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アガサ・クリスティー再読感想文 その23 番外編1 『殺人は容易だ』前編 すべての人が叔母を持つべき

 列車内でたまたま同席した老婦人。
 彼女は村で起きている連続殺人事件をロンドン警視庁に訴えに行くのだと言います。
 村で連続殺人? そんなこと信じられない。それにもしそうなら皆気づくでしょう?
 という主人公に

いいえ、その考え方はまちがっていますわ。殺人はとても容易なんですよ──だれにも疑われなければね。

『殺人は容易だ』アガサ・クリスティー著 高橋 豊訳 早川書房 p.26

 
「殺人はとても容易なんですよ」だなんて!

 なかなかセンセーショナルなセリフです。
 でもこの物語を読み進めていくとなるほどとなって。

 怖いです。


『殺人は容易だ』
アガサ・クリスティー(著) 高橋 豊(訳) 早川書房


 2023年イギリス製作のドラマの前編が先日の日曜日(2025年7月27日)夜11時にNHK総合チャンネルで放送されましたね。

 コメントでお知らせくださった方がいて、そのコメントを読んで知りましたというコメントもありました。
 ごめんなさい。前回の記事でお話しすればよかったですね。
 コメントしてくださった方、ありがとうございました。

 ドラマの後編は今度の日曜日8月3日の夜11時放送予定のようです。
 ぜひそちらも観ていただいて、その後こちらの記事の後編も読んでいただけると嬉しいです。

 今回は原作のお話を。
 次回、ドラマのお話をしたいと思います。


 参考文献はいつもの2冊。
・『アガサ・クリスティー百科事典 ―作品・登場人物・アイテム・演劇・映像のすべて―』数藤 康雄編、竜 弓人編、早川書房、2004年出版。 
・『アガサ・クリスティー完全攻略〔決定版〕』霜月 蒼著、杉江松恋解説、早川書房、2018年。

 感謝です。




1 すべての人が叔母を持つべき

 冒頭の列車のシーンが好きです。

 主人公ルーク・フィッツウィリアムは偶然ロンドン行きの列車に乗り合わせ、上品な老婦人ラヴィニア・ピンカートンに出会います。
 おしゃべり好きなラヴィニアに対し親切に話を聞いてあげるルーク。
 二人の会話がなかなか楽しくて。

 ラヴィニアは「かなりの年配の婦人」(『殺人は容易だ』p.16)で、ルークはこの「隅に座っている親切そうな老婦人が「ロンドンまで黙って旅行するつもりだとは、とうてい考えられなかった」」(同上)のですが。
 予想通り、彼女はルークを相手におしゃべりを続けます。

 朝の汽車と今乗っている汽車の乗車時間の違い、安売りデー、飼い猫の耳の怪我のこと、一等車は贅沢だとか、税金や召使の給料も高くなってるとか。

 でも青年は老婦人が喋り続けても一向に気になりません。
 それは彼に「出色の叔母」ミルドイレッドがいたためでした。
「彼はミルドレッド叔母が大好きだった」ので。(同上p.19)

それに、ミルドレッド叔母やこんな老婦人は、どこか気楽に親しめる土着性のようなものがあった。マヤン海峡には彼女たちのような女はいなかった。つまり彼女たちは、クリスマスの日のプラム・プディングや、村のクリケットやたき木をくべる野外炉と同等の存在なのだ。それがなかったり、反対側の世界にいるときは、非常に懐かしく思われるものだった。

『殺人は容易だ』アガサ・クリスティー(著) 高橋 豊(訳) 早川書房 p.19

  外国からイギリスに帰ってきたばかりのルーク。
 ミルドレッド叔母のような存在を懐かしく感じていたこともあって、老婦人に優しく接します。

 また話をしていくうちに、ラヴィニアはなかなか鋭い観察眼を持っていることもわかってきます。
 ルークの日焼けした顔を見て「東洋の方から休暇で帰っていらっしゃった」(同上)軍人さんでしょう、と推測します。
 ルークは元警察官でしたが「東洋から帰国」はラヴィニアの推測通り。
 そしてルークが元警察官だと知ると今度は「ふしぎなご縁ですこと」(同上)と言って、ラヴィニアはこれからロンドン警視庁に行くつもりだと明かします。そして村の連続殺人を告発に行くというのですが、あまりにも途方もない話で。
 ルークはラヴィニアの空想だと思いつつ、優しく話を合わせてあげるのですが。
 すると彼女は。

「あなたとお話をして、ほっとした気持ちになりましたわ──あなたがとても親切にしてくださったからでしょう──私が正しいことをしようとしていると、あなたが賛成してくださって、ほんとにうれしいわ」
 ルークは親切にいった。
「警視庁へ行けば、きっと相談に乗ってくれますよ」

