「~やった方が良いと思うのだけど」思考で考えて、心で感じることを見失う
先日の緊急入院から、時間が経って、今、少しずつ、
「自分の人生の方向性、これで合っているのかな?」と、自分自身の生き方そのものを見つめ直す時間に当てています。
そうした中、時には人と話して、人からフィードバックをもらうことで氣づくことがあります。
優しいことに、話す相手も、
「つっちーは、何をやりたいの?」と聞いてくれる。
「~した方が良いと思うんだよね」と、返している私。
それを聞いた相手が、適切なフィードバックをくれた。
「ねぇ、つっちー、『○○がやりたい』じゃなくて、『~した方が良い』って答えてくれるけど、心じゃなくて頭で考えてしまってない?」
それを聞いて、私も、ハッとした。
私としては、
「心が感じること」を大切にしてきたつもりだ。
でも、知らず知らずのうちに、「頭で考えてしまっている」みたい。
別の人にも言われた。
「頭で考えすぎだよ。まず、身体を動かしたら?」
私の周りの人たちは、ちゃんと「心で感じること」を大切に思っている人ばかりで、本当にありがたい。
今回は、私の氣づきのシェアと、生き方のヒントとなることを書いていけたらと思います。
◆心で感じること・頭で考えること
頭で考えること・・・これは、【正解を探そうとする生き方】になってしまっている。
人生って、外に正解が転がっているわけではない。
でも、私たちは、外界からの大きな声に、いつも揺さぶられる。
最初は、親から「~~しなさい」と言われて育つ。
次は、学校教育で、正解を答えるよう教育されていく。
そして、社会に出ても、
「これが、正しい生き方」と言わんばかりの情報が溢れている。
でも、どんなに外側の世界を早く追いかけようとしても、自分自身の心の平穏には繋がらない。
なぜなら、「心は、感じること」だから。
心はいくら考えたって、しっくりこない。
今、自分がどう感じているのか?
それは、心とじっくり対話してみるしかない。
でも、一人だと、思考の癖のループが邪魔して、同じことをグルグル考えているだけということもある。
そんな時には、人と話すことでフィードバックをもらう。
あるいは、コーチング技術やカウンセリング技術を持っている人に話を聞いてもらって、自分の心と向き合う体験をする。
そうすることによって、思考の迷子・迷宮から抜け出すことができる。
心理学でも、脳は騙されるし、騙すことができる。
でも、心は嘘をつけない。
どんなに思考を完璧にしようと思っても、人には、「心」という不思議な機能がある。
人にドキドキしたり、ズキッと痛むことがあるのも、心が動いているから。
理屈では説明しきれない、【感情・感動】も、全部、心の働き。
今の世の中では、思考>感情に持っていこうとするきらいがあるが、実は、思考と感情の割合、言い換えると、理性と感性の割合は、1:24である。
つまり、
「頭ではわかっているけれど・・・」が、どの人にも起こりうるのは、感情の方が24倍も強いから。
これを知っておかないと、どんなに思考で物事をコントロールしようとしても不可能に近いということ。
それでも、「~した方が良いと思う」なんて、思考優位になってしまう。
感じることを忘れてしまう。
そんな恐ろしさを、友人を通じて氣づかされた訳です。
私も、まだまだ、思考と心のことがブレることがあります。反省。
◆感じることを封じ込めない
感じるということは、すなわち【感情】があるということ。
感情には、当然、喜怒哀楽が含まれる。
人は、この中で、【怒り】を特に除外しようとしがちだが、1つの感情だけを取り除けるほど、器用ではない。
怒りを感じまいとすればするほど、他の感情を感じる力も失われていく。
だから、感じることを封じ込めるのはおススメしない。
と言っても、赤ちゃんのように泣きわめけ、怒り散らせということではない。
それは、文化的にも文明的にも知的な人がやることではない。
少なくとも、私のこの記事を読むような人は、感情の放置プレイをするようなことはしないだろう。
では、どうするのか?
