見出し画像

私小説【演劇しかできない市田くん】

※本作品は、note創作大賞2026への応募作品です

【これは、演劇しかできなかった男と、
その男を6年見届けた女の記録である。】

 市田くん、演劇が出来るってそんなにえらいことですか。
誰かを見下す理由になるほど。
医師や教師のように国が存在を証明してくれる?

「安田さん、イチダ様という人からお電話入ってます」
「イチダ?」
「ええ、安田さんにつないでほしい、多分わかるからって。でも、安田って結婚前の苗字でしたよね。断りましょうか」
「あー、いえ、取ります。
………お電話変わりました。安藤です。」

 市田くんと、私。
市田くんと私は、一緒に住んでいた。
仕事以外の時間は基本、一緒にいた。
市田くんは私の彼氏ではない。けれど幼馴染ではある。市田くんは私があまり好きではない。けれど、私が借りているマンションに一緒に住んでいた。
好き合って、一緒に生活をしていたわけではない。
同棲しているのには理由があった。

 市田くんは舞台役者だ。アルバイトをしながら演劇活動をしている。
市田くんは台本を書く作家でもある。今のところ収益らしい収益は入っていない。
最終的な目標は「とにかく有名になる」
市田くんはがむしゃらに頑張っている。

市田くんは味のある姿をしている。すらっと伸びた身長は180㎝もあり、痩せていて頬がこけて、病んで見えるところが刺さる人には「刺さる」だろう。
大学に入って演劇を始めた。きっかけは勧誘。まだ少年が残る市田くんは演劇で主役にでもなればモテるかもしれないと思ったのだ。実際のところサークルでは身長の高さが裏目に出て裏方に回された。その扱いに嫌気が差して、個人で劇団を立ち上げ、公演を行った。初めてやったのは一人芝居。公演は、初公演ながら色んな層に刺さる作品となった。市田くんが特別であると信じるきっかけだった。
市田くんは演劇ができる。演劇をやってる人は、意外といない。そして感動を呼ぶ作品を作れる人はことさら少ない。
「役者である」というのは、舞台上に立っていい位には器量が保証されていて、立派であるという証拠でもあった。どんな資格よりも演劇ができる人間であることを証明する名称「役者」は素晴らしいもの。

 市田くんは他の団体に客演としても呼ばれるが自分の劇団で公演を打つときは市田くんが台本を書く。市田くんの演技はどんな時でも韓国ドラマを思わせるくらい情熱的で、胸焼けしそう。現実にそんな愛情を向けられている人はかなり少ないので、刺さるのだ。

市田くんはなんとか大学を卒業したが、就活は上手くいかなかった。台本はタイピングするので良かったが、会社に出す書類はそういうわけにもいかない。市田くんは字が下手だった。痩せすぎているからかスーツもあまり似合わない。
実家にそのまま住んで、やや遠くにある印刷工場でアルバイトを始めた。今年で八年目。正社員登用の話は今のところ出たことがない。

 市田くんはどうしても欲しいものがあった。自分を愛してくれる「彼女」の存在だ。
喉から手が出るほど欲しくても、今日まで彼女らしい彼女がいたことない。市田くんは結構面喰いだ。自分が痩せているからスタイルの良い子が好きでもある。市田くんが務める体力勝負な印刷工場にそんな市田くん好みの可愛い女の子なんていない。地味でメガネでぽっちゃりしていて市田くんより年下の女の子が居たらしいが「タイプじゃない」と眼中に入りすらしない。あとは力強いパートのおばちゃん達。

市田くんは考えた。合法で女の人と触れ合える場に行けばいい。夜のお店だ。そこのお姉さんにアプローチすればいい。夜のお姉さんは基本綺麗で自分好みだから。そんな感じでアプローチをかけた。シャンパンを降ろした。連絡先だって交換した。が、その後送られてくるライン全てが結果、翻訳してみると「お店に来て金を落として」
若く、金がない市田くんは怒り狂った。
「こいつは俺という男を金としか思っていないのか!」
全くその通りだ。夜のお店ってそういうところだ。お金払って、擬似的に楽しむところだ。市田くんはそれを知りたくなかった。夜のネオン街には自分に相応しい素敵な運命が転がっているとそう信じていた。