同上 p.24

 とはいえやはりルークはラヴィニアの話を信じられず。
 別れ際、やはり信じられないというルークにラヴィニアは冒頭の引用のセリフ「殺人は容易なんです」を言います。
 それでもルークは彼女の話を「なまなましい空想」(同上p.26)だろうと考えて、二人は別れます。

 ところがその後、ルークは朝刊でラヴィニアが車にはねられ亡くなったことを知ります。
 さらに一週間後のタイムズ紙で、彼女が次の被害者になりそうだと心配していた人物まで亡くなったことを知り、ここに至って、元警官ルークは村に捜査に行くことを決意するのですが。

 この物語は青年ルークが老婦人ラヴィニアの言葉を信じたことから始まります。

 彼が捜査に乗り出したのは元警官だったためもあると思いますが、やはりミルドレッド叔母の存在があったからこそ。

 捜査の途中でルークは地元の医者にラヴィニアの話をするのですが相手にされません。
「証拠を示してください。ぼくが要求しているのはそれだけですよ。おばあさんのあてずっぽうにもとづいたメロドラマ的な長話じゃなくてね。」(p.305)と言われてしまうのですが。
 それに対しルークは

「おばあさんのあてずっぽうは、正確な場合が多いものです。ぼくのミルドレッド叔母はまったく気味が悪いくらい正確ですよ! あなたは叔母さんがいないんですか、トーマス」

同上 p.305

「すべての人が叔母を持つべきです。彼女たちの想像力が理屈よりどれほどまさっているかを、しばしば実証してくれます。A氏が彼女たちの昔雇っていたことのある不誠実な執事と似ていることから、彼は悪党であると見抜くことができるのは、彼女たちをおいてほかにいないでしょう。ほかの人たちなら、A氏のような立派な人格者がいかさま師であるはずがないと、もっともらしくいうでしょうがね。おばあさんのものの見方は、ふしぎなほど正確なものです」

同上 p.305-506

 ルークの「叔母」に対する信頼は厚いようです。


 ところで、この叔母の思考法。
 私はミス・マープルの捜査法を思い出しました。

 以前の記事「その4人物造形で騙す」でもお話ししましたが。
 ミス・マープルのデビュー短編集『火曜クラブ』は晩餐に集まった人たちが自分だけが答えを知っている事件を順番に話し、誰が真相に辿り着くかを競うというお話です。そこで、迷走する皆の解答をよそにいつもぴたりと言い当ててしまうミス・マープル。
 小さな村、セント・メアリー・ミードからほとんど外に出たことのない老婦人の推理法は、事件に出てくる人物から村の誰々を思い出し、その人物との共通点から犯人を見抜くというもの。

 ルークの言う「おばあさんのものの見方」も「A氏が彼女たちの昔雇っていたことのある不誠実な執事と似ていることから、彼は悪党であると見抜く」というものでミス・マープルとほとんど同じと言っていいと思います。

「ふしぎなほど正確な」「おばあさんのものの見方」なのです。

『殺人は容易だ』は1939年に発表されました。
『火曜クラブ』は最初の短編が雑誌に掲載されたのが1928年で、ミス・マープル長編デビュー作『牧師館の殺人』が1930年です。
 その後ミス・マープルの長編二作目『書斎の死体』の発表は1942年なので10年ほど間が空いています。その二作目発表の数年前にこの『殺人は容易だ』が書かれています。
(年代はいずれも『百科事典』を参照しています。)

 つまり『牧師館の殺人』から10年近く、ミス・マープルの物語は書かれずに『殺人は容易だ』が発表され、その数年後に再びミス・マープル長編第二作目の『書斎の死体』が発表されたことになります。

 まるで10年以上も長いミス・マープル空白の時間を埋める架け橋のような、そんなタイミングでラヴィニアやミス・マープルと同じ思考法をする叔母たちの物語が描かれたことは興味深いと思います。

 
 冒頭の列車での会話。
 鋭い観察眼を持つ上品な老婦人と、元警察官で正義感あふれる若者との心の交流は、ミス・マープルとそのアドバイスを受ける若い刑事さんたちのようにも見えて。


 ちなみにラヴィニア・ピンカートン。
 名前を聞いてもしかしたら、と思ったのですが、本書の中でルークがちゃんと指摘していますね。
 ピンカートンと聞いてルークは「それはまた大変似つかわしい名前」(同上p.25)だと言うのですが、ラヴィニアはなんのことかわからず当惑して終わります。
 クリスティーのさりげないユーモアも楽しいです。