「怒りの感情のタネと向き合う」という感じでしょうか。
そのタネは、どんな怒りを感じていて、その背後には、第1感情とも言うべき、「悲しさ・寂しさ・切なさ」などを探っていくこと。
「本当はどうあったら良かった?」
「何が傷ついて、悲しさが怒りになってしまったの?」
と、自分に問いかけていく。
慣れないうちは、カウンセラーさんなどに、声を掛けてもらうと、イメージしやすいかもしれない。
こういうタネの状態の時にやっていくと、誰かに八つ当たりするほど、怒りを爆発させることも減っていく。
ま、年齢的に怒る元氣も無くなるとは言うけれど(苦笑)
こうやって、怒りとの向き合い方がわかれば、他の感情も同じように扱えるし、自然と喜びや楽しさを感じる力も高まっていく。
鬱状態というのは、喜怒哀楽が出しにくくなってしまっている状態。
鬱病は、それが病的な状況になってしまっていること(社会的活動という意味で)
そうならないためにも、【感じること】を封じ込めないで、しっかりと味わいましょう。
中には、味わいきったら、2度とやってくることはないという、話もあります。
いずれにしても、生きているうちの、【学び、氣づき】のときですね。
◆頭で考えすぎると
もっともらしく、正解に近いことをやれているように感じるかもしれないけれど、人生って、そもそも、誰かに与えらえた正解をトレース(なぞる)ために生きているんだっけ?
そもそも、人生の今を【味わう】こと。
良い事も悪いことも。
全部、味わいたくて、私たちは生まれてきた。
例えば、むかつく人がいたとしても、その【むかつく!】を味わいたくて、私たちは、生まれてきた・生きてきた訳です。
むかつく感情・感覚を味わう。その体験をしたくて来たわけです。
それが、氣持ちいいか、悪いかは別としてね(苦笑)
もちろん、思考を働かせるのは、大事ですよ。
そうでなければ、ただの動物というか、人間として生きている意味がないですからね。
人によっては、お金があることで心が満たされると考える人もいるかもしれません。
でも、一説によると、お金を持っていても、不安・不幸感を持っている人はいますし、お金を持っていることで、安心・幸福感を感じる人もいます。
それでも、世の中には、お金のある人・ない人、いろんな人がいます。
また、社会的地位とか、名誉、影響力(インフルエンサー)は、思考活動によって得られる部分も大きいでしょう。
でも、それすら、外側の結果でしかないんですよね。
頭で考えすぎることで、心を見失うようなこと、往々にしてあります。
あとは、自分で自分の人生のモノサシを、しっかり持てれば良いけれど、私たちは、他人からのモノサシをたくさん与えられて生きてきた。
「やりたいことが見つからない」というのも、
「やりたいことがありすぎる」というのも、
これ、実は両方とも、他人のモノサシに振り回されている発言なんですね。
自分の人生のモノサシがしっかりと決まれば、
「やりたいことも、やれることもそんなに多くはない」ということがわかってくる。
若ければ若いほど、将来の可能性を感じて、夢を大きく描くことができるけれど、50代60代と年齢を重ねていくにつれ、
「あと、〇年で、何がどこまでできるだろう?」という思いも出てくるのではないか?と思うのです。
「もちろん、死ぬまで、やりたいことを追いかけるの!」という、アクティブに思える人は良いけれど、それには少なくとも、
【やりたいこと探しを終わらせる】必要があると思っています。
そうでないと、ちょっとした刺激・他者からの情報によって、
「あれもやりたい、これもやりたい」と振り回されてしまいます。
それが、やりたいことの軸が、自分軸ではなく他人軸になってしまっている、分かりやすい例です。
これこそ、心ではなく、頭で考えすぎることにも繋がります。
過去に紹介したことのある、「マスターの教え」の本でも、内なる心と、外なる心の考え方があり、外なる心は、外からの刺激に反応する心と言われています。
でも、現代では、1日で、江戸時代の1年分、平安時代の一生分の情報が入ってくると言われています。
それらすべてに打ち返しているエネルギーは、人には不可能です。
内なる心で、明確なビジョン(やりたいこと)を描き、それに向かうパワーを使うために、外なる心を使うとされています。
別の表現を付け加えるのなら、「内なる心は、自分軸」「外なる心は、他人軸」なのかもしれません。
私たちの人生は、他人軸で生きているほど、暇ではありません。
だから、どれだけ自分軸のやりたいこと(内なる心)のビジョンを明確にするか?大事なのかもしれません。
と、こうやって、文章に書いている私ですら、今、内なる心のビジョンを必死に固めようとしているところです。
むしろ、緊急入院したことで、【立ち止まる】ことを、選択している私がいます。
それは、本氣で、残りの人生を良くしたいから。
もしも、あなたも、一緒によくしたいのであれば、一緒にやっていきましょう。
あなたの人生のヒントになれば、幸いです。
あなたの人生が良くなるよう、心から応援しています。
今回も記事をお読みいただきありがとうございました。
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