 しかしながら市田くんは舞台役者。作品で人を惹きつけることを許された人間だ。ファンも付いた。
一度うっかりファンレターを開けてしまい、かなり怒られたが、市田くんは結構立派な作品を作っているらしく感心した。だが市田くんはファンがついて嬉しいとかそんなことは思わない。どうやったらこいつらを糧に有名になれるか、こいつらは有名になるにあたってどう活用すべきかを考える。ついでにこの中から顔の良い子は彼女にしてやっても良いかな、と思ったりも。
SNSで感想を聞かせて欲しいとD Mを送る。感想なんて本当のところどうでもいい。劇として発表した時点で自分の作った作品に欠点はないと思うから。

「ありがとうございます。そう言っていただけて励みになります。」
「今後とも活動していくにあたって、感想をもっと伺いたいです。」
「よかったら、今度一緒に飲みに行きませんか。」

ファンは、(なぜか女の子ばかり)こうして市田くんと飲みにいくわけだが、そんな飲み会は一時間くらいでさっさと終わってしまう。ファンの女の子達は、市田くんにとって顔がタイプじゃない。スタイルも、胸が足りなかったり。胸があったとしてももっと痩せててくびれがある方が好みだったり。ファンの女の子は、情熱的な演技や作品に対して驚く。こんなにあっさりした人だったとは。なにより、市田くんは最終的に話を「だから自分はすごい」に持っていく。そういうことをやり続けて、何人かはファンが減った。
市田くんはしょっちゅう誰かに恋している。恋のお相手はいつも、美人だったり礼儀正しかったり、賢かったりして一芸に秀でている。そんな相手であっても一ヶ月経てば興味を失ったり、悪いところに注目して、悪口を言うようになる。
笑顔が素敵な子は「八方美人」
頭のいい子は「ガリ勉」
絵が描ける子は「デッサン狂ってるけどな」
全部持ってた子は「頭うちゅーじん」
どんな才能を持っていようと、そんなものより自分はすごいと思っている。
だって市田くんは役者だから。役者の称号はどんなものより強い。
演劇ができない、やってない奴は見下してもいい。役者は素敵だ。役者はかっこいい。そうでないやつは、ダサい。かっこいい方向に行動できない奴ら。努力しない奴ら。怠けていて、心から愚か。救いようがないほどにセンスがない。と思い始める。

