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恋しい彼の忘れ方

私は、既婚者なのに、かつての同級生に恋をした。


月明かり

──彼と再会したのは、三年前。
中学校時代のクラブチームの同窓会だった。十七年ぶりに顔を合わせる仲間たち。
あの日の私は、集合時間に遅れそうになり、焦りながら車を走らせていた。
その途中、スマホが鳴る。

「ごめん、遅くなるから先に始めてて。俺はタクシー拾ってあとから合流します」

画面に映されたのは、天真爛漫で、当時いちばん背の低かった彼からのメッセージだった。
信号待ちの間に、「私、車だから迎えに行くよ」と返し、私は駅へ向かった。

駅に着くと、一人の男性が手をひらひらと振っていた。
「え! 背たかっ!」
思わず車の中で声が出た。
中学生の頃、同級生の中でいちばん背が低かった彼は、見上げるほどの長身になっていた。
「久しぶり」
そう言って身体を丸めて助手席に乗り込んだ彼は、私の顔を見て笑った。
「声、変わったね」


同窓会が終わったあとも、私は彼を送ることになった。
帰り道、身の上話をしていると、彼がぽつりと言った。
「海に行ってもいい? 今度の作品の参考にしたいんだ」

私は暗所恐怖症だ。夜の海なんて、考えただけで身の毛がよだつ。
それなのに、その日はなぜか「行ってみよう」と思った。

二人並んで浜辺を歩く。
ヒールを履いていた私の手を、彼が自然に取ってくれた。
歩を進めるなかで、彼は「波の観察」と言いながら、沖にせり出す埠頭の際ぎりぎりまでためらいなく近づき、打ちつける荒波をのぞき込む。
波しぶきが足元まで飛んできて、見ている私は、そのたびに心臓が跳ね上がる。
そんな私を見て、彼は昔と変わらない笑顔で笑う。
その笑顔に、不思議と安心している自分がいた。

彼が煙草に火をつける間、私は東屋のベンチに腰を下ろし、静かに夜の海を見つめた。

闇は真っ暗ではなかった。

月明かりが海を照らし、イカ釣り船の灯りが沖に揺れている。風車が白く浮かび上がり、波の音が夜を満たしていた。
怖いはずだった闇は、恐れるだけのものではなくなっていた。

彼が隣に腰を下ろした。
風下で吸ってくれていた彼から、ふわっと煙草の匂いがした。

それまでの私は、煙草が嫌いだった。臭いし、煙いし、おじいちゃんを亡くした原因でもあった。
「煙草、好きなの?」
そう聞くと、彼は少し間を置いて答えた。
「亡くなった幼なじみの形見だから」

私は、おじいちゃんの話をした。
「若い頃、親がいないことで馬鹿にされないようにって、煙草を吸い始めたんだって。吸いすぎちゃったのかな。肺がんで亡くなったんだ」

彼は私の顔を覗き込むように見つめて言った。
「おもしろい」

私は思わず彼を見た。
悲しい話をしたつもりだった。
なのに、「おもしろい」と言われた。
彼は、出来事ではなく、その奥にあるものを見ていた。

その瞬間、おじいちゃんは、不幸な人生を生きた人ではなかったのかもしれないと思えた。
誰かに流された人生ではなく、自分で選び、生き抜いた人生だったのだと。
胸の奥が、ぽっと温かくなった。
同時に、彼の見ている世界を、もっと見てみたいと思った。
不思議と、その夜だけは、煙草の匂いが嫌ではなかった。
あの匂いまで、彼という人の一部のように思えた。

あの夜、私は恋をしたのだと思う。
でも今振り返ると、恋をした相手は彼だけではなかった。
彼の隣で見えた世界。
暗闇にも光がある。
そのことを、私は初めて知ったのだった。


