ドーナツの疑問
自分の人生が完全にからっぽだと、感じてしまう夜がある。
それはまるでドーナツのように、中央がきれいにくり抜かれ、ぽっかりと空いてしまった穴のようだ。私はその虚無感の中にいる。
いや、中など無いのだから、その周りをただただじっくり、まわっている。
そんな夜は、手近なドーナツを胃袋に放り込んで、一時的に脳をごまかす。大量のシュガーシャワーはとても気持ちよい。
けれど、食べている対象もまた、真ん中がからっぽのドーナツなのだ。
「私たちは、おんなじ穴を抱えているね」
そんな言葉を甘い円環を覗いて交信しながら、悲しくもなり、ほんの少しだけ嬉しくもなる。
もちろん、そんな糖分による一時的な幸福はすぐに消え去り、再び巨大な空虚感にさいなまれる。
現実はなにひとつ、変わっていない。
いや、厳密に言えば、最悪の方向に進んでいる。私の体重が、右肩上がりになっている。
このぽっかりと空いた大きな穴は何なのだろうと、最近はよく考える。
この穴の成分さえ判明すれば、それを埋めるための適切な材料が見つかるはずだ。
そうすれば、穴の開いたオールドファッションではなく、I’m donut ?の生ドーナツのように、穴のない、ふっくらとした充実感に満ちた存在へと変貌を遂げられるのかもしれない。
結局のところ、私は「何者かになりたい」という強烈な執着から、いまだに出家できていない。だから現状にどうしても満足ができない。
「いまの私で、本当にいいんだっけ?」
そんな問いを繰り返している。「I’m donut ?」と、自分のアイデンティティが分からなくなっている。やがて形を失い、崩れ落ちていく。
けれど「何者かになりたい」と願う切なさは、人類にとって極めてふつうの、ありふれた感情であることも、心の底では理解している。それでも諦めきれない。
そして仮に、理想の何者かになれたとしても、あるいはなれなかったとしても、結局この皮膚の内側にいるのは自分自身でしかなくて、その絶対的な現実からは、逆立ちしたって逃れられない。
ならば、社会という巨大なシステムから認められる「特別な何か」になれなかったとしても、それで人生が詰むわけではない。
自分のすぐ隣にいる大切な人にとっての特別な存在になれたなら。本来、それ以上の打率は必要のないはずなのだ。
「ここではない、どこかへ行きたい」と焦がれる羨望と、「ここまで泥臭く歩んできたのだから、この場所のままで生きていこう」と腹をくくる諦念。
私はその狭間で、フラフラと千鳥足を崩さずに揺れながら生きている。
もう、ドーナツのままで生きていこう。
多少形が歪んでいたって、真ん中の穴が不格好に小さかったって構わない。それが、自分という素材を活かした、唯一無二のドーナツであるならば。