 市田くんに友達らしい友達はいない。学生の時には演劇サークルの仲間に何人かいた。でも大人になって会おうと言ってくる人は居ない。そんなことより役者活動で忙しい。演劇さえできればいい。演劇さえやり続ければいい。
「役者」という称号こそ美点なのだ。友達はそんな自分に興味ないと知っている。普通に生きてきた奴らだ。あいつらに演劇なんて必要ない退屈な人間だ。退屈な人間なんてこちらから願い下げだそうだ
 そんな市田くんに同棲の話を持ちかけたのは私だ。実家のマンションの隣の部屋が市田くんの実家。市田くんと私は幼馴染で、同じ公園で遊ぶこともあった。市田くんはいつもお母さんに送ってもらってアルバイトに行き、帰りもお母さんに迎えに来てもらっていた。何年か前に、お母さんは具合が悪く、車の運転ができなくなった。私は市田くんのアルバイト先近くにちょうどマンションを借りていたこともあったこと、市田くんのお母さんには小さい頃お世話になっていたこともあったから持ちかけた。
市田くんが好きだったとかそういうわけでは無い。何と言っても幼馴染。小さい頃はマンション前の公園で一緒に遊んだ。小さい頃の市田くんはおもちゃを買ってもらえなかったから、おもちゃ無しで遊べるヒーローごっこが大好きだった。良く一緒に遊んだ。私はいつもショッカーのような悪者役ばかり。ライダーキックを決められた時は大泣きした。女の子を泣かせるんじゃないと市田くんが私のお父さんに怒られた事をきっかけにあまり遊ばなくはなったけれど。
市田くんは私がやっていない事をやっていたりするから、話は面白い。だが、実際やっていることは愚かだし、馬鹿だなあ思うものが多い。
有名になりたいなら、一人芝居で頑張るんじゃなくて、オーディション受けて事務所入れば良いのに。
上手にやってれば、市田くんのことを好きになる人だっているだろうに。
 市田くんは私が借りた部屋に住むようになると一層演劇活動を強めるようになった。実家のあった工場地帯のマンションからだと、劇場やライブハウスに行きづらかったこともあるだろう。市田くんはたくさん演劇をした。
SNSのフォロワーはほぼ横ばい。面白いといってくれる人もいたけど、文学作品をモチーフにしたものは「解釈が違う」との評価がちらほらあった。
市田くんは演劇が好きだ。それは、演劇をやったらかなり褒められたからであって、酷評を受けるとかなり苛立った。無視すればいいのに市田くんは変に律儀でお客さんからの声は全部受け取っては苛立っていた。苛立った時の市田くんは家でも外でも度数の強いアルコールをとにかく飲んだ。市田くんはそんな時、私によく口出しをした。
「姿勢悪いな、お前は舞台に上がれん人間やろな」
「そうかもね」
「化粧品どんだけ多いねん、そんなツラやしなあ」
「必要だからね」
「きっこえづらい声。お前舞台人やなくて良かったなあ」
「そうだね」
苛立つ頻度は増えて行って、お酒を飲まなくても口出しするのが、もはや習慣になった。

 市田くんが私に攻撃をする理由。私は市田くんと出会うまで演劇を見たことがないし、役者にも憧れない。市田くんに誘われた、市田くんの作品は時々見にいったけれどそれ以外はあまり興味が湧かない。普通の会社員を普通に続けている退屈な人間だからだろう。そんな私がきっと市田くんは疎ましいのだと思う。
市田くんの作品には、市田くんが書く作品には、いつも「今の自分」がいた。
いろんな女の子に恋をしているときは、恋愛もの。アルバイトで嫌なことがあったときは「世界なんて滅んでまえ!!」とノストラダムスの大予言のような世界滅亡のお話を演じた。

そしてある日、市田くんは「自殺の前に挨拶まわりをする男」の話を書いた。
情熱的でもなく、泣かせにかかる演出もない。ただ、静かに人に会いに行く。
それは演劇というより、生き残った者の供養のようだった。

私はその芝居を見て、初めて本当に「面白い」と思った。
それまでの市田くんの作品は、いつもどこか他人事で、誰かになりたがっているように見えて、なんとも現実感が無かった。

「市田くん、きのうの芝居面白かったよ」

そう声をかけたとき、市田くんは少し驚いた顔をした。
それから、なぜか暴言の頻度が減った。

まるで、自分のことを誰かに“正確に見られた”ことに戸惑っているようだった。

なぜあの作品だけ、市田くんは他人になろうとしなかったのか。
あれは彼の“諦め”が初めて素直に滲んだ作品だったのかもしれない。

しかしそれから市田くんは私を彼女ではないけれど、都合よく扱っていいと思うようになったらしい。セックスはしない。でもお尻は触ったり。変わらずお酒を飲んだら暴言をぶつけたり。お尻を触る時ニヤッとしながら触るから夜の街に居そうなスケベなおじさんみたいだなあ、でもなんだかイキイキしているなと思う。
市田くんは間違いなく、上手に人間関係を作れない。なぜか自分が一番偉いと思うし、そういう振る舞いをする。市田くんは自分が世界で一番かわいそうで、すごいと思わないといけない理由があった。
市田くんは望まれて生きてきたわけではない、かわいそうな人間だと思っているからだ。かわいそうな人間は一箇所でも自分が劣っていると分かると攻撃を始める。でもちょっとでも共感する姿勢を見せると、途端に優しくなる。市田くんが本当に欲しいのは彼女でもあるけれど、多分誰かからの共感でもあると思う。
そして一番共感してくれるのは、自分をまだ、否定していない人間。一番近いのが「彼女」だと思うのだろう。