失ったもの

あの日、私たちはハグをして別れた。最後に冗談を言って笑い合いながら。

けれど朝になれば、いつもの日常が待っていた。
「お母さん、給食の箸が見つからない!」
「ママ、靴下、一緒に取りに行こうよ。」

あちらからもこちらからも、私を呼ぶ声がする。

私は食洗機を勢いよく開け、「ほら、ここ!」と指をさす。長男の「ありがとう」に、「はいよ」と短く返す。次は小走りで洗濯物の山をかき分け、娘の靴下を見つけて放る。

洗濯機が鳴る。時計を見る。

あと10分で洗濯物を2回分干さないと。そのあと化粧をして、子どもたちを園へ送って、仕事へ向かう。

呼吸が、どんどん浅くなっていくのがわかった。

ワンオペで回す毎日。時短勤務では終わらない仕事。子どもたちのお世話。

「時間」を気にして。
「効率」を気にして。
「やるべきこと」を気にして。
「他者」を気にして。

私は、いつも誰かのために生きていた。

もう、いっぱいいっぱいだった。自分のことを考える余裕なんてなかった。

「自分のために時間をつくりましょう。」

そんな言葉を聞くたびに、「そんな時間があるなら、くれよ」と心の中で毒づいていた。

二十四時間営業の母親業は、休憩も閉店時間もない。

今日は閉店です、と言ってしまえたらどんなに楽だろう。

だから夜になる頃の私は、最高にブサイクだった。
「早く寝なさい!」
子どもたちに怒鳴り散らかし、自己嫌悪のまま一日を終える。

そんな毎日の中で、ふと彼を思い出すことが増えていった。

コンビニで煙草を吸う人を見かけるたび、あの夜の煙草の匂いがよみがえる。

夜になると、彼に抱きしめられた私の身体の輪郭を、自分の腕でそっとなぞった。

失恋ソングを聴いては、彼との夜を何度も思い返した。

彼との秘密の夜が、私を支えてくれていた。あの夜を思い出すだけで、乾ききっていた毎日に、少しだけ色が戻る。
誰かに求められる歓びを思い出し、女である自分が少しずつ息を吹き返していくようだった。

子どもたちは帰宅すると、それぞれ好きなテレビを見て過ごしている。
それなら、私だって好きなことをしてもいいじゃないか。

そう思って、次に彼と会う日のためにメイクを研究したり、LINEのやり取りを何度も読み返したりした。

恋愛小説や漫画を読みふける時間は増え、そのぶん、子どもたちと目を合わせて話す時間や、「今日は何を作ろう」と夕飯を考える時間は、少しずつ減っていった。

「どうでもいい。」
その言葉は、気づけば心の中に居座るようになっていた。

彼は、やり取りの中で「好き」とは言ってくれなかった。
電話もだめ、と言った。
あの夜は、キスまで求めてくれたのに。

どうして。
もっと深くつながりたい。

その想いだけが、私を支配していた。

私は「彼 夢中にさせる方法」と検索した。連絡の頻度を変えること。追いかけすぎないこと。思いやりのある言葉を選ぶこと。

そんな記事を読みながら、気づけば振り回されているのは私のほうだった。

彼は作家だった。
夜更かしが多く、返信も気まぐれだった。

最初はすぐ返ってきたメッセージも、一か月ほど経つと既読のまま止まることが増えた。

通知音が鳴る。思わずスマホを見る。

……違う。
彼じゃない。

勝手に期待して、勝手に傷ついていた。

どうしたら彼を振り向かせられるのか。
どうしたら私を求めてくれるのか。
どうしたら会えるのか。
どうしたら、あの夜をもう一度取り戻せるのか。

私の頭は、その問いだけを何度も繰り返していた。

二度目に会った日、彼は私を抱こうとした。私も彼が好きだった。
だから一瞬、このままでもいいと思った。
けれど、その瞬間、頭に浮かんだのは夫でも、世間体でもなかった。

