あきらさんのキッチンテーブル~ここは秘密を食べるカフェです~
2025年創作大賞のお仕事小説部門にて中間選考通過しました。
ありがとうございました!
【あらすじ】
不祥事続きの大手テレビ局・大和テレビ。そのコンプライアンス統括室で働く日下香里は、激務の他に上司との温度感の違いなどからもストレスを抱え込みつつ、真面目に働いていた。
ある夜、香里は職場にいたくないという気持ちに駆られて、近所の雑居ビルへの屋上へと足を運んだ。そこで出会ったのが、カフェ『あかり』の店主・あきらだった。静謐で不思議なカフェと、あきらの言葉、そして「キッチンテーブル」での料理のひとときが、香里の心を少しずつ解きほぐしていく。「秘密を食べるカフェ」は、香里が自分の中の迷いと向き合う場となった――これは、都会の片隅にある癒やしの物語。
きらきらと、星みたいに輝く世界だと思っていた。
星のうしろには、一切の輝きを吸い込んでいくブラックホールがあることも知らずに。
▶ACT1
「明日、記事が出ます。今度は、ドラマ部門のプロデューサーの使い込み疑惑で――」
上司の話を聞きながら、日下香里は意識が遠のいていく気がしていた。 また、だ。
くらっと目眩に襲われたかと思うと、どこからかスマートフォンの着信音まで聞こえてきた気がする。それは香里の秘密。今は聞こえるはずのない音――。
香里は、小さく首を横に振る。朝はしっかり巻いて出てきた髪も、ゆるくほどけかけていた。終業時間はとっくに回った午後21時過ぎ。髪どころか化粧を直す気力すらない。
上司の無情な宣告を聞いて、香里は午前様を覚悟した。後回しにできない仕事だと判断する。
スマートフォンの着信音は、耳の奥の残響だ。
ここ最近、大和テレビがニュースで取り上げられない日はないと言っていい。過去から現在に至るまで、不祥事がすっぱ抜かれ続けている。自社の報道部門すら、及び腰でも取材をしに来る。
それが、香里の勤め先の現状だ。
コンプラ意識が低い? ガバナンスが効いていない? そう、そのとおりだ。この会社のコンプライアンスの管理部門に身を置いたばかりの香里も、肯定せざるを得ない。
思わず、ため息が溢れた。
尽きない不始末をどうにかするために、香里は転職してきた。でも、砂で作ったお城を、波から守ろうとするような行為だと思うことも多い。
……そのたびに、どこからかスマートフォンの着信音が聞こえてくる気がする。
香里は小さく首を横に振る。
その音を、誘惑を掻き消すかのように。
軽く頬を叩いて、気合いを入れ直す。
脆いものをつなぎあわせて形にしても、小さな波ひとつで崩れてしまうように、今はひとつのミスだって致命傷になるのだ。それなのに社員の意識は変わらず、古いスキャンダルが引っ張りだされると同時に、新しい不祥事が発覚してしまう。香里の勤め先は、今そんな悪循環のただ中にある。
香里の所属するコンプライアンス統括室は、急ごしらえで1ヶ月前にできたばかりだ。今やるべきことにも手が回らず、よりよい未来にするための布石も打てる状態ではなかった。
沈みゆく船だろうとも、乗っている人間はたくさんいる。沈没だけは避けて、どこかに寄港できるまで、持ちこたえさせなくてはいけない。そのために、香里は働いている。
報道への対応と社内調査を同時に行う手はずを考え、実際に取材対応する人たちのために想定問答集を作ったり、社員向けのお知らせを考えたり――気が付けば、時計の針はてっぺん近くだ。
PC画面を見つめすぎて疲れた目で、香里は窓の向こうに広がる灯りを見つめる。ゆらりと、光が滲んだ。こみ上げてくるものがあった。
綺麗な空気を吸いたかった。
綺麗な星を見たかった。
ないものねだりの駄々をこねながら、夜の街へと飛び出す。たっぷり排気ガスを浴びた香里は、気が付けば小さなビルの屋上に来ていた。
地上38階の勤め先からいつも見下ろしている5階建てのビルは、ちっぽけで古いけれど、よく手入れはされているようだ。コンクリートの壁に這う蔦も青々としていて、無造作ながら美しい。
汐留の再開発を切り抜けたのは、オーナーの思い入れゆえだろうか。
……そのビルに忍びこむのは簡単だった。セキュリティなんてないも同然。非常階段を駆け上がれば、屋上は形ばかりの内鍵がかわれているだけだった。
ビルの谷間だから、当然風が強い。向かい風が、いっそ気持ちいいくらいだ。
眠気と戦いながらブロウした髪はめちゃくちゃになったけれど、そんなことどうでもよかった。
頬を叩いていく風に、香里は目を見開く。
「灯り、綺麗……」
高層ビルに囲まれた、谷間の世界。ここから見る地上の灯りは、38階から見つめるそれに比べれば、ごちゃごちゃついていた。でも、その雑多さにほっとする。
(……懐かしい)
香里は思わず、胸に手のひらを押し当てていた。
こんな気持ちになるのは、いつ以来だろう。かつては、忙しい仕事の合間にも、テレビを見れば味わえていた気分。そう、ずっと小さい頃から、香里はいわゆるテレビっ子だった。
でも、ここしばらくというもの、テレビを見ることすら忘れていた――。「……」
香里は、くちびるを噛みしめた。
屋上の柵に重ね、さらに金網が張られていた。風は通るけれど、夜景を眺めるには少し邪魔だ。
ヒールを脱ぎ捨てて、身軽になって、この金網によじのぼってしまおうか。
きっと、もっと視界が開ける。気持ちよく地上の星々を眺められそうだ。
風が吹く。
足下が、いつになくよろめいた。
高層ビルの間を駆け抜ける風に逆らうように、香里はいつも足を踏ん張っていた。でも今日は、「もういいかな」と思ってしまった。
もう一吹き、強い風が吹いたら――。
「動かないでください」
香里の肩が、小さく跳ねる。
こんな時間の雑居ビルの屋上で、誰かに話しかけられるなんて考えもしていなかった。