 と、物語の冒頭は比較的明るく楽しいのですが。
 でもラヴィニアは早々に亡くなってしまい、主人公ルークが捜査のため村に潜入することになり。
 閉鎖的な村。暗い動機。
 次第にダークな雰囲気が漂ってきます。


2 過剰な動機

 事件の舞台は当時のイギリスの田舎の閉鎖的な村です。
 ルークが捜査のために訪れるのですが、余所者はかなり目立つ村なので、彼はある住人の親戚として入り込み、村の伝承を本にするために来たと偽ります。
 素性と目的を偽るので、それだけで物語は緊張するのですが。
 村に伝わる魔女伝説や黒魔術の儀式なども登場し、次第に「ダークな気配」(『完全攻略』p.388)が漂い出します。

 でも主人公ルークは健全であまり暗い部分がないので、彼自身に緊張感はあまりなく、素敵な女性とロマンスがあったり。
(十二章の章題はまさに「恋のさやあて」ですから。)
 ルークはどうせそのうちバレるだろうと思い、事件を捜査していることを自ら知らせてしまいまったり。
 結果、村人から遠巻きにされたり、地元の居酒屋では話しかけても答えてもらえず。という展開に。

 この物語の怖いところは村の伝説などではなく人の心だと思います。
 ラヴィニアは冒頭の「殺人はとても容易なんですよ──誰にも疑われなければね。」というセリフのあとに「じつは問題の人物は、だれも疑って見ようともしないような人なのです」(同上p.26)と言っていました。
 事件の犯人は「だれも疑って見ようともしない」ほど立派な人らしく、社会階層の上下関係が厳しく閉鎖的な村の人たちの心理が犯人を隠してしまっているようなのです。
 さらに犯人の動機も、ネタバレになってしまうのであまり詳しくは言えませんが、古い考えに基づく差別が要因になっているようで。


 霜月氏は『完全攻略』で、謎解きミステリにおいて動機は重要ではないとおっしゃって「所詮、犯罪発生のエクスキューズにすぎない」(『完全攻略』p.390)とし、にもかかわらず

なのに『殺人は容易だ』の動機は過剰だ。「エクスキューズ」の域を明らかに超えて、読者に居心地の悪い思いをもたらす。そんな暗い「心」が、最後に鎌首をもたげる。これこそが最大のポイント。『殺人は容易だ Marder is Easy』というタイトルからしてサイコパス的であって、これこそが主題だと私は見る。この「恐ろしい歪みを持つ心」をきちんと描くために、クリスティーはリアリズムの度合いをあげたのだろうと。『茶色の男』みたいなハッピーな世界には、こんなダークなものは相応しくないからだ。
※「Marder」と「Easy」はイタリック体、「歪み」にルビが振ってあります。

『アガサ・クリスティー完全攻略〔決定版〕』霜月 蒼著 p.390

 過剰な動機。
 サイコパス的なタイトル。
「恐ろしい歪みを持つ心」を描くためあげられたのリアリズムの度合い。
 それ以前に書かれたノンシリーズ(ポアロやミス・マープルなどの探偵のいない作品群)の明るさとは異なるダークな世界。

 この作品はこの時までにクリスティーが書いた物語とは異なる特異な仄暗さを持っているようです。 

 さらに霜月氏はこの作品が書かれた経緯についても言及され、この後に書かれた『そして誰もいなくなった』(1939年)へと繋げて、「過剰な動機」の考察をされています。
 興味深いお話なので少しだけ紹介しますね。

 この作品の一つ前のノンシリーズ『なぜエヴァンズに頼まなかったか』(1934年)も明るく楽しい作品ですが、その後クリスティーはノンシリーズを五年ほど書いていません。その間、クリスティーはポアロものばかり書いていて、それらは『ABC殺人事件』や『ナイルに死す』などを含むバラエティーに富んだものになっている、として。

そんな「ポアロによる実験」のあと、『殺人は容易だ』は書かれた。──中略──ポアロでは活かせないミステリ仕掛けと、ユーモラスな空気では活かせないテーマ。だからクリスティーは仄かにダークなノンシリーズとして、これを書いた。

同上 p.391

 この後に発表された作品が『そして誰もいなくなった』です。こちらもかなり怖いイメージのある作品ですよね。

 『完全攻略』は『殺人は容易だ』の次の章が『そして誰もいなくなった』になっています。その章で霜月氏は

『そして誰もいなくなった』の犯人像に、直前の『殺人は容易だ』の犯人に端を発して、やがては『親指のうずき』の犯人へつながる系譜をみる。
 謎解きミステリにおいて、殺人の動機は、「謎=犯罪」を発生させる必然性をエクスキューズする以上のものではなかった。あるいは、それ以上の役割を負わなくても許されるものだった。それなのに動機に重点を置くのは、そこに「ミステリを書く」という以上の意志が介在していた証拠だろう。

