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シンデレラ・ブラックドレス 第4話|王妃様、洗濯場で手を出す

王妃になってから、シンデレラは少しずつ公務に出るようになった。

晩餐会。
短い舞踏会。
城下への挨拶。
貴族夫人たちとのお茶会。

どの場でも、人々は優しく笑った。

「王妃様は、本当にお幸せそうですわね」

「王子様は、お優しい方でしょう」

「まるで物語の続きを見ているようですわ」

シンデレラは、そのたびに笑った。

「ええ。とても」

嘘ではなかった。

幸せなのは、本当だった。

王子様は優しい。
城の人たちも、少しずつ自分を受け入れてくれている。
寝室には安物の毛布がある。
厨房には、湯気の立つまかないがある。
晩餐が冷めた夜には、二人で厨房まで料理を運んだ。

めでたしめでたしの続きは、少しずつ形になっている。

そう思える日もあった。

けれど、同じ言葉を返すたびに、喉の奥が少しだけ狭くなる日もあった。

「王妃様は、本当にお幸せそうですわね」

「王子様は、お優しい方でしょう」

「王妃様になられて、もう何もご不自由はありませんわね」

その中には、イザベル夫人の声もあった。

「王妃様は、本当に頑張っていらっしゃるのね。もうすっかりお城に慣れてこられたようで」

イザベル夫人は、美しく微笑んだ。

丁寧な褒め言葉のはずだった。
けれど、シンデレラはなぜか、少しだけ背筋を伸ばしてしまった。

そのたびに、シンデレラは思ってしまう。


幸せです。


でも、眠れない夜もありました。



優しいです。



でも、帰るなら連絡してほしい夜もありました。



不自由はありません。



でも、自由になったはずの場所で、何をしていいのかわからなくなることがあります。

もちろん、そんなことは言えなかった。

社交の場では、笑う。

王妃として、綺麗に笑う。

その横で、扇の陰の小さな声が聞こえることもあった。

「灰かぶりだった方でしょう」

「でも、お綺麗ですわね」

「王子様は、本当にお優しいのね」

「王妃様としては、まだ少し……」

聞こえている。

でも、聞こえていないふりをする。

それも、王妃の仕事なのかもしれない。

そう思いながら、シンデレラはその日も、背筋を伸ばして笑った。

そして城へ戻るころには、少しだけ息が浅くなっていた。

そういう日のあと、シンデレラの足は自然と厨房へ向かうようになった。

「王妃様、また厨房ですか」

リナが小さく言った。

声は少し呆れていたが、もう本気で止める気はなさそうだった。

「ええ」

「今日は舞踏会のあとですよ」

「だからです」

「だから厨房ですか」

「はい」

リナは、もう何度目かわからないため息をついた。

「王妃様の行動は、だんだん読めるようになってきました」

「それは良いことですか」

「私の仕事としては良いことです。王妃様として良いかは、まだ判断しかねます」

「料理長と同じことを言いますね」

「料理長の影響です」

厨房に入ると、料理長はもう驚かなかった。

大柄な身体を少しだけこちらへ向け、静かに頭を下げる。

「王妃様。今日は温かいものにいたしましょうか。それとも、少し甘いものがよろしいですか」

その言い方が、あまりにも自然だったので、リナが横で目を細めた。

「料理長まで、王妃様が来る前提になっています」

「来られましたので」

料理長は落ち着いて答えた。

「それに、今日はお疲れの顔です」

シンデレラは、自分の頬に手を当てた。

「そんなに出ていますか」

「出ています」

リナと料理長が同時に言った。

シンデレラは少し笑った。

「では、少し温かいものを」

「かしこまりました」

料理長は、玉ねぎのスープを出してくれた。

よく炒められた玉ねぎの甘い匂いが、湯気と一緒に立ちのぼる。

その横には、細く切って焼かれたパンの端が添えられていた。
王妃の皿には乗らない、余りの部分だった。

シンデレラは、それをひとつ摘まんだ。

硬い。
少し焦げている。
でも、噛むほどに香ばしかった。

「これ、好きです」

「パンの端でございます」

料理長は少しだけ照れたように言った。

「王妃様の皿には乗りませんが、厨房では人気です」

「端のものは、気が楽です」

リナが横で小さく笑った。

「王妃様、それは褒め言葉ですか」

「たぶん」

シンデレラはスープの器を両手で持った。

温かい。

社交界の笑顔で固まった指先が、少しずつほどけていくようだった。

しばらく、厨房の音だけがした。

鍋が鳴る音。
包丁がまな板を叩く音。
誰かが水を流す音。
リナが隣でパンの端をこっそりつまむ音。

シンデレラはスープを少し飲んだあと、小さく息を吐いた。

「今日も、言われました」

リナが顔を上げた。

「何をですか」

「王子様は本当にお優しい方でしょう、って」

リナは少し黙った。

料理長も、手を止めずに聞いていた。

「実際、お優しいですけど」

リナが言う。

「ええ。優しいです」

シンデレラはうなずいた。

「でも、それだけを毎回言うのは、少し疲れます」

リナは、今度は何も言わなかった。

料理長も、何も言わなかった。