不意にかけられた声は、やけに耳心地がいい。アルト? テノール? 男か女かわからない、まろやかな声音だ。香里を咎めているようでいて、どこか温かだった。
振り返ると、そこには見知らぬ人が立っていた。
線が細い男性にも見えるし、長身な女性のようでもあった。声と一緒で、判別がつかない。さらっとしたショートヘアの毛先が、風で遊んでる。身長が高いだけではなく手足が長いから、モデルだと言われても納得してしまうような容姿の持ち主だ。
白い清潔感のあるシャツに黒いネクタイをきちんと締め上げ、黒のスラックスの上からカフェエプロンをつけているその人は、すっと一筋筆で線を描くような美しい歩き方で、香里へと近づいてきた。
「その位置から飛び降りると、ちょうど私の店の前に落ちます。ご来店予定のお客さまのために、考えなおしていただけますでしょうか」
「……えっ」
香里は目を丸くする。
「誤解です。飛び降りるつもりなんてありません」
「ではどんなつもりで、金網を掴んでいらっしゃったのでしょうか」
「金網越しじゃないほうが、灯りが綺麗に見えると思っただけです」
「そうですか」
その人は、こくりと生真面目に頷いた。
「でも、その金網によじ上ってしまうと、地上から遠くなりすぎると思います」
香里を諭したいというわけでも、呆れたというわけでもないようだ。真正面から向かいあってくれているように――香里は感じる。
ただ、地上から遠くなるという言葉は、文字通りのことを指してないのだろうとは思った。
香里は決して、金網を登り切ったところで真っ逆さまに飛び降りたりするつもりはない。
なかったけれど――金網から手を放す。
香里がちゃんと踵を屋上のコンクリートにつけ、その人を振り返るのを見計らったように、静かな声が聞こえてきた。
「……よかったら、店にいらっしゃいませんか? 今日は風が強すぎます」
香里はどうなったってよかったけど、その人のさらさらのストレートヘアが乱れているのを見て、胸がちくんと痛んだ。気が付くと、頷いていた。
▶ACT2
エレベーターで1階まで逆戻り。古いわりには、きちんと掃除されている雑居ビルのエントランスから、そのままホールの右手にあるドアへと香里は導かれた。
飴色になった木製のドアは、アンティークだろうか。ビルの一角とは思えない意匠が施されている。
「どうぞ」
「ここは……?」
「カフェ『あかり』と申します。会社でお聞きになったことは?」
「会社で……? いいえ」
「そうですか」
頷いた人は、灯りの下で見ても端正な面差しだ。そしてやっぱり、男性にも女性にも見えた。
その人は、ごく生真面目な表情で香里を見つめた。
「このあたりにお勤めの方の中には、『あかり』を非公式社食と呼ぶ人もいますが……もしかしたら、あなたは大和テレビに入社されたばかりですか?」
「は、はい、そうですが……。でもどうして、私が大和の人間だってわかったんですか!?」
「入館証をかけていらっしゃるので」
「……!」
香里は思わず、ジャケットの前をかき合わせた。
たしかに、首から入館証を提げたままだ。
でも、社名もなにも記載されていないのに――。
非公式社食という矛盾した呼び名を、香里は舌先で転がす。
(ここの常連になっている社員でもいるの?)
ドアを開け放たれると、白い明かりが目映い廊下とは違い、店内はオレンジ色の柔らかな光で満たされていた。
板張りの床と漆喰とレンガの壁、よい色にエイジングした革製のソファには柔らかなファブリックが掛けられていた。クッションは手作りっぽいキルトだ。
そこかしこに置かれているランプは飾りではなく、ちゃんと現役。煌々とまばゆいLEDの輝きではなく、黄みを帯びた柔らかい光が香里たちを照らしていた。
オールドタイム、という言葉がふと頭を過る。
この雑居ビルよりもずっと遠い古い時代に、時間が止まってしまったような内装だ。眺めているだけで、落ちついてくる。
跳ねていた心音が、ゆるやかになった。
香里は、小さく息をつく。
「……素敵なお店ですね。本当に、弊社の社食がこんなところだとよかったのに」
動揺を隠すためでも、お世辞でもなく、素直な想いが言葉になった。
勤め先の社員食堂は、再開発で建てられた40階建てのビルの39階にある。見晴らしがいいのが自慢で、お会計は社員証をタッチすれば完了、給料から天引きされる。味は美味しい。
でも、ゆっくりするような場所じゃなかった。
慌ただしく昼食をとり、クローズ間際には夕食をかきこんで、深夜残業帯になると自動販売機のお世話になる、香里にとってはそんな場所だ。
そもそも今は、社内中がぴりついている。あんな、他の社員の耳目のある場所にゆっくり滞在して、話に花を咲かせるような心境にはなれない社員も多いだろう。
この『あかり』は、あのインダストリアルに作られたカフェの合理的な設えでは癒やされきれない、気ぜわしさ、ひりつくような空気感とは無縁の場所だった。
ほのかなランプの光が、一枚板のテーブルを照らしている。オレンジ色の明かりのゆらめきを見ているうちに、自然に香里の呼吸は深くなった。
そういえば、こんなふうに呼吸することも、ここ一ヶ月で忘れてしまっていたかもしれない。
「『あかり』という店名は、あなたのお名前なんですか?」
「いいえ、私は『あきら』です」
あきらは、柔らかな声でそう言った。
「では、あきらさん。もう日付も変わりそうですが、お邪魔してしまって本当によかったんでしょうか」
「ええ。この時間帯は、お客さまがいらっしゃったら開けるだけの、気楽な店です。お気遣いなく」
ずいぶんと、風変わりな営業形態もあったものだ。
このあたりは飲み屋が多くても、夜まで開いているカフェは少ない。マスコミ関係者が好みそうな穴場ではある。
「あなたのような方は、この街には案外多いので」
「私のような?」
「このあたりで唯一、通りすがりでも屋上に上がることができるのが、このビルです」