「誰も傷つけたくない」

その想いだけだった。
私は彼の手を、そっとほどいた。

それでも、恋心は終わらなかった。

離れてからのほうが、彼を求める気持ちは強くなっていった。

家族からの連絡には一日以上返信しないこともあるのに、彼から通知が届けば、反射的にスマホを開き、すぐに返信していた。

けれど、その高揚感は長くは続かない。
通知を見終える頃には、また薄暗い闇が心を覆っていく。

何をしていても心は満たされず、仕事にも手がつかない。
毎日を、ただこなしているだけだった。

「私、何をやっているんだろう」

そう思いながらも、あの夜に見えていた灯りは、もうどこにも見えなかった。

私は、彼を追いかけているつもりだった。
でも、本当に追いかけていたのは彼ではない。

あの夜、彼の隣で、ちゃんと息をしていた私を。
私は、必死に探していたのだ。


ちいさな声

彼のことばかり考えていた。
LINEの通知に一喜一憂し、返事が来ない理由ばかり探していた。

どうしたら振り向いてくれるだろう。
どうしたら、もっと近づけるだろう。
私の世界は、彼を中心に回っていた。

そんな頃だった。

月に一度通っていた子育て講座で、私はある違和感を口にした。

そこでは、「褒め褒めワーク」という、自分や子どもの良いところに目を向け、自分自身を認める取り組みをしていた。

みんなは少しずつ表情が明るくなっていく。なのに、私は苦しかった。

自分を褒めるたびに、
「誰かも、そう言って」
そんな心の声が大きくなっていく。

投稿ボタンを押す。

スマホを閉じる。

また開く。

コメントは来ているだろうか。

誰か見てくれただろうか。

通知のない画面を見るたび、胸の奥がざらついた。

「またやってる」
「また求めてる」

そう気づくたび、自分を責めた。
みんなは、自分を褒めることで前を向いている。
どうして私は、誰かを求めてしまうんだろう。
どうして、私だけ苦しいんだろう。
そのとき、ようやく気づいた。
私は、自分で自分を認めようとしているのではなかった。
誰かに認めてもらうために、自分を褒めていたのだ。

──自分を満たすって、どういうことなんだろう。

その問いを何度も繰り返していた。

すると、不思議なことに、心の奥で、ずっと聞こえないふりをしていた声が浮かんできた。

「私を見て」
「私を認めて」

もう、その声を無視することはできなかった。
勇気を出して、先生へメッセージを送った。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