ただ、スープの器を少しだけシンデレラの近くへ押した。

その沈黙が、シンデレラにはありがたかった。

正しい答えを返さなくていい。
綺麗な笑顔を作らなくていい。
ただ、温かいものを手に持っていればいい。

厨房は、そういう場所になり始めていた。

「少し、手を動かしてもいいですか」

シンデレラは言った。

リナがすぐに反応した。

「王妃様」

料理長も、少しだけ眉を上げた。

「包丁はお渡しできません」

返事が早かった。

シンデレラは思わず笑った。

「まだ何も言っていません」

「先に申し上げておきます。王妃様に刃物をお渡しするのは、料理長としておすすめできません」

「おすすめではなく、禁止なのでは」

リナが横から言う。

料理長は少しだけ考えた。

「ほぼ禁止です」

「ほぼ」

シンデレラは小さく笑った。

「切らなくてもいいです。並べるだけでも」

料理長はしばらく黙った。

それから、パンの端をのせた皿を見た。

「では、こちらを小皿に分けていただけますか」

「それなら、よろしいのですか」

「刃物も火も使いませんので」

「私は止めました、ということですね」

リナが言うと、料理長は真顔でうなずいた。

「私は止めました」

「その上で乗っていますね」

「王妃様の気が紛れるのであれば、少しくらいは」

料理長は、パンの端を小皿の近くへ寄せた。

「厨房では、休むつもりで来た者が、いつの間にか豆の筋を取っていることもあります」

「それは休めているのですか」

リナが聞くと、料理長は少し考えた。

「少なくとも、何も考えずに済む時はあります」

シンデレラは、パンの端をひとつ手に取った。

小さな皿に、ひとつずつ分けていく。

大きさをそろえる。
焦げたところを少し横にする。
甘いものと、しょっぱいものを分ける。

それだけのことなのに、少しずつ呼吸が戻ってくる気がした。

社交界では、言葉を整える。
扇の陰の声に気づかないふりをする。
幸せそうですね、と言われれば、幸せですと返す。

でも厨房では、手を動かしていれば、言葉を探さなくてよかった。

それが、今のシンデレラにはありがたかった。

翌日、シンデレラには初めての慰問公務があった。

王都のはずれにある慈善院を訪れることになっていた。

王妃としては、子どもたちに会い、院長に挨拶をし、寄付の品を渡す。

それだけでよかった。

リナは朝から少し緊張していた。

「王妃様、今日は厨房ではありませんからね」

「わかっています」

「洗濯場でもありません」

「まだ行くとは言っていません」

「まだ、という言い方が不安です」

シンデレラは笑った。

王子様も同行することになっていた。

「無理をしなくていい」

馬車に乗る前、王子様は言った。

「今日は挨拶が中心だ。院長の話を聞いて、子どもたちに会えばいい」

「はい」

「困ったら、僕を見るといい」

「見たら助けてくださいますか」

「もちろん」

王子様はそう言って微笑んだ。

その笑顔は、本当に優しかった。

だからシンデレラは少し安心した。

慈善院は、城から少し離れた場所にあった。

古い建物だったが、掃除は行き届いていた。
窓辺には小さな花が置かれ、子どもたちの靴は入り口にそろえられていた。

院長は深く頭を下げた。

「王子殿下、王妃様。本日はようこそお越しくださいました」

子どもたちは、少し緊張した顔で並んでいた。

シンデレラは膝を折り、目の高さを合わせた。

「こんにちは」

小さな女の子が、おずおずと答えた。

「こんにちは、王妃様」

その声を聞いて、シンデレラの胸が少しだけ柔らかくなった。

ここでは、社交界のような扇の音はしなかった。

ただ、子どもたちの小さな息づかいがあった。

挨拶は無事に終わった。

寄付の品も渡した。
院長は感謝の言葉を述べた。
王子様も穏やかに応じた。

そこで終わるはずだった。

けれど、シンデレラは廊下の奥から漂ってくる湿った布の匂いに気づいた。

洗濯物の匂いだった。

石けんと、水と、乾ききらない布の匂い。

シンデレラは足を止めた。

「この奥は?」

院長は少し驚いたように答えた。

「洗濯場でございます。子どもたちの服や寝具を洗っております」

「見てもよろしいですか」

院長が一瞬固まった。

リナが小さく息を飲んだ。

王子様はシンデレラを見た。

「見たい?」

「はい」

王子様は少しだけ笑った。

「では、邪魔をしない程度に」

リナが小声で言った。

「殿下まで料理長みたいなことを」

洗濯場は、建物の裏手にあった。

大きな桶が並び、石の床は水で濡れている。
物干し場には、子どもたちの服や薄い毛布がかけられていた。

洗濯を担当している女性たちは、王子様と王妃様を見て慌てて手を止めた。

「そのままで」

シンデレラはすぐに言った。

「続けてください。見せていただくだけです」

そう言ったつもりだった。

本当に、見せてもらうだけのつもりだった。

けれど、シンデレラの目はすぐにいくつかのことに気づいてしまった。

厚い毛布と薄い布が同じ場所に干されている。
風の通りにくい壁際に、乾きにくいものが集まっている。
水を汲む桶と、すすぎの桶の距離が少し遠い。
手荒れをした女性が、冷たい水に何度も手を入れている。

