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ジョハリの檻 1

【第一章】
田邊秀一は、地方都市にあるホテルのラウンジで、自分が成し遂げた仕事の成果を肴に、美酒を堪能していた。

ブーブブ、ブーブブ。

スーツの内ポケットに入れてあったスマホが会社からの着信を知らせる。

「全く…。ようやく大きな仕事を終わらせたというのに…」

秀一は、グラスをテーブルに置くと、電話を取り出し通話を始めた。

「ああ、君か。今日、大きな仕事を一つ終えたから、ちょうどホテルのラウンジで一杯やってたところだよ。……そう、このまま連休はこっちで過ごそうと思ってる。……それ、わざわざ僕がやらなくても、君でもできるだろ?僕ばかりに頼ってると、君の成長に繋がらないよ。…うん、うん……もしどうしても無理ならまた連絡をちょうだい。…うん、それじゃ頑張って」

秀一は、電話を切るとグラスに残っていたお酒をぐいっと飲み干し、バーテンに新たなお酒を注文する。

「申し訳ない。少しだけ席を外すけど、すぐまた戻ってくるから、同じの作ったら、ここに置いておいてくれるかい?」

「かしこまりました」

バーテンに礼をいうと、秀一はくるりと振り返り、席を立とうとした。

「キャッ!」

その拍子にちょうど後ろを通ろうとしたウエイトレスにぶつかり、彼女が持っていたグラスの水が、秀一のスーツを濡らした。

「す、すみません」

ウエイトレスは、咄嗟に濡れたスーツを拭こうと手を伸ばす。

「チッ」

舌打ちと共に、秀一は鋭く冷たい顔で、ウエイトレスを見下ろす。
ウエイトレスは、その刺すような視線に、ビクッと体を震わせ、その場で固まってしまった。

その瞬間、秀一の表情はスッと溶け、穏やかな表情を彼女に向けた。

「君は、新人さんなのかな?こんな有名ホテルでウエイトレスをするには、もっともっとお客様の動きに注意を向けないといけないね。今日は、ぶつかった相手が僕で良かった。そうじゃなければ、君はクビになるところだったよ」

「ク、クビ…」

ウエイトレスは、秀一の言葉に明らかに怯えた表情で、下を向いた。

「まぁ、これからはもっと気をつけるんだよ」

秀一は、彼女の肩をポンポンと叩き、用を足しにトイレへと向かう。

「全く…。さっきの電話といい、あのウエイトレスといい、一体なんだって……」

秀一は、そこまで言うと、ハッとしたようにあたりを見回し、ゴホンと咳払いをすると、そそくさとラウンジの席へと戻った。

「先程は、うちのものが失礼しました。こちらは、サービスとさせていただきます」

席に座ると、マスターが先程注文したグラスを秀一の前に、スッと出した。

「いや、そんなつもりじゃなかったんだけど…。悪いね、ありがとう」

秀一は、にこやかな顔で、グラスを受け取り、嬉しそうにそれに口を付けた。

「あの、隣よろしいですか?」

(今度は誰だよ)

なかなかゆっくりとお酒を楽しむことができない事に、秀一は少しうんざりしながら、声の方を振り返る。
そこには、白髪を綺麗に整え、一目でわかる高級な衣服に身を包んだ上品そうな老齢な男性が、にこやかな表情を立っていた。

「あ、ど、どうぞ」

超一流とは言い難い、このホテルのラウンジには、少し似つかわしくない佇まいのその老人に、少し気圧されながらも、秀一は座りやすいように、隣の椅子を引いた。

「これは、ありがとうございます」

秀一の所作に、老人は嬉しそうに言葉をかける。

「先程の様子も伺わせていただきました」

老人は、秀一の隣に座ると、バーテンに「同じものを」と注文し、秀一に向き直る。

「あなたの歳で、あんな所作ができる人は、この時代とても稀有な事です。それで、あなたに興味が惹かれましてね。つい、お声をかけてしまったわけです。あ、私は一条光太郎と申します」

一条は、名刺ではなく、届いたばかりのグラスを秀一にそっと差し出す。

「僕は、田邊秀一です」

秀一は、一条の華麗な所作につられ、自分のグラスを差し出されたグラスにそっと当てると、「カンパイ」と言って、新たな出会いを祝った。

***
二人はそれからしばらく、当たり障りのない会話を交わした。

一条は、この地方都市の文化や歴史に詳しく、その知識の深さに秀一は感心した。会話の中で、一条は自らの過去について、亡くなった奥さんとの思い出や、かつて大学で心理学を教えていたことを、静かに語った。
そして、郊外に建つ広大な洋館を、今は一人で維持していることも。

「しかし、田邊さん。先程のあなたの所作。あれは、理知的な人間にしかできない」

「理知的だなんて、そんな。僕はミスをしてしまった彼女をフォローしたまでで」

秀一は、謙遜しながらも、大学で教鞭に立っていたという一条に褒められたことに、ほんのりとした快感を覚えた。

「謙遜などおよしなさい。あなたは、自分自身を、極めて高レベルで統制していらっしゃる」

一条はグラスを置き、秀一の顔をまっすぐに見つめた。その眼差しは、穏やかな老紳士というよりも、精密機械の内部を覗き込むような、剥き出しの知性を感じさせた。
一条のベタ褒めに、こそばゆさを感じ秀一はサラリと話題を変えた。

「ところで、一条さんは引退した後、何をしていらっしゃるんですか?」

「今は、趣味で“人間の精神の深層”を探る興味深い実験を続けているのですが、どうにも行き詰まってましてね。そこで、田邊さんのような、自己を完全に確立された方と、じっくりと話をしてみたくて、こうしてお時間をいただいているわけです」

一条は、そう言いながら、懐から一枚の名刺を取り出し、それをテーブルに滑らせた。名刺には、『心理学名誉教授』と肩書が書かれている。
秀一は、差し出された名刺を受け取ろうと僅かに手を動かした。その瞬間、一条はすぐにそれを引っ込めた。

「すみません。名誉教授、などという堅苦しい肩書は不要ですね。ただの一個人の探求です」

彼は、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「いやぁ、それにしてもあなたと話していると、実に刺激をもらえる。願わくば連休の間、田邊さんほどの優秀な方と、夜通し酒を酌み交わしながら、人間の心の秘密を語り明かせたら、どんなに素晴らしいか」

一条は、そう言うとグラスをクイッと飲む。

「もちろん、貴重なあなたの時間を使わせていただくのだから、そうなったときには謝礼は用意いたします。何よりあなたと過ごすことで、『無自覚な優位性』について、より深く理解できるのではないかと、期待してしまいます」

その言葉は、秀一の「自分は特別な存在だ」という無意識の欲求と、「優秀な研究者に認められたい」という虚栄心を、的確に刺激した。

「『無自覚な優位性』、ですか。それは面白そうですね。では、僭越ながら、お伺いさせていただきます」

「いいんですか?」

「もちろん、是非。あなたのような博識な人と休みを共にできるとは、私も願ったりです」

秀一は、微かに口角を上げると、一条に向かって、自らのグラスをそっと掲げた。


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