「えっ」
「吸い寄せられてくる人は、珍しくありません。……ですから、屋上にあがられる方に気づいたら、声をかけるようにしています」
屋上の柵に、高々設えられた鉄網。もしかしたら、あれを乗りこえた人が、かつていたのだろうか――その思いつきに顔をしかめ、香里は頭を横に振る。
「その人たちをみんな、こうしてお店に呼ぶんですか」
「来ていただける状態であれば」
「……あの、私」
「はい?」
「本当に、飛び降りようとしたわけじゃないんです。気分転換に、外の空気を吸いたいと思って……。でも、このあたりって車の音すごいし、空気は悪いし。だから、ちょっと高いところに行きたかっただけです。ご心配おかけしたなら、すみません」
「高いところというのであれば、大和テレビのカフェテリアなら39階にあるのでは? 社員証をお持ちなら、閉店後も入れますよね」
「……でも、あそこは風を感じないですから」
39階の窓は大きくて、日の光はいっぱい入ってくる。でも、高層階なので窓を開けることはできなかった。
――隔絶を思い知らされた。
行き場なんてない。そう思った途端、スマートフォンの着信音が聞こえた気がして、ぞっとした。
幻聴でも、本当に電話がかかってきていたとしても、恐ろしくてたまらなくなった。
そして気が付けば、香里は会社を飛び出していたのだ。
自分が地続きの場所にいることを、たしかめたくなったのかもしれない。ひとりじゃない、ということを。
理屈にもなってないし、意味も通らない。馬鹿みたいな言い草だ。でも、あのときはもう、あれ以上38階の住人でいることに耐えられなかった。
香里は、小さく頭を横に振る。
「高層ビルは、窓が開かないようになっていますからね」
あきらは頷くと、手のひらを上にするようにテーブルを指し示した。
「どうぞ、お好きな席にお座りください」
「……はい」
ためらいながらも、香里は頷いた。
この店の、なにもかもを包みこむような静けさに呑まれていたのかもしれない。
すぐ傍らの席に腰を下ろせば、ソファは香里を優しく受け止めてくれる。腰痛と眼精疲労対策の、高価なオフィスチェアとは違う座り心地。たったそれだけのことなのに涙が出そうで、香里は慌てて上を向いた。
「せっかくなので、コーヒーを一杯ご馳走させてください」
「そんな、いいんですか?」
「ええ、私がお招きしたんですから。コーヒーのお好みはありますか?」
「あまり詳しくないので……」
「では、飲みやすいものにしておきましょうか」
「お願いします」
香里の言葉に、あきらは恭しく頭を下げる。そして踵を返すと、木製のカウンターの向こう側にいってしまった。
どうやら、『あかり』はかなり本格的なカフェのようだ。香里でも見覚えのあるもの、ないもの取り混ぜて、様々な器具がカウンターには並んでいる。コーヒーやお茶を淹れるときに用いるものだということは、素人目にもわかった。
あきらはその物腰と同じく、食器の扱いも丁寧なようだ。かちゃかちゃという、耳障りな音はほとんど聞こえてこない。
静かな店内に、やがて豆を挽く音が響きはじめる。
ごりごりというその音には、心地よいリズムがあった。耳を傾けていると、なんだか眠くなってくる。
この一ヶ月というもの、三時間睡眠の毎日が続いていても、ちっとも眠気がきてくれなかったのに。
(……豆を挽く音?)
とろとろと、蕩けていく意識の中、ふと頭に浮かんだことが、そのまま香里の口から零れおちた。
「このお店は、オーダーを受けてから豆を挽くんですか?」
「ええ、時間が許すかぎり。コーヒー豆は鮮度が命ですから」
「しかも、手動ミルで?」
「私が淹れるときは」
「この場所で……大丈夫なんですか?」
やっていけるんですかと聞きかけて、香里は思わず口を噤む。あまりにも不躾だ。尋ねようとしてしまったこと自体、どうかしているし――言葉を選べなくなりかけていることで、自分の疲れを意識した。
ここは東京都港区、再開発でテレビ局や大手広告会社をはじめ、マスコミ関係の会社が集まったエリアだ。メディアスクエアをせわしく行き交う働く者たちの、不夜城。あるいは、メディアのお城を覗きにくる人たちの遊び場。
どちらにしても、ゆっくり食事を楽しみたい人は少数派だろう。ひと握りの高級店を除けば客の回転が早いのが、この地域の飲食店のデフォルトだ。
あきらは小さく笑った。
「私は、私が美味しいと思うコーヒーをお客さまには差し上げたいので」
「すごいですね……」
香里は、小さく呻いた。
自分のやり方を、この人は貫いている。たとえ効率が悪かろうと、そのせいで客を逃すことになっても構わないのだとでも言わんばかりに、悠然としていた。
心底、羨ましかった。
この店の雰囲気も、あきらのことも。
こんな姿勢で仕事をできる人が、いったいどれだけいるんだろう。少なくとも、香里がいる場所にはいないんじゃないだろうか。
「……異世界みたい」
香里は、ぽつりと呟いた。
「それとも、私がいるところが異世界なのかな……」
呟きは、ミルの音に紛れていく。
香里は、ほっと息をついた。
あきらからなんの言葉もないから、この鬱々とした独り言も許されるような気がした。
「スポンサー様にも言われるんです。ここは日本ですよ、今は令和ですよって」
「……」
あきらは、話の接ぎ穂を探す気がなさそうだ。香里から話を聞き出そうとするのではなく、香里から零れおちる言葉へと静かに耳を傾けている。それが弱音でも、好ましくない言葉でも。
その心地いい沈黙のおかげで、ふと香里は我に返る。
いけない、香里は社員に「今は外での言動に謹んでください」と言う立場なのに――。
自分のほころびを目の当たりにして、ぞっとした。
日頃の香里であれば、こんな油断は絶対にしないのに。
こくんと、喉が鳴る。呼吸を整えようとしたけれど、上手くいかない。それでも、浅く何度か息をついて、香里はなんでもなかったような顔で話を振った。