 市田くんは今まで否定されまくる人生だったと言う。
市田くんはお父さんが嫌いだ。ついでに言うとお母さんもあまり好きではない。そして市田くんの両親は市田くんに思うところが色々ある。
もっと賢かったら。偏差値が低くて学費が高い私立の学校に行く必要なかったのに。
もっと体が強かったら。お母さんがずっと家にいる必要なく両親共に働けたのに。
もっと優しい子だったら。喧嘩しては殴られた子に謝りに行くような親じゃなくて済んだのに。
市田くんの幼少期からの体調不良が相次ぎ、お母さんがつきっきりで看病せざるを得なかった。共働きじゃなくなったからかさむ学費のことでとにかく小言を言われた。市田くんは勉強が嫌いになった。学力はずっと底辺だったが、学歴のためにと大学までなんとか進学した。
市田くんは色々欠如していた。学力、体力、情緒。
それは生まれ持ってのものなのか、環境がつくってきたものなのかは分からない。
市田くんの両親は市田くんの存在を恥や腫れ物のように扱った時期がある。むしろ市田くんの十代というのはほとんどが腫れ物の時間だった。
両親は二人とも悪いとは思わなかった。これっぽっちも。全部市田くんが勝手にやった事で自分達の教育が悪かったとか環境が悪かったと一切思わなかった。同時に市田くん自身も全く悪いと思わなかった。事実全く悪くなかった。
市田くんはとにかく打ち込んだ。演劇に。作ることに。学力が無くてもモノは書ける。哲学があれば良い。
生きていて惨めだと思いたくなかった。せっかく見つけた生き甲斐だ、骨を埋めようと頑張っている。
でも頑張れば頑張るほど、人が離れていった。
市田くんは彼女欲しさに女性の共演者にしつこく付き纏ったり、有名になって力を持ちたいと思うようになった。
力さえ持てたら彼女もできる。今の自分に彼女が、理解者がいないのは力がないからだ。力とは知名度だ。自分が有名な人間だったら色んな人が味方になってくれるはず。そうしたら今の心境だってどうにかなるはず。
市田くんは漠然と欠如した人生からとにかく逃げ出そうともがいていた。
演劇を使って、もがけばもがくほど、人生が落ちていく感覚ばかりが、市田くんを襲った。
役者であろうという矜持を保とうすればするほど、人が離れていった。
有名になりたい、力が欲しいという願いを達成しようとすればするほど酒に逃げるようになった。
誰かと飲んで帰ったは良いが、玄関で朝を迎えるところを度々目撃した。

そんな頃、市田くんが帰ってこなくなった。
今日で、ちょうど一週間になる。
もともと遅く帰ることは多かった。終電で戻ったり、朝方ふらふらと帰ってくることもあった。
でも、「帰ってこない夜」が続くことはなかった。
一晩ならまだしも、一週間もだ。

SNSで、クラウドファンディングを使って立ち上げた舞台の本番が始まったと知ってはいた。だから最初は「劇場に寝泊まりしてるのかな」と思っていた。
よく飲みにも行く人だったし、誰かの家に泊まったのかもしれない、と。
それでも、一週間は長い。

市田くんのSNSも一週間前から更新されていない。
そしてそれは彼がずっと願っていた「有名になる」という目標を、皮肉な形で達成したものだった。

炎上だ。

投稿されたのは、舞台の楽屋で撮られた写真だった。
女優さんと一緒に写った自撮り。
市田くんは満面の笑みでピースサイン。
でも、その女優は目が笑っていなかった。体も少し引いていて、ブレている。

キャプションには、こんな文章が添えられていた。

「今日も稽古でした!
やっぱり“選ばれた人間”だけが演劇やるべきだよな。
才能ってある種の暴力だと思う。理解できない人はやらないでほしい。
〇〇さんの演技は本当に素晴らしいです!本物の役者二人でピース!」