そして、子どもたちの毛布が、思っていたよりずっと薄かった。

シンデレラは黙っていられなかった。

「この毛布」

院長がびくりとした。

「はい」

「干す場所を変えた方が、早く乾くと思います」

洗濯場の空気が止まった。

リナは目を閉じた。

王子様は少しだけ眉を上げた。

シンデレラは続けた。

「壁際ではなく、こちらの風が抜ける場所に。薄い布はそちらでも乾きます。でも厚いものは、ここだと時間がかかります」

洗濯係の女性たちは、ぽかんとしていた。

院長も言葉が出ないようだった。

シンデレラは、はっとして口を押さえた。

「すみません。勝手なことを」

王妃が洗濯場で干し方に口を出す。

きっと、正しい姿ではない。

けれど、洗濯係の一人が、おそるおそる言った。

「……たしかに、そちらの方が風は通ります」

別の女性も、小さくうなずいた。

「でも、そこはいつも子どもたちの服を先に干していて」

「順番を変えれば」

シンデレラはまた言いかけて、今度は少しだけ王子様を見た。

王子様は、何も言わずにうなずいた。

それは、第3話の晩餐の時とは違う沈黙だった。

言っていい。

そう言われた気がした。

「順番を変えれば、毛布が先に乾きます。子どもたちの服は、薄いものなら後でも大丈夫かもしれません」

洗濯係の女性が、少し考えた。

「たしかに」

院長がようやく口を開いた。

「王妃様は、洗濯をなさったことが?」

シンデレラは少しだけ笑った。

「たくさん」

その一言に、洗濯場の空気がほんの少し変わった。

王妃様としての答えではなかった。

でも、嘘ではなかった。

シンデレラは、薄い毛布の端に手を伸ばした。

リナが慌てた。

「王妃様」

「少しだけです」

「少しだけ、で済んだことがありません」

「今回は済ませます」

王子様が横で小さく笑った。

シンデレラは毛布を持ち上げた。

濡れた毛布は、見た目より重かった。

水を含んだ布の重さが、手首にかかる。

懐かしい重さだった。

灰かぶりだったころ、こういう重さは毎日のようにあった。

あの頃は嫌だった。

逃げ出したかった。

けれど今、同じ重さを持つと、不思議と手が覚えていた。

どこを持てば水が垂れにくいか。
どう広げれば、布が重ならないか。
どちら側を風に向ければ乾きやすいか。

シンデレラは、洗濯係の女性と一緒に毛布を干し直した。

洗濯場の人々は、最初は止まっていた。

けれど、ひとりが動き、またひとりが動き、やがて洗濯物の場所が少しずつ変わっていった。

王子様は、少し離れたところでそれを見ていた。

リナは隣で、半分あきれたように言った。

「王妃様、完全に手を出しています」

「そうだね」

王子様は言った。

「止めますか」

「今さら?」

「今さらです」

王子様は小さく笑った。

「止めないよ。楽しそうだ」

「楽しそう、ですか」

「うん。少なくとも、舞踏会で笑っている時よりは」

リナは、その言葉に少しだけ黙った。

シンデレラは、最後の毛布を風の通る場所に移した。

それだけで、洗濯場が劇的に変わったわけではない。

国の貧しさが消えたわけでもない。
子どもたちの寝具が急に増えたわけでもない。
洗濯係の手荒れが治ったわけでもない。

けれど、毛布は少し乾きやすくなった。

それは小さなことだった。

けれど、シンデレラには大事なことに思えた。

慈善院を出るころ、院長は何度も頭を下げた。

「王妃様自ら、このようなことまで」

シンデレラは首を振った。

「私は、少し手を出しただけです」

「それでも、助かりました」

その言葉は、社交界の褒め言葉とは少し違った。

綺麗に整えられた言葉ではない。

でも、身体に近いところに届いた。

馬車に乗る前、王子様が言った。

「疲れた?」

「少し」

「でも、顔は明るい」

シンデレラは、自分の手を見た。

少しだけ赤くなっている。

洗濯場の水で冷えた手。

王妃としては、きっと正しくない手。

けれど、何もしていない手よりは、落ち着く手だった。

「王妃として、何をすればいいのか、少しわかった気がします」

王子様は静かに聞いていた。

「私は、綺麗に笑うのがまだ上手ではありません」

「そうかな」