「そういえば、非公式社食って呼ぶ人がいるっていうのは……。ここには大和の社員がよく来るんですよね」
「そう呼んでくださるのは、大和テレビの方だけではありませんが」
「弊社だけではない……。もしかしたら、このあたりに本社があるメディアに勤めてる人たちにとって、隠れ家のようなカフェなんですか? 外信大手のグローブ通信社、日本最大の広告企業鳳凰グループだとか……」
そして香里の勤め先、メディアの巨人と言われている大和グループ、その中枢である新聞社や、テレビ局――。
「いろんな方にとって息抜きの場所になっていれば、これほど嬉しいことはありません」
あきらは、香里の言葉を肯定も否定もしなかった。
けれども、香里は自分の思いつきが当たってるような気がしていた。入館証を一目で見分けたのも、よほど懇意にしている社員がいるのではないか、と。
妙に焦る。
顔も知らない同僚たちが、余計なことを話していやしないか、と。
この店のことを、もっと知ったほうがいかもしれない。
しかし、どう聞けばいいものか。
よい答えにたどり着けそうにもないまま考えあぐねていると、ぽこぽこと音が聞こえてきた。
ふと視線を動かすと、ガラスの器の中で黒い色の噴水が吹き上がっている。
「このお店は、サイフォンでコーヒーを淹れるんですね」
「ええ、まろやかな味のものをお出ししたいときには」
「淹れ方で味が変わるんですか?」
「そうですね。同じ豆でも、保存方法、煎り方、挽き方、淹れ方と、それぞれ味が分かたれるポイントがあります」
「コーヒーを淹れるのって、難しいんですね」
香里は、あきらのコーヒーへのこだわりに応えられるような客ではない。眉間に皺を寄せていると、あきらはかすかに笑った。
「コーヒーを淹れるまでは、私の仕事です。お客さまには、ただコーヒーを楽しんでいただければと思います」
「楽しむ……」
今の香里には、もっとも難しいことだ。
「おまたせいたしました」
やがて、コーヒーがサーブされた。あたたかなよい薫りに誘われ、自然とカップに手が伸びた。
「いただきます」
ぽってりと、少し厚みのあるカップの感触が、くちびるに優しい。
ひとくち口に含んだコーヒーもまた、びっくりするほど優しい味だった。あたたかさと馥郁とした薫りが、喉を通って胸の中に広がっていく。 いつのまにか、香里の肩からは力が抜けていた。
▶ACT2
気がつけば、午前2時をすぎていた。香里はたっぷり1時間、『あかり』のソファで呆然としていたようだ。
その間、あきらは声をかけてこず、もちろん退店を促されることもなかった。他に、誰ひとり客はいなかったというのに。
胸の中はコーヒーで温まっていて、あきらと出会ったことは紛れもなく現実なのだと教えてくれる。でも、香里はどこか夢見心地で、ふわふわとした足取りで会社に戻った。
不夜城と呼ばれるテレビ局だが、バックオフィスはもともと24時間体制ではない。ただ、今のように次から次へとスキャンダルが出てきて、数日おきに週刊誌にすっぱ抜かれている現状は、とても通常どおりの勤務体制で対応できるものではなかった。
コンプライアンス統括室は、社長の肝いりでできた専門性の高い部署だ。少数精鋭といえば聞こえはいいけれど、上司である室長と香里のふたりしかいなかった。
そのふたりしかいないメンバーの温度差が大きすぎて、実質ひとりで仕事しているような気持ちになることも多いが――。
「日下さん!?」
大声で名前を呼ばれ、香里は顔を上げる。
「久多良さん」
この不祥事続きの中、コンプライアンス統括室長に抜擢されてしまった不幸な男は、真っ青な表情で香里へと駆けよってきた。
「どこに行っていたんですか? 今日も深夜残業すると言っていたから、様子を見に戻ってきたんですが……」
香里との会議のあと、彼は社長の松尾に明日表沙汰になる不始末についての対応をレクチャーをしにいったはずだ。そのあと、飲みに誘われたんだろうか。ほんのりお酒の香りがする。
香里は、いらっとしてしまった。まだ30代の彼もまた、香里と同じくスカウト転職組だ。誘われたら断りにくいのかもしれないけれど、今は飲みにいってる場合じゃない。それこそ、コンプライアンス遵守の意識が足りない。
久多良は、大和テレビと同じ日系のマスコミで企業ガバナンスを専門としていたという。その前は、日系最大手の広告会社、鳳凰グループ本体の法務室にいたそうだ。
そのせいか、外資金融からきた香里にしてみると、彼のコンプライアンス感覚はゆるい。ガバナンス引き締めへの意志は、さらに手緩かった。
社内を引き締める前に、この人自身のコンプライアンスに対しての感覚こそ引き締められるべきではと、思うこともあった。
……日頃は、ここまで悪し様に言いたくなるわけじゃないのだけど。
「申し訳ありません。気分転換に、カフェに行っていました」
「……そうですか。それなら、いいのですが」
久多良の肩から、露骨に力が抜けた。
「日下さん、無理は禁物です。ひとりで背負い込もうとしないでください」
「……ご心配をおかけしたようで、申し訳ありません」
「統括室の室長は私です。もっと私に責任を押しつけてくれていいんですよ。相談事があるなら、いつでもどうぞ」
「ありがとうございます」
お礼は言う。とはいえ、香里は久多良に相談するつもりはなかった。意見を違えるとわかっているし、そのこと自体が今の香里にとってストレスでしかないためだ。
「今は特に相談事はありませんが……。明日に備えて資料を作成しました。目を通していただけますか?」
「資料?」
「今回の不祥事の経緯説明です。こちらを発表するだけで、広報は過不足ないステートメントを出すことができます。それから、明日のマスコミ対応のマニュアルも作成しました。久多良さんも確認の上、会見の前に社長にお渡ししただけるでしょうか。また、同時に週刊誌の記事に取り上げられた事案について、徹底的な社内調査を実施するために稟議書を作成しました。こちらも、社長に上げてください」
