【2分で読める短編小説】ラクダの鼻歌
二月一日、今日こそは死のう。
深夜のコンビニのバックヤードで、男は日用品の在庫を数えながら死に方を考えていた。できれば静かに、誰にも迷惑をかけずにこの世から去りたい。
ふと、机の上に置いてある卓上カレンダーが目に留まる。
カレンダーをめくると、二月のページには星空に照らされた鳥取砂丘が写っていた。風紋が広がる砂丘の下には一言添えてある。
–––砂丘があなたの心を癒します–––
なんてことないフレーズが、今日の男には刺さった。どんなものか試してやろうじゃないか。どうせ死ぬなら、この景色を見てからでもいい。夜勤終わりに行けば夜明け前には着くだろう。
男は仕事終わりに車を走らせた。
車内ではZARDの「君に会いたくなったら…」がリピート再生で流れている。
妻との思い出の曲だ。よくこの曲を一緒に口ずさみながらドライブをしていた。今では、ひとりぼっちでいる現実から逃げるためだけに聞いている。
砂丘にたどり着いたときには、空は少しずつ明るくなりはじめていた。
人ひとりいない砂丘は、カレンダーの写真で見るよりも大きい。それに海の匂いや風の音、肌をさすような寒さが壮大さをいっそう際立たせていた。海から吹き荒れる風をかき分けながら、砂に足が埋もれていく感触を確かめるように、一歩一歩前にすすむ。
やがて、そびえたつ砂丘の上から太陽が登りはじめた。それまで暗闇に隠れていた風紋が顔を出し、太陽の光を浴びた砂丘が金色に輝いて見える。
なかなかいい景色じゃないか、最後に見る景色にふさわしい。
景色に見入っていると、視線の先に黒い影が現れた。太陽の光が眩しくて目を細めると、輪郭だけがくっきりと浮かび上がった。
「ラクダだ…」
音にもならない小さな声でつぶやいた。
一頭のラクダが砂丘の頂上にいて、ゆっくりと歩いている。
なぜこんなところにいるのだろう。砂丘の近くに駱駝屋という店があった気がするが、そんなことはどうでもいい。気がつくとラクダの姿に見惚れていた。
まるで鼻歌を歌っているかのように、ラクダはのんびりと楽しそうに歩いている。
広大な砂丘に一頭、ぽつりと立っていて、どこか孤独に見えた。でもその孤独からは悲壮感はなく、自由で気ままで、自分とはまるで違っていた。
自分もラクダのように自由に鼻歌を歌えるようなご機嫌な人生を、これまで歩んできただろうか。いや、これから歩めるだろうか。死のうと思っていたのに、希望を少し持ってしまう。
やがてラクダは砂丘の向こう側に消えていった。
男はラクダの姿を追いかけるように斜面を登っていく。頂上にたどり着いた時、そこにラクダの姿はなかった。
どこへ行ったのだろうか–––男はしばらく風の中に立ち尽くしていた。
男は家に帰り、ひとり寂しく昨日の惣菜の残りものを食べていた。
妻が亡くなって今日で九年が経つ。妻が死んだ日から毎日死のうと思っていた。命日が来るたびに、一人でいるのが怖くなって早く妻に会いたいと願った。
男はパソコンに保存してあるホームビデオを再生していた。妻が亡くなる前は趣味でカメラを回していた。被写体はいつも妻で、画面越しに映る妻の姿が好きだった。妻を失ってから、ホームビデオを見てみようと何度も画面の前に座ったが、再生ボタンをいつも押せずにいた。妻との思い出が鮮明によみがえり、悲しみに押しつぶされてしまいそうだからだ。でも今日は不思議と見なきゃいけないと、強く思った。
画面にはキッチンに立っている妻の姿があった。体を左右に動かしリズムをとりながら、鼻歌を歌っている。機嫌がいい時の癖だった。
カメラを向けながら男は言う。
「美味しそうな匂いがしますね」
妻はこちらに笑顔を向けて返す。
「今日のご飯はなんでしょうか」
「なんだろう、オムライスかな」
ふざけた調子で答えると、妻は少し得意げにこう答えた。
「チキンカレーだよ」
語尾にハートマークが付いているかのようなあたたかな声だった。
妻の作る料理はとても美味しかったが、その中でもチキンカレーは特別だった。
画面が切り替わり、妻がカレーをほおばっている。
「撮ってないで早く食べなよ」
「おいしそうに食べるなっちゃんがかわいくてさ」
ふたりで笑い合う。そこでビデオは終わった。
妻の声を久々に聞いた。忘れかけていた記憶が声を通して蘇ってくる。
明日はチキンカレーを作ってみよう。妻の味を再現してみたい。
ご機嫌に生きなきゃ、きっと妻に怒られる。悲しい時こそ笑っていよう。
ふと、カレンダーの一言を思い出した。
–––砂丘があなたの心を癒します–––
悔しいけど、その通りだった。
消えたラクダは画面の中にいたのかもしれない。
少し仮眠をとった。夕方から、また夜勤が始まる。
仕事場へ向かう車内では、男の鼻歌が響いていた。
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