私は、自分の中にある無価値感に気づきました。

幼い頃、両親の喧嘩を見て、「私がいるからだ」と思っていました。

母から「能無し」「役立たず」と言われたこともあります。

だから私は、「感情なんてなくなればいい」と思って生きてきました。

誰かに認められたい。

でも、認められたいと思う自分も嫌い。

私は、そんな自分に疲れていました。  

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

先生から返ってきた言葉は、私を変えようとするものではなかった。
責める言葉も、励ます言葉もなかった。

「本当に長い間、よく頑張ってこられましたね。幼い頃のあなたを守るために、そうやって生きてこられたのですね」

画面が涙で滲んだ。
止めようとしても、涙は止まらなかった。

ああ。

私が欲しかったのは、正しい答えじゃなかった。
「頑張ってきたね」
その一言だった。

私は、母に認められたかった。

愛されたかった。

ずっと、自分には価値がないと思い込んで生きてきた。

だから、彼にも「私を見て」と願っていた。

でも、そのとき初めてわかった。

私が本当に会いたかったのは、彼じゃない。

泣くことも許されず、

「寂しい」と言うこともできず、

「感情なんてなくなればいい」と、小さな胸で言い聞かせた、あの日の私だった。

子どもたちが眠る隣で、私は声を殺して泣いた。

もう我慢しなくていい。

泣いてもいい。

その涙は、悲しみだけではなかった。

長い間、心の奥に閉じ込めていた幼い私が、ようやく外へ出てこられた涙だった。

ひとしきり泣き終えたあと、不思議と母の顔が浮かんだ。

母もまた、本音を飲み込んだまま、大人になった人だったのかもしれない。

愛し方を知らなかったのではない。
愛された記憶が、少なかっただけなのかもしれない。

そう思った瞬間、責める気持ちは少しずつほどけていった。

私は初めて、自分にも母にも、
「仕方なかった」
そう言えた気がした。


書くことは自分への愛

彼を追いかける苦しさの中で、私は少しずつ、自分の心の癖に気づき始めていた。

先生から届いた言葉を、何度も何度も読み返す。

泣いて、泣いて、泣き尽くしたあと、不思議なくらい心は静かだった。

そして、ふと思った。

「きっとこの恋は、私が私を認めるまで終わらない。」

彼に向かっていた想いを、今度は自分の内側へ向けてみよう。
言葉にしてみたら、何かが変わるかもしれない。

そう思い、私は小説を書き始めた。

彼との出来事を、そのまま恋愛として描きたかったわけではない。
あの夜、私の心の中で起きていたことを、物語という器に移し替えてみたかった。

書き始めると、不思議だった。
彼を書いているはずなのに、浮かび上がってくるのは、私自身の心だった。

書き進めた冒頭を、創作の相談として彼にも送ってみた。
返ってきたのは、作品そのものを見つめた感想だった。

「紡がれる言葉が綺麗で目が離せない。
 感度と鮮度は、作家のエンジンなんだ。
 正直、感動した。
 一度書き切って、賞に出してみてほしい。」

その言葉は、嬉しかった。
もちろん、彼が褒めてくれたことも。

でも、それ以上に嬉しかったのは、私の感じたことが、初めて「作品」として誰かに届いたことだった。

それから再び彼と会う機会があった。
初めて夜の海を見た日から、3年。
その日は彼の車で、昼間の海沿いを走った。目的地は、あの日、遠くから眺めていた灯台だった。

私は主人公の名前を変え、彼との再会を書いた。
タイトルは、『月とリリスの境界線』。

「月」は、ありのままの私。
「リリス」は、心の奥に眠っていた衝動。

灯台へ続く道。

波の匂い。

車の中に流れる沈黙。

触れそうで、触れない距離。

身体は求めている。

でも、越えない。

誰も傷つけたくない。

その境界線を、私は夢中で書いた。

書き終えたとき、ようやく形になったと思った。
私が描きたかったのは、恋ではない。
あの夜、私の中で生まれた光だった。

そう信じて、私はその作品を送り出した。

しかし、返ってきた講評は、予想とはまったく違っていた。

「描写はいいです」

そう前置きされたあとで、先生は言った。

「でも、大輝と蓮歌は、なぜ別れたのですか。なぜ、また会うことになったのでしょう。」

そして最後に、一言。

「『誰も傷つけたくない』は、きれいごとです。書くべきことから、逃げないでください。」

画面を見つめたまま、動けなかった。

違う。

違うんです。

私は、本当に誰も傷つけたくなかった。

彼も。

夫も。

彼の奥さんも。

子どもたちも。

だからこそ、一線だけは越えないと決めていた。

あの日からずっと、自分の本能を必死に押さえ続けてきた。

それなのに。

どうして、きれいごとなんだろう。

悔しかった。

悲しかった。

私の苦しさは、伝わらなかった。

そう思った。

けれど、先生の言葉は、時間とともに少しずつ私の中で形を変えていった。

先生は、「誰も傷つけたくない」という願いを否定したかったわけじゃない。

私が、まだ書いていない私を見ていたのだ。

私は、「誰も傷つけたくない私」は書いた。

でも、その奥にいた、

嫉妬する私。

欲しかった私。

抱きしめられたかった私。

認められたかった私。