「ステートメントの準備なんて広報の仕事なんだから、そこまでしなくていいのに」
「広報さんは、不慣れなようですので。……前回も、炎上させてしまいましたし」
「気づかいを、ありがとうございます。目は通させてもらいます。でも、それぞれの部署に任せるべき仕事もありますから、抱えこみすぎないようにしてくださいね」
煮え切らない返事に、香里は奥歯を噛みしめてしまった。
コンプライアンスというものに対して、時代錯誤な感覚を持ち、シビアさが足りないこの会社をどうにかするためには、社員の意識を徹底的に変える必要がある。だから、香里は社内に対しても手厳しく、時としては反発されたとしても、踏み込んだ助言をしたほうがいいと思うのだけど――どうも久多良は丸く物事を収めたがっている。
前回の記者会が炎上したあと、香里のほうから強く広報の意識を変える必要があると訴えたのだが、あのときだって久多良にはのらりくらりとかわされた。
香里は同じ失敗を繰り返してほしくない一心だが、久多良は頼りにならないかもしれない。
急いで社内風土を改めようとしても、ついていけない社員もいるからと、久多良にやんわりと言われたことがあった。
株主からもクライアントからも相当せっつかれているのに、香里には理解できない感覚だ。この会社に勤めている人々のコンプライアンス感覚が終わっているのは自明の理で、温情をかけている場合ではないと思う。
会社の信用回復までの道のりは絶望的に遠く、こういうときこそ身内を庇ってはいけない。病んだ部分には、大規模な外科手術が必要だ。
それなのに、この大和テレビという患者は病巣を隠したがる。
社員を守りたい? 守るのは、守られるに値する社員だけでいい――奥歯で噛みつぶした言葉は、苦く苦く香里の胃の腑を満たす。
また、スマートフォンの着信音が聞こえてきた気がする。
小さく頭を振ってから、香里はなるべく穏やかに、でも必死に久多良へと頼みこんだ。
「よろしくお願いします。……本当に、一刻も早く立て直しをしないと、この会社はとんでもないことになると思います」
「……君の危機感は理解しています」
したり顔で頷いたところで、久多良は思い切った手はとらないだろう。諦めが、香里の胸のうちを冷え冷えとさせていく。
(……ああ、こんなことならいっそ)
スマートフォンの着信音とともに、ひしゃげた呟きが聞こえた気がして、香里ははっと目を見開く。
言葉にしてはならない言葉が、脳裏に浮かびかけた。
ひどい罪悪感と自己嫌悪で、どうにかなりそうだ。
(私は、いやな女だ)
この一ヶ月で、いやな女になってしまった。
「じゃあ、区切りがついたなら帰ったほうがいいよ。松尾さんへのレクは私に任せて、あなたは休んでもらってもかまいません」
「……いいえ、大丈夫です」
久多良には任せられない。
彼は絶対に、社長に強いことを言わないから。
もどかしい。この会社を建て直そうとしているのは香里だけみたいで、他に誰ひとり味方がいないんじゃないかっていう気がしてくる。
まろやかな味のコーヒーが温めてくれたはずの胸のうちがどんどんトゲトゲしくなっていく。
このままだと、言ってはいけない言葉が飛び出してしまいそうだ。
香里は下唇を噛み、自分自身を抑えこむように掻き抱いた。
(助けて)
ジャケットのポケットに突っ込んでいた、スマートフォンが震えはじめる。
気が付いた途端、背筋が冷たくなった。
(このままだと、私は)
幻聴ではない、現実が誘惑をしてくる。
ふと、金網ごしの景色が脳裏に浮かぶ。
地についていた足が離れるイメージ――。
着信音が鳴り響く。
手にとれば楽になるのだと、囃したてる。
くらりと目眩がした。震える指先がスマートフォンにかかったけれど、そこでぴたりと止まる。
からからに乾いたくちびるを噛みしめたそのときに、不意に蘇ったものがあったのだ。
まろやかで、優しい、『あかり』のコーヒーカップの感触が。
***
――その夜、香里が震えるスマートフォンに出ることはなかった。
やるべきことをやって、香里が会社をあとにしたのは朝7時すぎだ。
着信音の残響が、耳の奥にこびりついている。頭痛がするのは、きっと睡眠不足のせいだ。
シャワーを浴びて、着替えて、会社にとんぼ返りして――取締役勢には朝イチでレクチャーをする必要がある。スキャンダルが出るのはともかく、失言にこれ以上振り回されるのはうんざりだ。
俯き加減で先を急いでいた香里は、コーヒーの匂いで立ち止まった。『あかり』だ。モーニングの時間帯から営業をしているのに、深夜まで店を開けるとは。
グリーンで巧みに隠されているが、深夜は閉ざされている路面の開口部分が開いていた。
豆を焙煎しているのか、開けられた窓からはいい匂いが漂っている。
香里はふと深呼吸していた。
薫りが、記憶を呼び起こす。
昨日のコーヒーは本当に美味しかった。器の口当たりまでも優しかった。
今また、猛烈にその優しさに触れたくなっている。
そんな香里の想いを見抜いたかのように、穏やかな声が聞こえてきた。「おはようございます」
「……あきらさん」
香里は目を丸くした。
あんな深夜まで仕事しているのに、この時間までいるなんて思わなかった。
徹夜明けの香里は化粧も髪型も崩れてひどい有様になっているが、あきらは昨日と同じ、静かで美しい佇まいだ。そんなあきらの前に立つのが気恥ずかしくなって、すっかりほどけてしまっている巻き髪がちょっとはマシに見えるように、香里は無意識に掻き上げていた。
「今から会社ですか?」
「いいえ、一度着替えに戻るつもりです」
「……お仕事、たいへんなんですね」
「ええ、まあ」
「よかったら、また一杯いかがですか?」
「いえ、昨日の今日で、申し訳ないので」
