「探究ネイティブ」の到来と、リフレクション指導の「価値の転倒」
――「深掘り上手」を、どこへ連れていくか
大学2年生が提出した一枚のリフレクション(振り返り)を読みながら、私はある「確信」に近い直観を抱いていた。
「記述の質が変わった。彼らは、明らかに『探究ネイティブ』だ」
かつてのリフレクション指導といえば、まずは「楽しかった」「勉強になった」という表層的な感想を、いかにして具体的な「気づき」にまで掘り下げるかという、いわば「掘り起こし」の作業から始める必要があった。しかし、いま目の前にある記述は、最初から「深掘りすること」を良しとする価値観に貫かれている。
この変化の正体は何なのか。そして、私たちは彼らをどこへ導くべきなのか。
1. 目の前にある「深掘り」の正体
まず、ある学生のリフレクションを読んでほしい。
「自分は昔から……あの人は才能があるから……と思っていたが、先生のお話しの中であった『あの人は優秀だから』で話を終わらせないことという事で、見るべきなのは、その人がどんな場面で、どんな工夫をしたのかという考えを聞いて、今までの自分にはそのような考えがなく、新しい発見だと感じました。」
他者の成功を「才能」というブラックボックスに閉じ込めず、そのプロセスを解体し、自らの学びの資源にしようとする姿勢。ここには「探究」の精神が、ごく自然な所作として息づいている。
現在、大学2年生(19〜20歳前後)の世代は、高校で「総合的な探究の時間」を必修として経験してきた第一陣だ。自ら問いを立て、構造的に考える訓練を積んできた彼らは、いわば「探究ネイティブ」として大学に現れたのである。
2. 繰り返される「価値の転倒」
かつて、私が大学でワークショップ型授業を始めた頃、学生たちからは「なぜ遊んでいるのか」「講義をしてほしい」という抵抗があった。しかし、「アクティブラーニング」という言葉が国策として語られ始めた途端、景色は一変した。気づいたら、抵抗の言葉が消えていた。
いま、リフレクションの現場でも、同じような「価値の転倒」が起きている。
私が教育学部で長年コツコツと取り組んできた「リフレクション指導(型で思考を鍛えるテンプレ指導 ✕ コーチング方式の対話指導)」が、時代の波と噛み合い始めた。かつては「書かされている」と感じていたはずの学生たちが、いまや自ら「深掘りすること」に価値を見出し、テンプレや対話の作法を、自分の思考のための「装置」として使いこなし始めている。
3. 「理解」と「得心」を読み分ける
もちろん、すべての学生がこの段階にいるわけではない。だが、確実に層は変わった。そして、その層に対して教員が次に問うべきは、深掘りの作法ではなく、その先の質である。
私たち教員は、慎重に彼らの記述を読み分ける必要がある。そこには「二つの深さ」が存在するからだ。
深さの理解(認知的な深掘り)
「問いを立て、構造化する」というスキルの洗練。ルーブリック評価(単なる感想はB、課題特定はAなど)に最適化された、優等生的な内省。一見深いが、他者評価を意識した「ポーズ」である可能性も孕んでいる。「グループでの話し合いを通じて、自分一人では気づけなかった視点に出会い、考えを深めることができた」――この種の、よく整った一文。
深さの得心(身体的な納得と会得)
自分の既存の価値観が根底から揺さぶられ、言葉に「体温」が宿る状態。単なる分析を超え、「納得」し、自分の言葉で「説得」し、ついには自らの血肉として「会得」するプロセス。
先の学生リフレクションへの赤ペンは次である。
「勝手に決めつけるのではなく、その人の良いところなどに目を向ける事で自分の成長にも繋がり良い考えだと思いました。」
←「この言葉に、体温を感じます」
分析スキルではなく、言葉の温度に、私はペンを走らせた。
4. 「本物の問い」に出会わせるために
ルーブリック評価の影響は、私たちが想像する以上に大きい。彼らは「どう書けば深く見えるか」を知っている。しかし、そこには「形式的な内省の洗練」という罠も潜んでいる。
私たちの役割は、彼らが高校までに身につけてきた「探究の型」を否定することではない。むしろその型を徹底的に活用しながら、その先にある「自分自身の切実な問い」に彼らを直面させることだ。
「深掘りの作法」を知っている彼らだからこそ、ひとたび本物の問いに出会った時の爆発力は凄まじい。
「形式」を「本物」へ。
「理解」を「得心」へ。
この「価値の転倒」が起きている今こそ、リフレクションという名の対話を通じて、彼らを一人の自立した「探究者」として送り出したい。赤ペンで、彼らの言葉の「体温」を認め続ける。それが、人を育てる仕事に関わる者の、新しい誠実さなのだと思う。
