「失敗する大人」を見せることが、最高の教育になる #センセイを捨ててみる。
現役教師が、名古屋でビール会社を立ち上げた。
そんなニュースを目にしました。
ビジネスコンテストでの優勝をきっかけに、5人の教員が中心となって設立した「Dragon Brewing」。教師という仕事を続けながら、学校の外へ踏み出し、新しい事業に挑戦しているそうです。
このニュースを知ったとき、私は、これこそが以前から考えてきた「教師を捨てる」という生き方の、ひとつの理想形ではないかと感じました。
ここでいう「教師を捨てる」とは、教員を辞めることではありません。
教師という肩書きや、学校の中だけで通用する常識に縛られず、一人の人間として社会に飛び出すことです。
教育のプロになるほど、社会から遠ざかってしまう
教師は、教育のプロであることを求められます。
授業をつくり、生徒を指導し、学校を運営する。専門性を磨くことは、もちろん大切です。
しかし、教育のプロになろうとすればするほど、学校という閉じた世界の論理に縛られてしまう危険もあります。
学校の中では当たり前とされていることが、社会ではまったく通用しない。反対に、社会では当然のように求められる感覚が、学校の中では身につきにくい。
そうした断絶は、決して小さくありません。
今回のプロジェクトで何より素晴らしいのは、教師たちが自ら学校の外へ「越境」していることです。
異なる業界の人と出会い、商品をつくり、価格を決め、顧客に価値を届ける。思いどおりにならない現実に直面し、失敗し、修正しながら前に進む。
学校の中だけでは得られない常識や、失敗の苦さを、自分自身の体で学んでいるのです。
そして、その姿を生徒たちに見せている。
私は、そこに大きな教育的価値があると思います。
成功ではなく、失敗を見せる
記事の中で、特に心に残った言葉がありました。
「成功だけでなく、失敗も含めて見せることが教育になる」
彼らは最初のビールの仕込みに失敗し、つくったものをすべて廃棄しなければならなかったそうです。
事業として考えれば、痛い失敗です。
時間も、お金も、労力も失われます。できることなら、人には見せたくない出来事かもしれません。
しかし、教育という視点で見れば、この失敗は非常に価値のある「生きた教材」です。
学校では、あらかじめ正解が用意された問題を扱うことが少なくありません。
先生が説明し、生徒が理解し、テストで正解する。学びの道筋は整理され、失敗しないように設計されています。
もちろん、基礎的な知識を身につけるうえでは、こうした学習も必要です。
けれども、社会に出れば、正解のない問いばかりです。
努力しても報われないことがあります。十分に準備したつもりでも、失敗することがあります。何が正しいのか分からないまま、決断しなければならない場面もあります。
だからこそ、教師が失敗する姿には意味があります。
失敗を隠すのではなく、なぜ失敗したのかを考え、次の一歩につなげていく。その過程を生徒に見せることは、完成された成功談を聞かせる以上に、心を動かすのではないでしょうか。
教師は「間違えてはいけない」と思いすぎている
多くの教師は、生徒に完璧な答案を求めるように、自分自身にも完璧であることを求めています。
先生なのだから、間違えてはいけない。
生徒の前では、弱さを見せてはいけない。
質問には、すぐに答えられなければならない。
失敗すれば、信頼を失ってしまう。
そんな思い込みに縛られている教師は、決して少なくないはずです。
しかし、本当にそうでしょうか。
何でも知っていて、何でもできて、決して迷わない大人を見せることが、教育なのでしょうか。
むしろ、大人が本気で何かに挑み、思いどおりにいかず、悩みながら試行錯誤している姿のほうが、生徒の心に届くのではないでしょうか。
大人だって失敗する。
自信を失うこともある。
それでも、考えて、助けを求めて、もう一度立ち上がる。
そんな背中を見せること以上に、生徒の主体性を刺激する教育があるだろうかと思います。
教師は「指導者」の前に、人生の先輩である
教師は、生徒にとって指導者です。
しかし、その前に、一人の人生の先輩でもあります。
生徒が本当に知りたいのは、教科書に書かれた知識だけではありません。
どうやって仕事を選ぶのか。
失敗したとき、どう立ち直るのか。
好きなことを仕事にできるのか。
組織の中で働きながら、自分らしく生きるにはどうすればいいのか。
将来に正解が見えないとき、何を頼りに進めばいいのか。
こうした問いに対して、唯一の正解を教えることはできません。
けれども、教師自身が悩み、選び、挑戦している姿を見せることはできます。
ビール造りは、彼らにとって単なる副業ではないのでしょう。
生徒に多様な生き方の選択肢を示すための手段であり、教師自身が社会とつながり続けるための実践なのだと思います。
事業を始めることだけが、越境ではありません。
地域の活動に参加する。学校とは異なる業界の人と協働する。作品を発表する。新しい技術を学ぶ。小さくても、自分の商品やサービスをつくってみる。
教師が学校の外に自分の世界を持つことは、生徒にとっても大きな意味を持ちます。
「人生には、こんな道もある」
そう語る教師の言葉に、実感が宿るからです。
学校は、失敗できる安全な場所だったはずだ
学校は本来、さまざまな経験ができる場所です。
小さな失敗を重ねながら、自分なりの考え方や生き方を身につけていく。社会に出る前に、安心して試行錯誤できる。
そのための場所だったはずです。
ところが現実には、失敗を避け、間違えず、決められたレールから外れないことが重視されがちです。
良い成績を取り、良い学校へ進み、安定した仕事に就く。
もちろん、その道を望む人もいます。それ自体を否定する必要はありません。
問題は、それ以外の道が見えにくくなっていることです。
教師自身が決められたレールの上だけを歩いていれば、生徒に別の可能性を語っても、なかなか説得力は生まれません。
一方で、教師が自らレールを飛び出し、不確実な世界で誰かに価値を届けようとする姿は、それだけで強いメッセージになります。
人生には、ひとつの正解しかないわけではない。
途中で進路を変えてもいい。
失敗しても、また始められる。
自分の人生を、自分で選んでいい。
そうした自由を、言葉ではなく行動で伝えられるからです。
「教える人」から「挑戦する人」へ
私たちは、自分が教わったようにしか教えられないという呪縛から、そろそろ自由になってもいいのではないでしょうか。
過去に受けた教育を、そのまま次の世代へ渡すだけでは、変化の激しい社会に対応できません。
教師自身が学び直し、学校の外へ出て、異なる価値観と出会う必要があります。
そして、きれいな成功だけを見せるのではなく、迷いや葛藤、失敗も含めた一人の人間としての姿を、生徒の前に差し出していく。
私は、そうした「まるごとの大人」の姿こそが、子どもたちに未来への希望を与えるのだと思います。
立派でなくてもいい。
完璧でなくてもいい。
大切なのは、大人自身が何かに心を動かされ、自分の意思で一歩を踏み出していることです。
教師が挑戦すれば、すべてがうまくいくわけではありません。
失敗することもあります。批判されることもあります。学校との両立に苦しむこともあるでしょう。
それでも、挑戦をやめない大人の存在は、生徒たちにこう伝えます。
人生は、誰かに用意されたレールを歩くだけのものではない。
何歳からでも学べる。
失敗しても、自分の手で次の道をつくることができる。
教室という平均台の上だけで、落ちないように歩き続ける必要はありません。
少しだけ足を下ろし、学校の外にある広い世界へ触れてみる。
そこには、教科書には載っていない学びがあります。
そして、その学びを持ち帰った教師は、以前よりもずっと深く、人生について生徒と語れるはずです。

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