「ご遠慮なく。私が、ご馳走したいと思っただけですから」
「……そこまで気を遣っていただかなくても、大丈夫ですよ」
いつまでも、自殺志願者として扱われるのも困る。香里には、まったくそんなつもりはない。
……今なら、死んだって生きかえられると思う。
今日もきっと、マスコミからの問い合わせがくる。すべてはコンプラ統括室に、香里に投げるようには伝えていた。
完璧に対処しなくてはいけない。危機感を持ってそれをできるのは、あの会社で香里だけなのだから。
ぐるぐると、ヒステリックな言葉が頭の中を回ってる。香里が、なんとか香里だけが、どうにか――。
「……自殺志願者に見えるから、声をかけたわけではありません」
あきらは、真っ直ぐ香里を見た。
「あなたが、なにもかも壊してやりたいっていう顔をしてたから、声をかけたんです――昨日も」
息を吞んだ音が、やけに遠くに聞こえた。
香里は立ち尽くす。
呆然と、あきらを見つめることしかできなかった。
そんな香里を、あきらはまっすぐに見ている。
「本当に壊してしまったら、あなたはきっと後悔するだろうから」
「……っ!」
さっと血の気が引いたかと思ったら、一気に頬まで血がのぼせた。この人は、どこまで、なにを知っているんだろうか、と。
「……今夜お待ちしています」
あきらは深々と頭を下げると、そのまま立ち去っていった。
香里は、頭を小さく振る。
とにかく今はシャワーだ。
香里にはやるべきことがたくさんあって、香里にしかできない仕事もたくさんあって。今がんばらないと、たぶん一生後悔することになる。
だから、わけがわからないカフェの店主の誘いに乗ってる場合じゃない――はずだった。
……それなのに、香里はしばらく『あかり』の前から離れられなかった。
▶ACT3
革靴の音が近づいてくる。頭痛がひどい今、あまり聞きたくない音だ。
「日下さん、レクお疲れさまでした。これで、上手いこと社長も答弁できるといいんですけど」
「そうですね」
そうはいかないだろうなと、香里は思った。そして、久多良自身もそう思っているだろう。
「このあとは私が対応します。日下さんは帰宅して休息をとられてはいかがでしょうか」
「……記者会見で失敗をしたあとのフォローを考えておかないと」
「では、仮眠室にいかれては」
「結構です」
香里は、きっぱり断った。優先順位をわかってくれない上司へのいらつきを、顔に出さないでいる努力ができなくなっている。
「……ふがいないとお考えなのは重々承知ですが、身が持ちませんよ。長丁場になるのですから」
香里の苛立ちを、久多良は柔らかに受け止めた。
「長丁場にならないよう、社内引き締め策を考えるのが私たちの仕事だと思います」
久多良は悪い人ではない。今も善意で、休息を勧めてくれているのだろう。でもそれは、今の香里にとって不要な善意でしかなかった。
「日下さん、仕事に焦りは禁物です。特に、こういう古い体質の会社を変えようとするなら」
いつになく、久多良は強い調子で言う。
「カフェでコーヒーを楽しむ程度の余裕はあります。ご心配なく」
『あかり』でのことを思い返しながら、香里は応えた。
「……カフェ?」
意外そうに、久多良は目を見開いた。
「雰囲気のよいカフェでした。大和の社員もよく通っているようですが……。リラックスして失言をしていないか心配です」
気を付けている香里でも、つい気持ちが緩んでしまったくらいだ。そういう意識のない社員の場合は、どうなってるだろうか。
「……もしかして、『あかり』ですか?」
「久多良さんもあの店をご存じなんですか」
「ええ、まあ。前職から」
私はこのマスメディアスクエアの中を行ったり来たりしているので、と久多良は付け加える。
知っています、と香里は心の中で呟いた。だから感覚が麻痺しているんですよね、と続けたくなったのは皮肉でしかない。
「久多良さんは、鳳凰グループでは法務室だったんですよね」
「ええ。キャリアのほとんどを、コンプライアンス意識を社員に持ってもらうことに費やすことになりましたが。結果論ですけれどね」
久多良は、大学在学中に司法試験と外交官試験に受かっているという。優秀な人、ではある。
「『あかり』は、このあたりのマスメディア関係の人に『社食』と呼ばれていると聞きましたが……」
「そうですね。そう呼びはじめたのは、鳳凰のアカウントディレクターたちです。彼らは提案型営業で、あちらこちらの会社に出入りしていますし、テレビ局や出版社との仕事も多いでしょう? そこから、メディア関係者に話が広がったのではないでしょうか」
「鳳凰の社食は、あんなに居心地がいいんですか?」
「いえ、大和の社食とよく似た雰囲気です」
久多良は、あっさり首を横に振る。
「……ただ、社食は本来社員のために設けられる施設ですよね」
「ええ、まあ」
「『あかり』も私たちのためにできたようなものだから、そう呼びたくなってしまったんじゃないでしょうか」
「……私たちのために?」
いぶかしげに、香里は問う。久多良の口ぶりだと、『あかり』ができた理由を知っていそうに聞こえる。
「ええ」
久多良は、大きく頷いた。
「日下さん。あなたがどうしてあの店に誘いこまれたのかは知りませんが……。状況次第では、私があなたをあそこに案内していたと思いますよ」
「なぜ、ですか。たしかによい店だと思いましたが……。仕事の話をするのには適しません。特に私たちの仕事には」
香里は、小さく息をつく。
「心配のタネが増えた気がしています。あそこが隠れ家っぽいのをいいことに、社外秘の情報を口にしている社員でもいるんじゃないかと」
「……杞憂ですよ」
久多良は、なんだか楽しいいたずらでも隠していそうな表情になる。
彼のそんな顔を香里が見るのは、初めてのことだった。
「あそこは、秘密を食べるカフェですから」
***
――秘密を食べる?
