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曖昧なものを曖昧なまま渡していた、僕の怠慢について

何を言っているかわからないけど

たまに、こんなことを言われます。

「ハモさん、基本何言っているかわからないんですが、ハモさんが話しているのを聞いていると、なんかそうなのかなって感じてくるんですよね」

褒められているのか、怒られているのか、いまだによくわからない。

でも、たぶんこれは僕の仕事のかなり核心に近い言葉でもあります。

僕はよく、まだ言葉になりきっていないものを話します。
感性。
都市の気配。
アンフォルム。
まちの情緒。
身体で受け取る価値。
関係の立ち上がり。

こうやって並べると、まあまあ怪しい。

でも話している場では、なんとなく伝わることがある。
相手の目が少し変わる。
「たしかに、そうかもしれないですね」と言ってもらえる。

その瞬間だけを見ると、届いているように思える。

でも、この1年で少しわかったことがあります。

僕が話すと伝わる。
でも、その人が社内に持ち帰ると消えてしまう。

社内に持ち帰ると、言葉がほどける


これは企業の人と話しているときによく起きました。

FabCafe Osakaに興味を持ってくれる。
その場では面白がってくれる。
空間のことも、蒸留器のことも、アンフォルムのことも、感性都市論のことも、なんとなく受け取ってくれる。

でも、その人が会社に戻る。

上司に話す。
チームに話す。
予算の話になる。
目的の話になる。
「で、何に使えるの?」という問いが出る。

その瞬間に、さっきまであった何かがほどけていく。

これは相手が悪いわけではない。
むしろ、その人はちゃんと持ち帰ろうとしてくれている。

でも僕が渡したものは、持ち帰るには少し柔らかすぎたのだと思う。

その場で僕が話しているときは、声の温度や身振りや空間の空気も一緒に伝わる。
相手は、僕の言葉そのものだけではなく、僕の身体ごと受け取っている。

でも社内に戻ると、僕はいない。
FabCafe Osakaの空間もない。
蒸留器の匂いもない。
なんとなく面白かった感じだけが残る。

そして、その「なんとなく」は会議室では弱い。

感性が伝わらなかったのではない。
僕が、持ち帰れる形にしていなかった。

たぶん、ここが僕の怠慢だった。

曖昧なものを受け取れる身体に甘えていた

僕は現代アートをやってきたこともあって、曖昧なものを曖昧なまま受け取ることにあまり抵抗がありません。

説明できないものがある。
意味がすぐに決まらないものがある。
よくわからないけれど残るものがある。

そういう状態を、けっこう当たり前に受け入れてきました。

むしろ、すぐにわかりすぎるものの方が少し怖い。
すぐに目的化されるもの。
すぐに効果測定されるもの。
すぐに「つまりこういうことですね」と回収されるもの。

もちろん、それが必要な場面もあります。
でも、すぐにわかることだけで都市や文化や人の感性を扱うと、かなり大事なものがこぼれる。

そう思ってきました。

ただ、その感覚に僕は少し甘えていたのかもしれない。

曖昧なものを曖昧なまま受け取れる人同士なら、それでいい。
「なんかあるよね」で会話が続く。
沈黙も共有できる。
言葉にならない部分を、それぞれが抱えたまま帰れる。

でも企業の中で何かを動かす人には、その先がある。

仲間に説明しなければいけない。
上司に通さなければいけない。
予算を組まなければいけない。
成果を問われる。
関係者に、なぜそれをやるのかを伝えなければいけない。

曖昧さを抱えたまま動ける人もいる。
でも全員がそうではない。

僕は、そこをちゃんと見ていなかったのだと思う。

感性は、曖昧なまま渡してはいけない

これは少し誤解されるかもしれないけれど、感性をわかりやすく薄めたいわけではありません。

「感性」を便利なビジネスワードにしたいわけでもない。
「なんかいい」を全部KPIに変換したいわけでもない。

むしろ逆です。

曖昧なものをちゃんと曖昧なまま大事にするためには、持ち帰れる形が必要になる。

その形がないと、曖昧さは消える。
会議室で消える。
資料の中で消える。
「おもしろそうですね」で止まる。
「また何かご一緒できれば」で終わる。

感性が弱いのではない。
感性を扱うための器が弱い。

僕がSensibility Urbanism(感性都市論)として整理しようとしていることも、たぶんそこにあります。都市の価値を空間供給や人流だけではなく、人が経験する質から捉え直し、身体感覚や記憶や滞在体験のような見えにくい価値を設計や運営へ接続していく考え方です。