同上 p.396

 とおっしゃっています。
 詳しくは霜月氏の『完全攻略』を読んでいただくとして。

 「過剰な動機」にはクリスティーの「「ミステリを書く」と言う以上の意志が介在してい」る、という霜月氏の言葉に私は妙に納得しました。
 そして私はそんな「意志」を持ったクリスティーの作品が好きなのだと思いました。

 『殺人は容易だ』という物語はクリスティーの創作の秘密を知る上で興味深い作品となっているようです。


 ちなみに『親指のうずき』はトミーとタペンスシリーズの後期作品です。
 このお話。じわじわとかなり怖いです。
 


3 バトル警視

 犯人の目星をつけ、自分には手に負えないとなったルークはロンドン警視庁を頼ります。依頼に応じて捜査にやってきたのはバトル警視でした。
 彼のことを少しだけお話ししますと。

ルークはバトル警視の風貌に好ましい印象を受けた。大きな赤ら顔に立派な口ひげをたくわえた、温厚な顔立ちの男だった。一目見たときはかならずしも鋭い才気は感じられなかったが、もう一度見直すと、はてと考えさせれれる──なぜなら、バトル警視の目は異様に鋭かったからだ。
 ルークは彼を過小評価するような誤りは犯さなかった。彼はバトルのようなタイプの人々にあったことがあるからだ。そして、彼らが信頼できることや、彼らが必ず成果を上げることを知っていた。この事件の担当者として、これ以上の人材は望めなかっただろう。

『殺人は容易だ』 p.386

  バトル警視の登場は物語の終わりの方の少しだけなのですが。
 彼は他の作品にも数作登場している「ロンドン警視庁の大物警察官」(『百科事典』P.206)です。

けっして才気煥発なタイプではないものの、事件の真相を見抜く直感力は鋭い。

『アガサ・クリスティー百科事典』 p.207

 ポアロやミス・マープルほどの名探偵ではありませんが、なかなか有能な警視さんで、ノンシリーズの『チムニーズ館の秘密』(1925年)に初登場、その後、続編ではないけれど同じ人物たちの物語『七つの時計』(1929年)にも、とクリスティーのかなり早い時期の作品から登場しています。
 それからポアロの『ひらいたトランプ』(1936年)で探偵ポアロや推理小説作家オリヴァ夫人と一緒に犯罪を捜査するひとりとして登場。
 そしてこの『殺人は容易だ』(1939年)では物語の終わりの方でルークを助けてくれます。


 でもバトル警視が一番活躍するのはこの後書かれた『ゼロ時間へ』(1944年)ですね。
 こちらはバトル警視が物語の初めの方から登場し、『ひらいたトランプ』で間近に見たポアロの捜査法を思い出したりして、ポアロファンにとっても楽しい物語です。
 作品自体の評価もかなり高いと思います。

 『ゼロ時間へ』は物語の構造がちょっと特別というか、叙述の仕方が面白くて、私もかなり好きな作品です。
 いずれこの作品の再読感想文も書きたいと思っています。



 さて。
 ちょっと取りとめのない記事になってしまいましたが今回はここまでです。

 次回は
 アガサ・クリスティー再読感想文 
 その23 番外編『殺人は容易だ』後編 二つのドラマ
(2025年8月5日公開予定です。)

 2023年イギリス製作のドラマの後編は8月3日の夜11時NHK総合で放送される予定なので、それに合わせてドラマのお話をするつもりです。

 それともう一つ、以前映像化のお話で取り上げたITVのドラマシリーズ『アガサ・クリスティー ミス・マープル』のお話もしたいと思います。

 このドラマシリーズはノンシリーズの原作にミス・マープルを登場させています。2009年のジュリア・マッケンジー版で『殺人は容易だ』も映像化していて。

 ミス・マープルはこの事件をどう捜査するのか。
 ルークはあのカンバーバッチ?
 バトル警視は出てこない?

 なんてお話もしたいと思っています。
 ちなみに私はリード巡査とミス・マープルの関係が好きです。

 先日放送された2023年版の前編は、冒頭の列車の場面のルークとラヴィニアの関係がすごくよかったですよね。

 

 それと前回予告した『どれから読む?海外文学ブックガイド英語編』初読感想文は次回の後、クリスティーをちょっとお休みして公開する予定です。




#海外文学のススメ

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