紫陽花とお滝さん
先週の月曜日、日本は過去最も早い梅雨明けを迎えたそうだ。
梅雨といえば思い出す花がある。
それが紫陽花だ。
紫陽花にまつわるお話を、ドイツに来てからある年配の日本人男性からお伺いした。
ドイツに関するお話の一つとして、書き残しておきたい。
紫陽花は日本原産の植物だが、ドイツやヨーロッパでも頻繁に見かける。
ヨーロッパで品種改良された西洋紫陽花が、日本に逆輸入されたという歴史があるそうだ。
地植えの紫陽花は日本と同じ時期に咲くが、鉢植えはもっと長い時期、冬であってもお花屋さんに並べられている。
紫陽花を、ここヨーロッパで見ることができる背景には、一つの熱く、そして悲しい恋物語が隠されているという。
日本が鎖国をしていた時代、交易が許されていた国、それがオランダと中国だ。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト Philipp Franz Balthasar von Siebold
彼は、ドイツの街ヴュルツブルクで生まれたドイツ人。
医師でありながらも、植物学に精通していたという。
そして、オランダ人と偽り、1823年に医師として長崎へやって来た。
彼は、多くの学問を日本人に伝えただけでなく、また日本の情報を多く収集していたことでも知られている。
彼は、1828年にオランダへ帰国する際に、日本地図を国外へ持ち出そうとしたことが発覚。
国外追放の身となってしまった。
これが、シーボルト事件だ。
シーボルトは国外追放になったが、帰国の際には日本にまつわる資料をたくさん持ち帰った。
その中には日本原産の植物もあり、紫陽花もその一つだった。
彼はオランダのライデンという街に『日本博物館』を作り、ヨーロッパで日本学の祖として名声を得る。
そのため、今もライデン大学は、日本を学びたいと思うかたが多く集まることで知られている。
私の知り合いもライデン大学に通っていたが、日本やアジアについて興味を持つ学生が多かったと教えてくれた。
さて、日本に滞在した5年の間に、彼には日本人妻があった。
彼女の名前は、楠本滝。
お滝さんと呼ばれ、元々は商家の娘だったが、家業が傾き遊女になったという。
そして彼は、お滝さんを非常に愛していたと伝えられている。
二人の間には、女児が生まれ、楠本イネと名付けられた。
楠本イネは、日本最初の産科医として西洋医学を学んだ事で、後に名を残すことになる。
彼がオランダに戻り、日本の植物を紹介する際、紫陽花にこう名付けたのだそうだ。
Hydrangea otakusa Siebold et Zuccarini
このotakusaという部分は、最愛の妻、お滝さんの名前を付けたのだと推測されている。
お滝さん⇒オタキサン⇒オタクサ
(後に、この名前は正式に採用されることはなかった)
シーボルトは、後にドイツ人女性と結婚している。
シーボルトは、1859年日本に再入国をし、お滝さんと娘イネとの再会も果たした。
愛する人を残したまま、欧州に戻らねばならなかったシーボルト。
愛する人の名前を植物につけたほど、その思いは強かったのだと思う。
鎖国をしている中、一人の外国人を愛し、つらい別れをせねばならなかったお滝さん。
そして、父不在の生活をしていた娘、イネさん。
たくさんの人の愛と、そして悲しみが浮かび上がってくる。
私は元々、紫陽花が好きだった。
でも、このお話を聞いてからは、もっと好きになった。
土の酸度で色を変える紫陽花。
二人の恋は激しく燃え上がり、その色はピンク色を越え、赤い色をしていたのではないだろうか。
しかし、二人の仲は引き裂かれ、その悲しみが水色で表現されているかのように感じてしまう。
ずっと長い間、淡い水色の紫陽花が好きだった。
梅雨の季節に合う色だと思っていたからだ。
でも、このお話を聞いてからは、温かいピンク色の紫陽花も好きになった。
以下3枚は、紫陽花寺とも呼ばれる京都の三室戸寺を訪れた時のもの。
境内には、約一万株もの紫陽花が植えられており、訪れた時には満開だった。
こんなにたくさんの種類があることを、今まで知らなかった。

ハートの紫陽花を写真に残している人を見かけ、私達もそんな紫陽花がないかどうか探しながら歩いた。
添付の2枚だけ、見つける事ができた。


紫陽花のドイツ語は、Hortensieという。
でも、ドイツの街角で紫陽花を見るたびに、私はつい『こんにちは、お滝さん』と声を掛けたくなる。
日本原産の紫陽花が、海外の土地で花を咲かせているのを見ると、ほんの少しだけ自分に似ていると思う。
私も、この与えられた場所で、私らしい花を精いっぱい咲かせたい。