「上手そうに見せることは、少しできます」

「それは、少し違うね」

「はい」

シンデレラは、馬車の窓から慈善院を見た。

物干し場では、毛布が風に揺れていた。

「でも、毛布の重さや、乾かない布の困り方は、少しわかります」

王子様は、ゆっくりとうなずいた。

「それは、君にしか見えないものかもしれない」

「王妃様なのに、ですか」

「王妃様だから、じゃないかな」

シンデレラは王子様を見た。

王子様は少し照れたように笑った。

「うまく言えないけど。君が見ているところを、僕はたぶん見ていなかった」

シンデレラは、その言葉を胸の中で何度か転がした。

君が見ているところ。

それは、社交界の真ん中ではなかった。

舞踏会の光の中でもない。
白い皿の上でもない。
絹の布団の上でもない。

毛布の重さ。
まかないの湯気。
冷めた料理の温め直し。
乾きにくい洗濯物。

そういう、端の方にあるものだった。

その日の夜、シンデレラは厨房に寄った。

リナは何も言わなかった。

料理長は、温かいスープを出してくれた。

「今日は、甘いものよりこちらかと」

「どうしてですか」

「手を使った日は、温かいものがよろしいです」

シンデレラは器を受け取った。

「ありがとうございます」

料理長は少しだけ頭を下げた。

「洗濯場で手を出されたそうですな」

リナが横で言った。

「もう城中に伝わっています」

「早いですね」

「王妃様が洗濯場で毛布を干したのです。早いに決まっています」

シンデレラは少しだけ恥ずかしくなった。

けれど、嫌ではなかった。

料理長は静かに言った。

「よろしいのではないでしょうか」

「よろしいのですか」

「王妃様の手が、何に向いているのか。少しずつわかってきたということでしょう」

シンデレラは、温かいスープを見つめた。

王妃として何をするのか。

まだ、はっきりとはわからない。

でも、綺麗に笑うだけではないのかもしれない。

端に置かれたものを見る。
使い道がないと思われたものに、別の形を見つける。
乾きにくい毛布を、風の通る場所へ移す。

それくらいなら、自分にもできるかもしれない。

めでたしめでたしの続きには、舞踏会だけではなく、洗濯場もある。

シンデレラはスープを飲んだ。

温かかった。

その温かさは、社交界の拍手よりもずっと静かで、ずっと身体に近かった。

翌朝、リナが小さな布包みを持ってきた。

「王妃様、クラリス女官長からです」

「クラリスから?」

シンデレラが布包みを開くと、中には薄い手袋と、小さな軟膏の瓶が入っていた。

リナは、少し緊張した顔で言った。

「伝言もございます」

「何と?」

リナは背筋を伸ばし、クラリスの声をまねるように言った。

「水仕事をなさるなら、次からは手袋を。王妃様の手にも礼儀が必要です」

シンデレラは、しばらく手袋を見つめた。

それから、少しだけ笑った。

「叱られたのでしょうか」

「たぶん」

リナは小さく言った。

「でも、止められてはいないと思います」

シンデレラは軟膏の瓶を手に取った。

第1話の古い毛布を思い出した。

王妃様の部屋に入れるなら、毛布にも礼儀が必要です。

クラリスは、いつも厳しい。

けれど、全部を取り上げる人ではない。

シンデレラは、薄い手袋をそっと撫でた。

「では、次からは手袋をします」

リナは目を丸くした。

「次があるのですか」

「たぶん」

「王妃様」

リナは困った顔をした。

けれど、少しだけ笑っていた。

シンデレラも笑った。

王妃の手は、綺麗に飾るだけのものではない。

何かを持つためにもある。

そのことを、まだ誰にも大きな声では言えなかった。

けれど、薄い手袋と小さな軟膏は、王宮のどこかがそれを少しだけ見逃してくれている証のように思えた。

めでたしめでたしの続きは、今日も少しずつ、予定とは違う場所へ広がっていく。


次回:
第5話|ガラスの靴は、偶然だったのか


前回:
第3話|王子様、帰るなら連絡して


※この物語は「第0話|黒いドレスの王妃様」から繋がっています。プロローグがまだの方はこちらからどうぞ。

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