
グラディス・マーティンという名前の女の子の。
『ポケットにライ麦を〔新訳版〕』
アガサ・クリスティー(著) 山本 やよい(訳) 早川書房 クリスティー文庫
参考文献はいつもの2冊。
・『アガサ・クリスティー百科事典 ―作品・登場人物・アイテム・演劇・映像のすべて―』数藤 康雄編、竜 弓人編、早川書房、2004年出版。
・『アガサ・クリスティー完全攻略〔決定版〕』霜月 蒼著、杉江松恋解説、早川書房、2018年。
感謝です。
1 グラディスという名の女の子
見るからに気が進まない様子で部屋に入ってきたのは、愛嬌のない、怯えた表情の娘だった。背は高いし、ワインレッドのおしゃれな制服を着ているのに、どことなくだらしない印象だった。
娘は入ってくるなり、すがるような目を警部に向けて言った。
「あたし、なんにもしてません。ほんとです。あたしはなんにも知りません」
事情聴取に呼び出されてやってきた小間使いの女の子。
ニール警部は「ビクビクしているウサギのような」(同上)グラディスを安心させようと優しく話しかけますが。
有能家政婦ミス・ダブはグラディスのことを「おとなしくていい子ですが、気が利く方ではありません。扁桃肥大症のせいで鼻をグズグズ言わせています」(同上p.61)と言います。
屋敷の主人の前妻の姉、ミス・ラムズボトムからは「あの子に目をつける男なんていやしない。気の毒だけど。まあ、あの子の魂にとってはかえって幸いかの知れないね」(同上p.143)と言われます。
その後、グラディスはお茶の支度の途中でいなくなってしまいます。
料理人のクランプ夫人からは「戻るもんですか。男とほっつき歩いて、あちこちの店で無駄遣いしているに決まってます。若い男と付きあってんですよ。あの顔からは、とてもそうは思えないでしょうけど。」(同上p.147)と言われてしまいます。
でも、屋敷の主人に続いてその若い妻まで殺されてしまい、その時飲んでいたお茶が調べられ、それを運んだグラディスのことをニール警部が尋ねると、先ほどのクランプ夫人は
「しちゃいけないことをするような子だとは思えません。そんなことするはずないです──グラディスに限って。ものすごく善良な子なんです。少しグズなだけで。性悪なところはありません。」(p.150)とかばいます。
「あの子、うんと上等のナイロンのストッキングを履いていました。男に会うつもりだったんですよ。ぜったいそうです!お茶に添えるサンドイッチを切ろうともしなかった。そうよ。きっと男に会いに行ったんです。帰ってきたら、うんと叱ってやらなきゃ」
帰ってきたら──。
愛嬌がなくて、だらしない印象の、気が利かなくて、鼻をグズグズさせて、男性から目をかけられることない容姿で、でも善良な女の子。
ようやく恋人ができた様子で、お茶の準備をしても気もそぞろで、一番上等のナイロンストッキングを履いて、恋人に会いに行って。
そして彼女は物干し場で遺体となって発見されます。
洗濯バサミで鼻を摘まれた格好で。
グラディスは身寄りがなく児童養護施設にいました。彼女に給仕の仕方や銀器の手入れ法を教えて社会に送り出したのがミス・マープルでした。
老婦人は少女が被害者の一人だと知りお屋敷に乗り込んできます。
ミス・マープルはグラディスが可愛い子だったかどうかと尋ねられて答えます。
「いえ、とんでもない。アデノイドの持病がありましたし、顔は痘痕だらけ。おまけに、薄ぼんやりした子でした。」ミス・マープルは考え込みながら話を続けた。「どこにいても、友達はあまりできなかったでしょうね。男との交際に憧れていましたが、男にはまったく相手にされず、女の子たちにはいいように利用されたいました」
「残酷な話ですね」
「ええ、そうね。人生は残酷なものです。──中略──映画や何かに行くのがあの子たちの楽しみではあるのですが、すてきなことが自分たちにも起きるんじゃないかって、いつも夢見ているんです。どう考えても無理なのに。まあ、それも一種の幸せかもしれませんけど。でも、いずれ失望するものです。