その写真を見て、私はすぐにわかった。
これは市田くんが一方的に撮って、勝手に載せたものだ。

数時間後、その女優本人がコメントを残していた。

「市田さん。この写真、上げないでって言いましたよね。
もう連絡先ブロックしてるんで、ここで言います。しつこいです。」

さらに、二人のやりとりとされるチャットのスクリーンショットまでアップされた。
市田くんからの連絡が延々と続いていた。
「ごはん行きませんか」「稽古の帰り、一緒に帰りませんか」
女優の返事は、ほとんどが既読スルーか、上手にかわすような一文だけだった。

それを見た瞬間、私は画面を閉じた。

広がった炎の中で、コメントが溢れている。

「“暴力”って、お前の行動そのものじゃん」
「前も▪️▪️に付きまとってたって聞いた」
「共演したことあるけど、稽古場で偉そうだった。雰囲気最悪だったよ」
「芝居も中身スカスカで金の無駄だった!金返せ!」

胸の奥が、静かに重くなる。
怒りとも違う。
恐怖とも少し違う。

もう少し踏み外していたら、市田くんは犯罪者になっていた。

自分が何をしているのか、何が許されるのか、分かっていなかった。
でも、それは市田くんにとって“初めてじゃない”ことだった。

今までだって、似たような境界を踏み越えようとしたことが、何度もあった。
それを“芝居”や“情熱”で誤魔化してきた。
演劇を盾にして、ずっと、自分の空虚を誰かに押しつけてきた。

その夜、市田くんは帰ってきた。
静かに玄関を開けて、黙って部屋に入っていった。
酒の匂いもなかった。
声もなかった。

それを機に、市田くんはクラウドファンディングの芝居を降板した。演劇らしい活動もしなくなった。
SNSにも一切姿を現さなかった。
一時期は殺害予告まで届いていたらしいが、それすらすぐに忘れられた。
ある演出家のパワハラがニュースになり、世間の注目はそちらに移った。
市田くんは完全に風化した。あんなに「有名になりたい」と言っていたのに。
彼のしたことは、炎上ですら“記憶される価値”のないものだった。
悪い意味でさえ、名前を残せなかった。
それが、たぶん一番残酷な結末だった。

アルバイトも欠勤が続いていたようだった。
芝居ができなくなった以上、アルバイトを頑張ろうと意気込んでいたが、アルバイト先にも居場所が無くなった。新しく入った若くて可愛い金髪の男の子の方が市田くんより遥かに仕事が出来て、市田くんより遥かにかっこよかった。力強いパートのおばちゃんも過去に「タイプじゃない」と切り捨てた地味な女の子もあっという間にその子の味方になった。
欠勤続きで勤務態度も悪く、仕事もできない市田くんに、味方らしい味方はいなかった。そのままアルバイトを辞めた。

 そんなすべてのどん底のとき。市田くんの弟から連絡があった。
市田くんのお母さんが亡くなった。私もお葬式に行った。市田くんは久々に家族に会った。弟も妹もお父さんも泣いていた。お葬式で、市田くんは泣かなかった。男の子だから、とかそう言う理由を抜きにして、泣く理由がない。市田くんを腫れ物として扱ったお母さんだから。市田くんはお母さんを呪っている。ガンで間違いなく苦しんで亡くなったとしても、幼い市田くんをつきっきりで看病した過去があっても市田くんは泣けなかった。私は何度かお母さんに会いに行った。市田くんと一緒に住む提案をした時も挨拶に行った。度々市田くんの近況を聞かせに行った。会うときはいつも「息子をお願いね」と言われた。市田くんのお母さんは会うたびに痩せていった。落ち窪んだ眼窩は痩せている市田くんそっくりだった。