母に愛されたかった私。

その子を書いていなかった。

私は、「汚い」と思い込んでいた感情に、まだ光を当てていなかった。

綺麗でありたいと願った私は、影を隠し、光だけを見せようとしていた。

誰よりも薄汚れていたのは、恋をした私ではない。

「綺麗な私」でいようとし続けた私だった。

幼い頃から、いい子でいなければ愛されないと思って生きてきた。

だから大人になっても、

「こんな私を見せたら嫌われる。」

その恐れは、文章の中にも残っていた。

ああ。

私は、まだ自分を守っていたんだ。

そう気づいたとき、不思議と講評への悔しさは消えていた。

代わりに、静かな覚悟が胸の奥に宿った。

書こう。

恋を美しく見せるためではない。

私を正しく見せるためでもない。

恋を通して出会った、本当の私を書こう。

誰にも見せたくなかった私も。

誰にも言えなかった私も。

「こんなことを書いたら嫌われるかもしれない」
その恐れごと、文章にしよう。

そう決めたとき、この作品は小説ではなく、エッセイになった。

私は、この恋を書きたいのではない。

この恋を通して出会った「私」を書きたい。

そして、もしこの物語を読んだ誰かが、

自分の心の奥にも、見ないふりをしてきた感情があったことに気づいたなら。

その人もまた、自分自身に出会えるかもしれない。

だから私は、もう逃げない。

書くべきことから、逃げない。

あの日、夜の海で知ったように、

闇は、真っ暗ではなかった。

そして今なら分かる。

光は、誰かが照らしてくれるものではない。

自分の影を受け入れたとき、初めて見えてくるものだった。


私に出会えた日

「どうして、私は彼を忘れられないんだろう」

その問いから始まった旅は、いつしか別の問いへ変わっていた。

「私は、本当は何を求めているんだろう」

その頃の私は、一人で考えることに限界を感じていた。

本を読んでも。
心理学を学んでも。
ノートに書き出しても。

最後には、同じ場所へ戻ってしまう。

そんなある日、一つの対話を始めた。

最初は、ただ答えが欲しかった。
彼を忘れる方法を知りたかった。
けれど返ってくるのは、答えではなく問いだった。

「そのとき、何を感じましたか」
「その言葉は、本当に彼へ向いていますか」
「その願いは、もっと昔からありませんでしたか」

何度も問い返される。

不思議だった。

否定されない。

急いで励まされない。

「大丈夫ですよ」とも言われない。

ただ、私の言葉を丁寧に拾い、一緒に見つめてくれる。

それだけだった。

だから私は、少しずつ、自分でも知らなかった言葉を話し始めた。

母に認められたかったこと。
愛されたかったこと。
泣けなかったこと。
いい子でい続けたこと。
与えたいと言いながら、本当は受け取りたかったこと。

一つ言葉になるたび、胸の奥で眠っていた私が、少しずつ息を吹き返していくようだった。

ある日、こんな言葉を受け取った。

「これは、彼を忘れる物語ではありません」「彼を通して、本当の自分に出会う物語です」

その一文を読んだ瞬間、涙があふれた。
そうだった。

私は、彼を忘れたかったんじゃない。

彼を好きになった意味を知りたかった。

あの恋は、私を苦しめるために起きた出来事ではなかった。

私を、私自身のところへ連れ戻すための出来事だった。

彼は、傷をくれた人ではない。
私の傷に、光を当ててくれた人だった。

そう思えたとき、彼ばかりを見つめていた視線は、少しずつ自分へ向き始めた。

私は何が好きなんだろう。

私は何を書きたいんだろう。

私は、どう生きたいんだろう。

創作を続けていたある日、ふと本棚の一冊を手に取った。

開いたページには、こんな言葉があった。

「あなた自身は、どういう人であるのか。
いかに生きてきて、いかに生きてゆこうとしているのか。
それを情熱をもって語ることができるだろうか。」

涙がこぼれた。

ああ、そうか。

私はずっと、「彼をどう忘れるか」を探していたんじゃない。

「私は、どう生きたいのか」

その答えを探していたんだ。

彼は、自分の感性を信じて生きる人だった。だから私は、その光に惹かれた。

でも、本当は彼になりたかったわけじゃない。

私も、自分の感性を信じきって、自分の光で生きたいと願っていた。
だから、人生を熱っぽく語る彼のことが眩しく見えたんだ。
大好きだったんだ。

忘れようと戦っていた頃は苦しかった。

でも今は、人生の大切な一ページとして静かに抱きしめられる。

彼に出会って、私はようやく、私に出会えた。

ありがとう。

あなたに恋をしたことは、私の人生の間違いではありませんでした。

人生が私にくれた、大切な問いでした。

あなたのことは、きっとこれからも好きです。

その私のまま、私は私の人生を歩いていきます。

書くことを選びます。

自分の感性を信じます。

ありのままの私で、生きてみます。

いつか、どこかで再会する日が来たなら、胸を張って伝えたい。

「ありがとう」

「あなたがくれた問いを、私はちゃんと生きました」

そう笑えたら、それで十分です。 

──恋しい彼を忘れた日ではなく、本当の私に出会えた日が、私の人生の始まりだった。






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