そんな女の子が事件に巻き込まれ、哀れに殺されてしまいました。
しかも見立て殺人のために洗濯バサミで鼻をつままれるなどという「なんとも残酷で侮辱的な仕打ち」(同上p.161)までされていました。
だからこそ老婦人は大いに怒ります。
そこには不幸な娘への深い共感があり、正義の使徒マープルの仮借なき怒りがある。
と霜月氏もおっしゃっています。
私がこの少女のことを考えるたびに思い出すのは、ポアロの『ABC殺人事件』の最初の被害者のことです。やはり貧しいけれど善良で逞しく生きてきたアリス・アッシャー。その姪が、叔母が殺されたことについてこう言います。
「あれは正しいことじゃありません」
これは正しいことではない。
貧しくて社会的地位も低くて、それでも真っ当に生きている女性や少女がこんなふうに殺されていいはずがない。
それは間違ってる。
クリスティーの強い正義感が感じられます。
犯罪を憎むミス・マープルのまっすぐな正義感は、クリスティー自身のそれの反映とみていいだろう。
と新訳版の解説で霜月氏もおっしゃってます。
言い方は悪いのですが、世間的にも取るに足りない女の子が被害者だったこと。
残酷な侮辱を受けたこと。
だからこそ老婦人は憤っている。
そこに大きな意味があるように思います。
この物語は復讐の女神ミス・マープル誕生の物語。
でもそれはグラディスという少女がいたからこそだと私は思います。
2 復讐の女神
先ほど引用しましたが、霜月氏は『完全攻略』とは別に、2020年出版の『ポケットにライ麦を(新訳版)』の解説もされています。
そちらも私は読みながら何度も頷いてしまったので引用させていただきますね。
霜月氏は解説の冒頭でおっしゃっています。
ミス・マープルといわれて、どんなイメージが思い浮かぶだろう。
田舎に住み白髪の老婦人。いつも優しげに微笑んでいて、彼女の家を訪れた村人がお茶を飲みながら村で起きた怪事件についての世間話を聞かせると、編み物の手を止め、穏やかに意外な犯人を指摘する。──中略──しかしそれは間違いではないけれども正しくもない。そう教えてくれたのが、他ならぬ本書、『ポケットにライ麦を』だった。
前回お話ししましたが、ミス・マープルの登場場面は物語がちょうど半分くらい進んでから。
一人目の殺人の後、捜査中にもう一人が殺されてしまい、警察も頭を悩ませている最中、行方がわからなかった小間使いも死体で発見されてしまいます。
これからどうなるの?
というタイミングでミス・マープルが満を持して登場します。
この場面、十行にも満たぬこの場面こそが、僕のミス・マープル像を刷新したものだった。カッコいいのである。
ヒーローの到来である。彼女が殺人の起きた屋敷にやってきたのは復讐のためだ。──中略──殺人者への苛烈な怒りが、この老婦人を駆動している。
霜月氏がおっしゃる通り、老婦人の登場の仕方が「かっこいい」のです。
白髪のおばあちゃんの姿をした苛烈なクライムファイター──ミステリ史上でもきわめて特異な名探偵、それがミス・マープルなのだと僕は思っている。
だそうです。
霜月氏はこの『ポケットにライ麦を』を挟んで、その前とそれ以降のミス・マープルのイメージの違いも指摘されています。
「編み物をする田舎のおばあさん」(p.368)のイメージは。
短編集『火曜クラブ』から続く最初の長編5作品『牧師館の殺人』『書斎の死体』『動く指』『予告殺人』『魔術の殺人』。
「悪と戦うことに喜びを見出すクライムファイター」(同上p.369)のイメージは。
『ポケットにライ麦を』に続いて『パディントン発4時50分』『鏡は横にひび割れて』『カリブ海の秘密』『バートラム・ホテルにて』『復讐の女神』の長編5作品。
ただし最終作にあたる『スリーピング・マーダー』は一九四〇年代に書いて保存してあったので「初期五篇に似る」(同上p.368)とあります。