まだ元気だったとき、市田くんの生い立ちを聞いた事がある。
市田くんは早産で産まれた。心臓が弱く、生まれてすぐ止まってしまうかもしれなかった。新生児集中治療室に入った。無事に出られたけれど、その後遺症でか、市田くんの視神経は上手く育たなかった。視力はかなり低く、市田くんは運転免許を持てない人に該当した。
体も弱い。しょっちゅう風邪をひいた。お母さんは市田くんを産んで仕事に戻れる予定だったけど出来なかった。小さい市田くんはすぐに熱を出したし、すぐバイキンをもらって吐いたりした。長い入院だって何度したことか。
多分、すぐに死んでしまう。後遺症のこともあり、もって十年と予測をつけた医者も居た。

「こんなに弱い奴が生きていけるわけがない。」
お父さんもお母さんもおんなじことを思ったから、弟と妹が生まれた。何にしても子供が欲しい夫婦だった。弟は二年後に生まれた。妹は五年後。二人ともどこにも異常を出さず生きている。しかし二人とも生きていく中で苦しい時があった。妹は学校でいじめにあった。弟は勉強の出来が悪くてしょっちゅうお父さんに殴られた。市田くんはその光景を間近で見ていた。市田くんは勉強ができなくて殴られることはなかったけど、これは殴られるより悲しい現実だった。
自分がもっとちゃんとした体だったら弟も妹も要らなかったのに。苦しい思いをしなくて済んだのに。生きてしまったことが申し訳なくなるときは度々あった。運が良くか悪くか市田くんは生き延びてしまった。眼鏡もかけて、普通の人間になったはずなのに、心はどこか奇形だった。生き延びた人生はもはや余生だったけど、生きる理由が見つかってしまった。
それが演劇だった。色んな人と平等に作品を作れることの喜び、自分が表現できる喜び。のめり込んだ。あんまりにも楽しかった。家にも学校にもなかった唯一の居場所だった。演劇はすごいのだった。誰かが見てくれる喜びも、誰かに喜ばれる嬉しさも全部受け止められる。作る過程が辛くとも苦にならなかった。自分がすごいような気がした。自分がかっこいいような気がした。でも世の中にはそんなもの軽々とやってのける奴らがごまんといる。才能に溢れた奴らがいる。のうのうと当たり前に生きて、才能を育める、恵まれた人たち。市田くんはそんなやつらが呪わしい。市田くんは世界が色んな才能や能力で出来上がっていることをまだ知らない。呪わしいから唯一の武器で抵抗する。
「でもお前、芝居できへんやんけ」
「でもお前、人には聞かせられん声やんけ」
「でもお前、人前に出られん姿勢しとるやんけ」
「でもお前、人前に出られん外観やんけ」
「そうじゃない俺の方が、強い」
市田くんは才能を見つけることが得意だ。出会った他者の才能を見つけるとすぐに自分の才能を見返す。市田くんは絵が描けない。市田くんは愛想が悪い。市田くんの成績は留年ギリギリだった。市田くんは演劇しかできない。

 市田くんのお母さんはガンが発覚した時にようやく市田くんに申し訳ない気持ちが湧き上がった。ガンはすでにかなり進行していた。死を間近にして、ようやく息子と自分が他人だと気付いた。弱く産んでしまったのは自分だ。以前、市田くんはアルバイトに行く時、自転車かパートのおばちゃんの車に乗せて行ってもらっていたが、お母さんが送るようになった。最後に唯一できる事だった。
市田くんは最後の最後に、確かに愛されていたのだった。市田くんにその自覚はない。多分持つことはできない。辻褄合わせというか、都合よく扱われた時期があまりにも長かった。

お葬式が終わった。市田くんと少し話すことにした。市田くんは落ち込んだり、イライラすると暴言を吐く。その度私は何も悪くないけど謝るフリをしたり、諌めたりした。
「市田くん、ごめんね」
「市田くん、大変だね」
「市田くん、大丈夫かい?」
でも、もうこの瞬間から、そんなことする必要がなくなった。私は全部話す事にした。

