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少数説が許せない頭の固い人達が多すぎる

『定説』という言葉を目にしたことがあるだろうか。
人は歴史を知る際にまず定説と呼ばれる一般的に支持される説に触れることとなる。
この定説は『事実あった出来事』がどういう経緯で生まれたかの肉付けをする際に、圧倒的多くの研究者が支持する説を指すものだ。
そこで思う人もいるだろう「なぜこんな回りくどいことをするのか?」と。
「歴史ってのは実際あった出来事なんだから研究者がどうたらとか置いといてそれがそのまま定説でいいんじゃない?」
そういう考えになるのも分かる。よく分かる。だがそれが通るのはあくまでも自分の周りで起き、実際に自身で目にした出来事だけではないだろうか。
例えば自身の親の話でもいい、友人知人の話でもいい。自分以外の近しい人間にあった出来事全てを知る人は存在しえない。
ましてやその出来事は友人知人だけの話ではなく、それに関わった赤の他人目線の話もある。到底人類には知覚しきれないものだ。
アカシックレコード*持ちならいけるかもしれない。

*始原のころからのこの世の全てが記録されている概念的存在。インドにおいての五大(この世の構成物、地・水・火・風・空のこと)においての空に収められているとされる。

さてこれが自身とはさらに離れた過去の出来事であればどうだろうか。
現在起きている全ての出来事ですら把握しきれないのに、過去に自身の知らない所で起きた出来事なんて分かるはずもありません。
そこで研究者は様々な文献からなるべく多方向から出来事に対しての史料を漁り伝聞をまとめ「きっとこうだったんじゃないか」という説を発表します。
その説に対し「おーいいじゃん、私が調べたことと合ってる」と思えば支持し「いやもっとこうだったんじゃない?」と思えば新たな説を不支持者が論文としてまとめて出す。
そうして様々な説が生まれていき、支持され、反対され、論争が起き、結果多くの研究者が「こういうことだったんだろ」と支持を多く集めたもの、それがようやく『定説』として世に浸透していきます。

こんな多くの出来事があってようやく定説となるものですから、当然の様に「定説こそが王道で支持を集められなかった少数説は邪道」とする方多くみられます。
ですがその考え方は半分正解で半分不正解です。なぜなら定説が生まれたその当時は王道であっても、新たな史料が発見されると途端に邪道に落ちることもままあるからです。

特に私の好きな戦国時代なんかは、当時の武将が送った手紙などが有力な史料として参考にされますが、時たまに今まで未発見だった手紙が発見されたりするからです。
それによって武将同士の関係性などに新たな発見があったり、逆に今まで定説とされてきた出来事が途端に謬説(間違った説)に転落してしまったりします。

なのでちゃんと研究されている方であればよっぽど変な説でない限りは、少数説(支持者が少ない説)を真っ向から全否定するようなことはありません。
何故なら歴史においては急にその説が主筋となるかもしれないからです。
そのため少数説であっても明らかなウソがなければきちんと研究される方も多く、また「もしかしてこうだったんじゃないかなぁ」と胸を躍らせるものも多いです。

説の違い

説には主に以下があります。

  • 通説 多くの研究者が支持し妥当とされている解釈

  • 多数説 多人数が推している解釈

  • 少数説 少人数が推している解釈

  • 俗説 根拠はないが、世間で広く認知されている知識。

  • 謬説 間違った解釈

ただこれだけを書いてもイマイチ分かり難いと思いますので、具体例を挙げて説明します。

本能寺の変

実際にあった出来事、事実

織田信長配下だった明智光秀が主君への謀反を起こし、13000人の兵を伴い京都にある本能寺へ進軍。織田信長死亡。織田信長の嫡男である信忠も死亡。

現在の多数説

織田信長に対し日頃より恨みがあり、それが爆発し事を起こした。
明智光秀は単独で謀反を思い至り、一部の家臣と誓約を交わし本能寺に攻め入った。

光秀は手勢1,3000人の兵を率い、そのうち2~3,000の兵を本能寺に、残りを信長親子を京から逃がすまいと門に置いた。
明智光秀は銃を撃ち放ち本能寺に攻め入った。
信長はそれに一瞬驚くがすぐに気づき「誰の謀反だ?」と近習に問うと「明智にございます」と返答した。
信長はそれを聞くと「是非に及ばず(そらしゃあないな)」と返したという。