ミス・マープル作品を全部読むと「確かに!」となります。
実は私、クリスティーを読むまで推理小説をほとんど読んでいなくて、ミス・マープルもその名前しか知らず、たまたま最初に手に取ったクリスティーが『パディントン発4時50分』でした。復讐の女神ミス・マープルが誕生して二作目になります。
ですから私のミス・マープルのイメージは最初から犯罪捜査に積極的な素人探偵みたいな感じで。
その後ミス・マープルのシリーズを発表年代順に読み進めたのですが、最初の頃のミス・マープルの人となりとか、彼女自身の事件に対する姿勢などがちょっと異なることに驚きました。
ただし、私は初期のミス・マープルに「いつも優しげに微笑」んで「編み物をする田舎のおばあさん」のイメージはありません。
優しいおばあさんというより「賢くて鋭い洞察力を持っているけれど老婦人という立場をわきまえてやや控えめにしている女性」というイメージでしょうか。
人間に対して鋭い批判の目を持ち、常に最悪を想定する人。
人間の邪悪を知る賢い人。
賢いゆえに達観していて世の中を一歩引いたところから見ているような。
そんなミス・マープルが、この『ポケットにライ麦を』では、自分が世話した身寄りのない女の子が事件に巻き込まれたと知り、犯人に対する怒りと正義の心が強まり、自分の能力に自覚的になり、主体的に動くようになる。
復讐の女神の誕生です。
3 事件の解決法
本書の白眉はラストシーンである。ミス・マープルはしばしば犯人を追いつめるための罠を仕掛けるが、『ポケットにライ麦を』では追いつめきる前に事件解決をニール警部に任せてセント・メアリ・ミード村に帰ってしまう。そこでは一通の手紙が彼女の帰宅を待っている。
と霜月氏はラストシーンのお話をされています。
このラストシーン、本当に素晴らしいのですが。
その前の場面、ミス・マープルが事件解決をニール警部に任せるところも私は好きなのでそれについて先にお話ししますね。
ミス・マープルは事件解決のため犯人に罠を仕掛けることがあります。最初の五つの長編はほとんどがそうだったかも。この後の作品でもそういった手段を取ることがしばしばあります。でもこの作品ではそれをしません。
今作では罠を仕掛ける代わりに解決をニール警部に委ね、彼ならできると鼓舞します。ニール警部は
声を尖らせて尋ねた。「わたしにこのすべてを立証することができるなんて、どうして思われるんです?」
ミス・マープルは激励するようにうなずいた。奨学金試験を受けに行く利口な甥を、叔母が励ますといった感じだ。
「大丈夫、できますよ。警部さんはとても、とても頭がいい方ですもの。──後略
自分ができなくても、若い人にできることがあるならそれを示し励ます。
クライムファイターである彼女は、その一方で良き指導者的側面を持っているように思います。この解決法は素人探偵の限界というリアリティも感じられて私はかなり好きです。
そしてニール警部に捜査を託した後、ミス・マープルは犯人が捕まった時のことを考え、犯人に関わってしまってまだ何も気づいていない女性にも気遣いを見せます。
「神様が守ってくださいますよ。人生を進んでいくには多大な勇気が必要です。あなたにはその勇気がおありだわ」
犯罪を憎む復讐の女神、クライムファイターな老婦人は、良き指導者でもあり、さらに辛い目にあう女性たちに対する憐れみの心を持っていてます。
私はそんなミス・マープルが好きです。
そして物語の終わりはミス・マープルの帰宅後の場面。
感動的なのである。クリスティーを読んで泣くことになろうとは。傑作です。
と霜月氏。
私もそう思います。
未読の方、ぜひこの物語を最後まで読んでいただけると嬉しいです。
さてこの後は犯人とラストシーンのお話なのでネタバレになってしまいます。
未読の方はここまでで。
既読の方はよかったらお付き合いください。
その前に次回予告を。