「市田くん、演劇が出来るってそんなにえらいことですか。
誰かを見下す理由になるほど。
医師や教師のように国が存在を証明してくれる?
そうではないと、私は思うんです。
私ね、市田くんのこと、かわいそうだと思うけど、心から嫌いです。
一緒に生活するにつれ、どんどん嫌いになりました。
罵る、馬鹿にする、お尻を触るから嫌いなんじゃない。
自分が愛されているか確認するのに私を使うから。酷いことを言って、それでも一緒にいてくれるよなって確認するのに、誰も愛せない。
私も人間だから傷つく時はたくさんありました。
でも、この人のために傷つくなんて愚かだって思うようになった。

わかったんです。市田くんは誰かに心から愛された経験に乏しいんだって。お母さんからお話を伺うにつれて、かわいそうな経験しかできなかった人なんだって理解していったんです。病気だとか、もうすぐ死んじゃうと思われていたから、家族生活からも一般的王道的とされる生活からも切り離されてきた。しかも代わりがいる。市田くんが愛されていないと自覚するのも、誰かに心から愛されたいと求めるのも無理はない。人は自分が愛された方法でしか人を愛することができない。彼女が欲しい。でも愛し方がわからない。

市田くん、今日で最後だから、本当のこというね。
私ね、お金もらってたんです。市田くんのお母さんに。
月十万くらい。市田くんの暴言が酷いって報告した時はもう五万余分に振り込まれてた時もありました。

お金を払うから、あの子と一緒にいてあげて。顔も気心もよく知れたあなたにしか頼めないって。
私たちは愛し方を間違えたって。

親の愛だと思った。変わらずやり方は間違っていると思うけど。
市田くんと一緒に暮らして六年。お互い歳を取った。市田くんが演劇をやっている間に私はずっと働いていた。もうすぐ役職にだって就く。市田くんのお母さんが払ってくれてたお金が無くとも生活はできるくらいには稼いでいる。
そして、私は心から愛している人ができた。気づいてたかい?市田くんよりはるかにすごい人。同じ職場の先輩だよ。

私にはたくさんの欠点がある。でも市田くんと違うのは、市田くんにとっての演劇のような、自分は確実にこれができると胸を張って言えるものなんてない。でもそんなもの無くても悔しくない、悲しくない。私、きっとそんなもの無くても生きていける退屈な人間なんだ。私の愛している人は、そんな私であっても罵らないの。私を馬鹿にしないし、むしろ私を認めてくれる人なんです。
市田くんという人がいて、その人と同居している。
その人か、その人のお母さんが止めようって言うまでは結婚はできないけどいいかって正直に言いました。
いいよ、ぼくが君の事好きなのには変わりないよって、待っててくれる人。
市田くんが心から求めていたものってこれじゃないのって思うんです。ダメでも何でも愛してくれる人の存在。私はその人と知り合ってようやく、君や君の家庭の異常性に気づいた。
私はいとも容易く手に入れました。ずるいでしょう。傲慢でしょう。
でも市田くんはきっとそんなもんいらんって言うでしょう。
そしてまた懲りず誰かを次々好きになった気でいて、理由をつけて捨てて、傷つけて。
傷ついて生きてきたから、自分のために傷つけてもいいやって思っているって見え見えなんですよ。君の愛は、両親そっくりだ。思う通りじゃなかったらいいやって切り捨てられる陳腐で低俗で、人間の愛じゃない。人間の愛を君は知らないんだ。

そんな人間、誰が好きになる。
他人を大事にできない奴を誰が愛せる。
満たされなくて空虚だけが膨らんだ自己愛を、君以外の誰が満たせると言うんですか。誰が君の空虚な自己愛の糧になると言うんですか。ただ君が演劇が好きだからと言うだけの理由で書いた作品の美しさをわからないんですか。もう君にとって演劇はモテるためだけのものじゃないんでしょう。これがないと生きていけないくらい、愛してしまったものなんでしょう。

それなのに、有名になりたいっていう陳腐でありがちで漠然とした目標のためだけに女の人に付き纏って、馬鹿な毒を吐いて全部ダメにした。

市田くん。君とは3歳からの付き合いだね。マンションの隣の部屋に住んでしまったと言うだけの理由で、君とここまで来てしまった。
でもこの先君と一緒に居ることは金輪際ない。
君は可哀想な人間で、私は違う。
私は人を愛することができて、君はできない人間だってよく分かった。
何も愛せない、都合の良い欠陥人間と過ごした。
そんな私だから言うよ。