意味がわからない。
定時をすぎてすぐ、久多良に今日は帰るようにと促された香里は、おとなしく会社を出た。
やはり睡眠不足が響いていて、あまりにも能率が悪かったからだ。こんな日まで残業をしたって、なにも得るものはないだろう。
会社をあとにした香里の足は、自然と『あかり』へと向かっていた。久多良から話を聞いたせいで、『あかり』への好奇心が膨らんでしまったというのもあるかもしれない。
『あかり』は特別な意味を持つカフェなのだと言わんばかりの、あの口ぶり――。
秘密を食べるとは、どういう意味なのだろうか。
業務上のことだったら、コンプライアンス統括室の領分になってくる。だから、たしかめなくてはいけない――なんて、『あかり』が気になる言い訳にしかなってないだろうか。
秘密という単語が、ずしりと香里にはのしかかっている。
どこか遠くで、またスマートフォンの着信音が鳴っていた。幻聴か、現実なのか、香里にまとわりついてくる音。
(見抜かれたのかと、思った)
あきらの静かな声が、過去からのこだまのように響いた。
『あなたが、なにもかも壊してやりたいっていう顔をしてたから、声をかけたんです』
香里はくちびるを引き結ぶ。
『秘密』を食べることなんてできるのだろうか。
もしも、それが本当なら――香里は食べられることを望むだろうか?
***
『あかり』の窓が、オレンジ色で照らされている。沈んだばかりの
太陽の色を写し取ったような、柔らかな色だった。
わずかに立ち止まったものの、香里はビルのエントランスに足を踏み入れた。
飴色になった木製のドアをそっと押すと、からんからんとベルの音が響く。
「いらっしゃいませ」
香里を出迎えたのは、あきらではなかった。
びっくりするほど長身で、体格のいい男性が表情を綻ばせている。浅黒く日焼けした顔つきはいかめしいが、香里と目が合うと柔らかな笑みを浮かべた。そのギャップにどきっとしたし、心から歓迎してもらえているのが伝わってきて、胸が心地よいもので満たされた。
「……あの、あきらさんは」
「オーナーにご用事ですか?」
「そういうわけではないんですが……。夜に来るよう言われて」
「かしこまりました。お席にご案内しますので、少々お待ちいただけますでしょうか」
「はい」
「こちらへどうぞ」
体格のいい男性は、滑るように静かに歩く。あきらと同じだ。店に溶け込むかのように、気配がない。
それほど広くない店内は、ほとんど埋まっていた。会社帰り、立ち寄る人が多いのだろうか。それとも、残業に備えての息抜きか。
直接見知った、あるいはデータとして知っている顔は、客の中にいない。それを確認すると、香里の肩からはゆっくり力が抜けていった。
「オーナーを呼んでまいります」
「……その前に、コーヒーを注文させていただいても?」
「もちろん。メニューをお持ちします」
男性の店員は、ほんのり柑橘系の香里りがする水と一緒に、革で装丁されたメニューを恭しく運んできた。
香里はさっと、メニューへ視線を走らせる。コーヒーや紅茶が中心で、軽食やデザートがほんの少しだけ。豆や茶葉の説明なども丁寧だったが、今の香里にはそれを熟読するほどの気力はなかった。
お勧めのコーヒーを尋ねると、好みを聞かれた。昨日と同じく飲みやすいものをと頼むと、電動ミルの音が響いてしばらくしてから、昨日よりは芳香を甘く感じるコーヒーが運ばれてきた。
「ごゆっくりどうぞ。オーナーは、まもなく参ります」
コーヒーに詳しくない香里は、いい匂いがすることや、いつも飲んでる社食のコーヒーよりもずっと美味しいことしかわからない。でも、昨夜のコーヒーと同じように、やはりほっとした。
最後の一口のコーヒーがゆっくり喉を通っていくタイミングで、あきらが店に顔を出した。昨日と同じ、清潔な白いシャツに、黒い細身のパンツスタイルだ。
「いらっしゃいませ。今夜も起こしいただけて、嬉しいです」
香里の顔を見ると、あきらは笑顔になった。昨日の別れ際に投げかけられた鋭い言葉が出てきそうにない、静謐な佇まいだ。
あきらを見ると、それまで黙ってカフェでの時間を楽しんでいた客たちが、口々に声をかけはじめる。騒がしくではなく、あくまで親しみ深い様子で。
「あきらさん、久しぶり。どう? 今夜のキッチンテーブルは空いてる?」
「あいにく、今日は予約済みです」
「残念。じゃあ、また頼むよ。ああもう、忖度忖度うざー」
「眞殿に、都合のいい日時をお伝えください」
「俺もお願い。そろそろ、クライアント相手に爆発しそう」
「……スペシャルメニューを考えておきます」
女も男も、あきらの顔を見ると表情が緩む。そして口々に『テーブル』の予約をしたがっていた。
突然おしゃべりになった店内の様子を、わけがわからないまま眺めていた香里の傍らへ、あきらはやってきた。
「お客さま。もしよろしければ、これから私のキッチンテーブルへどうぞ。特別メニューを、ご用意していますから」
「……わたしよりも、他の方のほうが必要としていそうじゃないですか?」
「必要か必要ではないかをお客さまに決めていただくために、まず招待させていただきたいのです」
あきらのかすれるような囁き声が、香里の胸にすっと染みこんできた。その声には、つい耳を傾けてしまう魅力がある。
『秘密』を食べるという話が気になっていたのに、自分の秘密を見抜かれたかもしれないと疑心暗鬼になっていたのに――あきらの言葉に、頷いていた。
***
香里が案内されたのは、『あかり』の一階上。ビルの二階にある小さな部屋だった。
『あかり』と同じく、樫の木の玄関ドア。スリッパを用意され、まるであきらの家にでも案内されたような気持ちになるが――ドアを明けてすぐ、香里の視界に飛び込んできたのは、大きなアイランドキッチンだ。タイルに彩られて、まるで絵本の挿絵に描かれたかのように可愛らしい。
アイランドキッチンに付随したカウンターには、木製のスツールが並べられていた。食事をできるようにしているのだろうか。
床もキッチンを中心に模様を描くようにタイルを貼りこまれていて、部屋の隅で板張りに変わる。
窓辺には、キルトをかけられたソファセットがあった。