次から次へと討ち死にが続き、信長も弓を持ち応戦するが数の暴力に負け、後がなくなっていく。
信長は「女を逃がせ」と三度に渡り命令し、ようやく従い逃げていくのを確認すると本能寺に火をつけ屋敷の奥に進んだ。
その後切腹し本能寺は焼け落ちていった。

明智勢は信長を逃がしては元も子もないと必死に遺体を探すが見つからず、光秀が途方に暮れていたところ家臣の進言により捜索を諦め、信長の嫡男である信忠を次の標的とした。

信忠のいる二条城へと兵をすすめた光秀は、苛烈に鉄砲を用い攻め込み、しぶとく粘る信忠勢を攻め続けた。
とうとう鉄砲に倒れ兵が少なくなった信忠は自刃し、ここに信長・信忠親子の夢は幻と消える。

上記を多数説とし、では他にどんな説があるのか?
流れ全体で言うとホントに膨大な数となるので、「どうして本能寺の変が起こったのか」に絞らせていただく。でもそれでも膨大だ。
では本能寺の変の発生要因であるが、いわゆる『怨恨説』を多数説として先述したが、実はこと『どうして本能寺の変が起こったのか』について令和の現在でも答えは出ていない。

つまり通説が無いのである。

もちろん怨恨理由の怨恨説が主流ではあるのだが、ハゲが速攻ネズミにやられたから明確な証拠や証言が残っておらず、永遠に謎のままとなっている。
そうした状況を踏まえ、他にどんな発生要因の説があるのか。

あんまりにも数が多いから説の題だけ挙げる。

野望説
突発説
怨恨説
不安説
ノイローゼ説
内通露顕説
人間性不一致説
秀吉ライバル視説
救世主説
神格化阻止説
暴君討伐説
朝廷守護説
源平交代説
信長非道阻止説
四国征伐回避説
不安・怨恨説
怨恨・突発説
不安・突発説
野望・突発説
不安・野望説
怨恨・野望説
羽柴秀吉実行犯説
斎藤利三実行犯説
徳川家康主犯・伊賀忍者実行犯説
複数実行犯・複数黒幕存在説
石山本願寺と羽柴秀吉実行犯説
近江土豪連合関与説
丹波国衆関与説
長宗我部元親関与説
濃姫関与説
光秀の妻関与説
羽柴秀吉関与説
朝廷黒幕説
足利義昭黒幕説
羽柴秀吉黒幕説
毛利輝元黒幕説
徳川家康黒幕説
堺商人黒幕説
フロイス黒幕説・イエズス会黒幕説
高野山黒幕説
森蘭丸黒幕説
法華宗門徒黒幕説
織田信忠黒幕説
光秀・秀吉共謀説
光秀・家康共謀説
光秀・秀吉・家康共謀説
足利義昭・朝廷黒幕説
毛利輝元・足利義昭・朝廷黒幕説
近衛前久・徳川家康黒幕説
堺商人・徳川家康黒幕説
上杉景勝・羽柴秀吉黒幕説
徳川家康・イギリス・オランダ黒幕説
足利義昭・羽柴秀吉・毛利輝元黒幕説
信長の対朝廷政策との関連
家臣団統制との関連
信長自滅説
信長不死説