ただ、これも言葉として置いただけではまだ遠い。

感性都市論。
まち感性指標。
都市体験設計。

言葉は必要です。
でも言葉だけではまだ、持ち帰れない。

感性を持ち帰るには、体験が必要で、比喩が必要で、用途が必要で、社内で話せる短い言葉が必要で、たぶん少しの余白も必要になる。

この「少しの余白」が難しい。

余白がなさすぎると、感性はただの施策になる。
余白がありすぎると、社内で消える。

その間を設計しないといけない。

FabCafe Osakaは、持ち帰れる感性をつくる場所になる

FabCafe Osakaの1年を振り返った公式記事では、「言葉だけでは届かなかった。でも、食べてもらったら届いた。」というタイトルで、この1年間に試してきたことを書きました。

でも今あらためて考えると、あれは単に「食べると伝わる」という話ではなかったのだと思います。

食べること。
飲むこと。
歩くこと。
香ること。
誰かと話すこと。

そういう体験を通すことで、感性は少しだけ持ち帰れる形になる。

言葉だけで持ち帰るのは難しい。
でも味の記憶なら残る。
歩いた道の感じなら残る。
飲みものの香りなら残る。
隣にいた人との会話なら残る。

それは、資料より弱いようでいて、実は強いことがある。

まち感性ラボも、その延長にあります。FabCafe Osakaを拠点にしたまち感性ラボは、「なんかいい」を観察できる知にするため、都市の感性的価値を観察し、言語化し、共有し、設計へ返す実践プログラムとして紹介されています。

https://fabcafe.com/jp/labs/osaka/machi-sensibility-lab

でも僕は、これをただのプログラム紹介にはしたくない。

もっと手前にあるのは、自分への反省です。

感性を扱うなら、感性を感じてもらうだけでは足りない。
その人が誰かに話せるところまで、ちゃんと考えないといけない。

持ち帰れない感性は、その場で光って終わる。

それはそれで美しいけれど、都市や企業やまちづくりの中で動かすには、もう少し別の努力がいる。


まだ、言葉にする努力が足りていなかった

僕はたぶん、言葉にできないものを大事にしているふりをしながら、言葉にする努力を少し避けていたところがあります。

言葉にした瞬間に、こぼれるものがある。
それは本当です。

でも、こぼれるのが怖いからと言って、渡す形をつくらなくていいわけではない。

ここが、今回いちばん書きたかったことです。

曖昧なものを曖昧なまま抱える力。
それはとても大事です。

でも、曖昧なものを誰かが持ち帰れる形にする力。
たぶん僕には、まだそっちの努力が足りていなかった。

「ハモさんが話すと、なんかそうなのかなって思うんですよね」

その言葉に、僕は少し甘えていた。

僕が話せば伝わる。
僕がいれば場が動く。
僕が説明すれば、なんとなく温度が立ち上がる。

でも、それでは足りない。

僕がいなくても、誰かが話せるようにする。
FabCafe Osakaに来た人が、自分の会社に戻っても言葉を失わないようにする。
感性を、消えない形で手渡す。

それができてはじめて、感性都市論は思想ではなく実装に近づくのだと思う。

まだうまくできているとは言えない。
たぶんこれからも、僕は何を言っているかわからないと言われると思う。

それはそれで、まあ仕方ない(少しは直した方がいい)。

でも、わからないまま終わらせないための器はつくれる。
なんかそうかも、で終わらせず、誰かが持ち帰って話せる形にできる。

2年目のFabCafe Osakaでは、そこに向き合いたい。

感性を説明するのではなく、感性を持ち帰れるようにする。

たぶんそれが、僕にとっての次の宿題です。


FabCafe Osakaの1年の実践については、ロフトワーク公式の記事にもまとめています。
ここに書いた「社内に持ち帰ると消えてしまう感性」が、実際にどんな体験や取り組みを通じて少しずつ形になっていったのか。
よければ、こちらも読んでみてください。

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