と言いつつ、実は二つ考えていて。
A.『どれから読む?海外文学ブックガイド英語編』初読感想文
B. アガサ・クリスティー再読感想文その23 番外編 『殺人は容易だ』
どちらも記事にする予定ですが、どちらを先にするかは未定です。
迷ってます。
それではこの後ネタバレです。
推理小説なので犯人の名前をあげませんが、読めばわかってしまうと思うので。

4 犯人
この犯人。
私はかなり怖いと思いました。
何が怖いかというと。
犯人の憎めない人柄と口のうまさです。
犯人は賢く、機転も効いて、話が上手い。
その上ハンサムで人当たりもよく魅力的。
大抵の人から好かれるというか、しょうがないなと許されてしまう人です。
言葉巧みで、周りのみんなはいつのまにか、そうかなあ、そういえばそうかもと思っていまします。
数ヶ月前に父親が和解を申し出て手紙をよこした、とか。
少し前に家に寄って父と話をした、とか。
父は病気には見えなかった、とか。
昔自分が犯したとされる犯罪も兄の罠だ、とか。
兄は本当は腹黒いやつだ、とか。
父を恨んでいる鉱山関係者の存在、とか。
鉱山の価値なんて無い、とか。
ほとんど犯人の言葉だけなのに、皆、そうなのかな? いやきっとそうだと思ってしまいます。
ニール警部でさえ。
ニール警部の前で犯人と兄が諍う場面があるのですが、ここ、私はすごく怖いです。
ただの兄弟喧嘩を装って、犯人はニール警部の兄に対する疑惑をどんどん深めていきます。その結果兄は恐ろしい立場に追い込まれていきます。
犯人は人柄と言葉だけで犯罪を成功させようとします。
実際に犯人が手を下す殺人もあるのですが。
そんなことは犯人にとって大したことではないと思えてしまうほど簡単で。
犯人の動機は唯一好きになった女性と豊かに暮らすためでした。
その女性は何も知らなくて。
怖いです。
5 ラストシーン
被害者の少女はミス・マープルに手紙を書いていました。
配送が遅れてしまい老婦人のところに届いたのは事件が終わってから。
ミス・マープルは事件解決をニール警部に委ね、帰宅してからそれを読みます。
「インク汚れが飛んだ拙い筆跡」の手紙が全文掲載されています。
拝啓 マープル様
とつぜんお手紙さしあげることをお許しください。でもどうしていいかわからなくて、ほんとにわからなくて、あたし、悪いことするつもりではなかったんです。──後略」
辿々しく幼い文章で、少女は老婦人に訴えます。
「だって、あたし、そんな悪いことしてないし、あの人だってするはずありません。」(同上)と、少女は怯えながらも恋人を疑うことなく、これは何かの間違いで、あの人はいい人なのだと思って庇い続けます。
そして最後に
「でも、ほら、すてきな人でしょ。」
と少女は嬉しそうに付け加えます。
それが本当に哀れで悲しくて。
でも少女は「すてきな人でしょ」と老婦人に見せたくて恋人の写真を同封していました。
恋人が写真を撮られるのを嫌ったため、少女はこっそりと写真を撮ってもらっていました。恋人はそれを知りません。
それは証拠になるものでした。
少女の恋人を慕う健気で可愛らしい気持ちが、犯人を捕まえる決定的な証拠になるのです。
老婦人は涙し、哀れみの後に怒りが湧き、そして勝利の喜びを感じます。
最後の最後にミス・マープルの顔に浮かぶ歓喜は、お品のよい老婦人のそれではない。憎むべき殺人者を縛につける最後の一手を手に入れたクライムファイターの歓喜。それが本書の幕を閉じる。
それはそうなのですが、私にとってこの最後の場面は。
薄ぼんやりした子で。
友達はあまりできず。
異性との交際に憧れてもまったく相手にされず、同性たちにはいいように利用されていた少女。
実現しそうもないことを夢見る哀れな少女の悲しい終わりとして。
私はこの最後の場面をよむたび、どうしても涙してしまいます。
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