https://ja.wikipedia.org/wiki/本能寺の変#著名な逸話

ほら膨大。
こんだけ多数の説が争い続けております。

何個かピックアップして少数説として軽く解説。

朝廷・幕府黒幕説

光秀に近かった朝廷あるいは幕府が計画を主導し実行犯として光秀が行動を起こした説。

他大名と共謀説

上杉景勝や長曾我部元親、あるいは目の上のタンコブと思っていた徳川家康と共謀し謀反を起こした説。

少数説だけど私が個人的に推している節

羽柴秀吉黒幕説

秀吉の中国大返しがあまりにも迅速すぎで不自然なため、光秀を秀吉が唆し行動を起こさせたんじゃないかという説。
わざと謀反を起こさせ、天下へ噛みついた逆賊を成敗することで秀吉が声高に正当後継者へ名乗り出ることが出来た。
また光秀は謀反後、自身に味方するよう各大名に書簡を送るが、秀吉が放った「上様の首は見つかっていないため未だ存命し、光秀への反撃を試みている」という流言が畿内に蔓延し、味方が増えなかった。
そのおかげで山崎の戦で秀吉が勝ったというのもある。
なので犯人は秀吉なんじゃないかという。あくまでも少数説なので今後秀吉-光秀間の書簡などが見つかれば盛り返すかもしれない。

などなど。
とても今回だけじゃ説明しきれないほどあります。
興味がある方はdigってみてください、あなたのお気に入りの光秀謀反の理由があるかも。

俗説

「敵は本能寺にあり」
本能寺の変に際して光秀が言ったとされる言葉。
この言葉を皮切りに光秀の手勢は本能寺へ進んでいったとされますが、これおそらく言ってない。
時刻は日も登る前の時間帯。本能寺に着いたのが朝四時~六時ごろと言われているので、それより以前の時間帯にこれから謀反起こしますって人間がそんなバカみたいなこと言うわけはない
これは後世の江戸時代に書かれた『明智軍記』に記されているのだが、この明智軍記自体が作者不明の怪しい書物。また前時代に書かれた史料と照らし合わせても辻褄が合わない箇所が多く、妄想本と言われている。

謬説

謬説は俗説と同じで嘘であればなんでもいいのであえて書くものでもないような気がしますが、私個人の俗説と謬説の使い分けとして「物理的に不可能なものでは無い」と言えるレベルのものは俗説。「ドラえもんがいないと無理」なものは謬説と分けて読んでいます。
例えば、

燃える本能寺の中で自刃した信長の介錯は小身のころからの長い付き合いであり重臣である柴田勝家が行った。
とかいう説挙げてきたら「そら謬説やろ」と言えます。
このときの権六は上杉と魚津城で争っていたころ。どこでもドアかコピーロボットが必要。

本能寺の変の一連の流れにおいて謬説でもないけどだいぶ無茶してんなっていう少数説

介錯は弥助

トーマス・ロックリー氏が提言したことで一時話題となった説。
これは弥助の経歴を見ても明らかな嘘ではないが、さすがにそれはドラマチックすぎやしないか?と思う。

本能寺の変の際に弥助は信長とともに京にいた(事実)
信長の死後、信長の馬廻り衆(近侍の手練れ)が信忠援護に二条城へ駆けつけた(事実)
信忠自刃後、弥助はその事実を知ってか知らずかその場で戦い続けた(事実)
明智に最後捕まって放免された(事実)

とまあここまで事実は連なっているが、その空白の隙間を縫うようにこんな大胆なストーリー作るのは私には出来ない。
でも否定は出来ない。何故なら誰も信長が死に際の姿を見ていないし、記録にも残っていない

「嘘だ!」と決めつけられるほど本能寺の定説はまだ固まっていない。
歴史を象る説は研究者の数だけ存在する

弥助に関してまたXで絡まれたので勢いで書いた

特に本能寺の変は日本人なら誰もが知る日本史に燦然と輝く大イベントであるにも関わらず、その真相は誰にも分かっておらず定説もまだ固まっていない、
そのため歴史研究者から歴史小説家から漫画家からありとあらゆる新説が生まれた。
そしてそれらの説は完全否定することができず少数説として残っている。

歴史に多く触れている人であれば、少数説こそが歴史の浪漫に繋がるものと理解されている方も多いので「おおーそういう考えもあるか」と楽しめるもんだが、一般的には定説や多数説を『事実』として覚えてしまった方には受け入れにくいものであるようだ。

そういう人に少数説もワンチャンあるかもよ?と理解してもらうにはどうしたらいいのか。子供ならいいけど多分相手そこそこいい年の人っぽいんだよな。無理かな。でも諦めたくない。良い考えあるかたご共有オナシャス。

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