私は君なんか大っ嫌いだ。
君なんか大っ嫌いだ。
君を作り上げた君の家が大っ嫌いだ。
今の君を作り上げて、今の可哀想な君を作り上げて、生き延びさせてしまったのに、どうにもできない全てが嫌いだ。
代用品のように兄妹を作った両親が嫌いだ。君を愛せなかった君のお母さんが嫌いだ。金で人をどうにかしようとした根性がもうだめだ。
ずっと縁のあった私が嫌いだ。
君をどうにかできるかもと一瞬でも思った自分が嫌いだ。
そこまでしないと愛されない君が嫌いだ。
それら全部覆してしまう、………君が嫌いだ」

市田くんはその日、部屋に帰ってこなかった。
翌朝になっても市田くんは帰って来なかったから、市田くんの荷物をまとめて市田くんの実家に送る事にした。いつでも出て行けるよう、出て行ってもらえるよう、ダンボールはやたらあった。
演劇をしなくなったなら、アルバイトだって辞めたなら、お母さんがいなくなったなら、市田くんがこの家に住む必要はない。

市田くんと一緒に過ごした六年間。辛い事だらけだった。いつしか辛く無くなった。自分の痛みさえ無視すれば、人生なんて全く辛くない。でも痛かった。思うに、市田くんは人生のいつのまにかずっとこんな状態だったのだろう。

でも私は無視しない。否定しないと、違うって言わないと、市田くんの暴言に潰される気がした。
お母さんの弱って黒く落ち窪んだ眼窩を思い出す。市田くんはまだ若いのに、似た目をしている。
市田くんの荷物は紙が多かった。ファイリングすれば良いのに、今までの台本や公演チラシをそのままにしていた。鋭利なチラシで指を切った。切り傷からプチッとした血が現れると、何だか気が抜けてしまい、視界が歪んだ。じんわりと涙が溢れた。

市田くん、私はね。
君を好きになってみたかったんだよ。
隣の部屋の、幼馴染の君を。
初対面のお砂場でおもちゃをうばったその時から。
仲良くしてみたかったんだよ。友達になってみたかったんだよ。でも君の好意は返ってくることは無かった。
市田くんは存在自体が辛かった。辛い存在というのは自分が望んで無いのに体は生き続けている。生きる理由を探さないといけない。
存在が辛い人と一緒にいると自分までも辛くなる。
市田くんの弟から、市田くんは実家にいる、荷物も届いたと電話があった。
彼氏から旦那になった人は市田くんが使っていた部屋に住んでいる。市田くんの居ない、穏やかな生活がようやく始まった。

数年後、市田くんから電話があった。
私は変わらず同じ会社にいた。
「安藤さん、イチダ様という人からお電話入ってます」
「イチダ?」
「ええ、安田さんにつないでほしい、多分わかるからって。でも安田って結婚前の苗字でしたよね。断りましょうか」
「あー、いえ、取ります。
………お電話変わりました。
安藤です」
「………」
「…市田くん。市田くんでしょ」
「………」
「元気だった、市田くん」
「………うん」
「市田くん、なんで会社に電話してきたの」
「おれ何年か前、ひどい事したとおもうから。謝るためにに電話しました。会社にするの違うと思うけど、連絡つかなくて。おかんがお金、どれくらい使ってたかも、通帳で知りました。でも、おかんの事許せていない自分はいます。………どうも、すみませんでした」
「市田くん」
「みほちゃん。長いこと、友達でいてくれてありがとう」

電話はぶつりと切れた。現実的な音だけが残った。

市田くんとはこれが最後のやりとりになった。
市田くんをその後SNSでも見かける事は無かった。






















いいなと思ったら応援しよう!

架空結社ハリー商会 |  一人芝居作家 応援よろしくお願いします🙇いただいたチップは劇団活動費に使わせていただきます!