「……素敵なキッチンですね」
「ありがとうございます」
「ここも『あかり』の一部なんですか?』
「そうですね。ご希望のお客さまと――今後お客さまになってくれそうな方をお招きしています」
香里は後者ということかと、釈然としないまま考える。
「なぜ、私を?」
「気分転換をされてはどうかと思いまして」
あきらは微笑んだ。
気分転換、という言葉に香里は眉を顰める。
今は、そんなことしている場合じゃないという気持ち。そして、自分にとっての一番の気分転換は――もう『――』という気持ちとが、入り混じる。
ふと、背筋が寒くなった。
(私、今なにを……)
ゆっくりと、首を横に振る。
大事にしていたなにかを胸のうちで黒く塗りつぶし、言葉にすることさえ厭いだしているのか? そんな自分に、ぞっとした。
「……私の気分転換にも付き合っていただきたくて」
表情を強ばらせた香里に気づいているだろうに、あきらは穏やかに話を続ける。
「今から、ケーク・サレを作ります。よろしければ、お客様も一緒に」
「ケーク・サレ? ケーキのことですか」
「ええ、甘くないケーキです」
「……」
香里は困惑していた。けれども、今はなにか――なんでもいいから、気を紛らわしたいとは思っている。そんな微妙な心境に、あきらの言葉が吹き込んでくる。
だから、つい頷いていた。
「ありがとうございます」
あきらは嬉しそうに微笑んだ。
ケーク・サレというのは、ベーコンや野菜、チーズなどを混ぜ込んで焼くパウンドケーキ。おやつではなく、惣菜みたいなものだ。香里は食べたことはなかったが、名前は知っている。
すでに、生地へと混ぜ込む具材の用意はされていた。トマトやブロッコリーなど、オーブンで焼いたという色とりどりの野菜たちはオリーブオイルのおかげかつやつやしている。刻まれたハーブは瑞々しい緑色だ。そして、よく炒められたベーコンも、こんがりと美味しそうだった。
「ケーク・サレはおかずケーキだとか、ごはんケーキだとか呼ばれますけど、もちろんおやつにいただいても美味しいんですよ」
冷蔵庫から大きなチーズの塊を出しながら、あきらは言う。そのパルミジャーノ・レッジャーノは、チーズグレーターで削るそうだ。
パウンドケーキだから、材料を混ぜて焼くだけ。オーブン料理としてはシンプルな部類だ。
「……わたしが来ると、確信してたんですか?」
「いらっしゃっても、いらっしゃらなくても、作るつもりでしたので。……わたしが、ちゃんと明日を迎えられるように」
「どういうことです?」
「……こういうことですよ」
グレーターとチーズを手にして、あきらは品よく微笑んだ。
そして、深く息をついたかと思うと――勢いよく叫んだ。
「私が女だろうが、男だろうが――断りもなく、私の体に触るな!」
「……えっ?」
ぽかんとした香里の鼻先を、よいチーズの匂いがくすぐる。塩っぽくて、ほんのり甘い。食欲をそそる匂いだ。
ほとんど力任せと言っていいくらい、あきらは勢いよくチーズをすりおろしていた。黄色みがかったチーズの粉が、透明のボールにふわりと積もる。
ひとしきり、ごしごしごりごりとチーズを削ったあと、ようやくあきらは顔を上げる。
さっぱりした表情だった。
「……なにがあったかは聞かないでください。わたしも、あなたに聞きませんから」
あきらは先ほどの怒声はどこへやら、また慎み深い表情を浮かべている。「お菓子作りは力を使う作業も多いので……こういうことをするのには、ちょうどいいのです。うどんを粉から作ったり、蕎麦を打ったりするのも悪くないのですけど」
「……ええ!?」
「怒るのって、疲れますよね。せっかく疲れることをするなら――生産的なことをしたくないですか?」
「ああ、そういう……」
ゆっくりと瞬きをして、ようやく香里は状況を飲みこむ。
『秘密』がどうのなんて言うから、身構えてしまったけれど――ストレス発散に誘われたということか。
それにしても、あきらみたいに浮世離れした人が、憂さ晴らしだなんて。拍子抜けしたような、おかしいような、ちょっとだけつまらないような……。
でも、親しみが湧いた。
「……あなたから、ムカつくとかいう言葉が出てくるの、不思議な感じがします」
「そうでしょうか」
「そういう感情と無縁そうな、涼しげな顔をしているから」
「このキッチンテーブルのおかげですよ」
あきらは、くるりとキッチンを見まわした。
「……わたしも、すっきりするでしょうか」
「それを確かめるために、お招きしたんです」
「そうですか、じゃあ」
手を洗った香里も、チーズを手にする。
……どう叫べば、すっきりするだろう。
考えつつも、なかなか言葉にはならない。
答えを出すより先に、チーズをグレーターにぐいぐいと押しつけ、一気にすりおろした。気持ちいいくらい、チーズが柔らかく削がれていく。
ぐっとテンションが上がってきた。
チーズが削れていくにつれ、香里の中からもなにかが剥がれ落ちていく。
気が付いたら、叫んでいた。
「ぐだぐだぐだぐだ……できないことの言い訳は、もう飽き飽き! いい加減にしないと、全部ぶちまけてやるんだから! 全部、全部、壊れちゃってもいいの!?」
そう、香里にはぶちまける宛てがある。
どこからか、スマートフォンの着信音が聞こえてくる。あれは、悪魔の誘惑だ。
『ジャーナルの記者ですが、お話を――』
なぜ、週刊誌の記者に電話番号を知られたんだろう。香里がどうして、大和テレビの不祥事情報が一手に集まる、コンプライアンス室に勤めていることを、あの記者は知っていたのだろうか。
『たいへんでしょう、あの組織を変えるのは。ウチならお手伝いできますよ。あなたの持っている情報があれば……』
情報。そうだ、情報ならたくさんある。この手にある。表に出てしまったこともあれば、まだ出ていないことも。
『劇薬だったとしても、長い目で見たら改革のきっかけって位置づけになりますよ。大和テレビが変わるきっかけを、あなたと私で作ろうじゃありませんか!』
劇薬でも飲ませないと、変わらない? それも、そう。でも、ひとつ間違えれば、その劇薬は会社自体を滅ぼす。
子どもの頃、父の転勤でアメリカで暮らした寂しい香里を慰めてくれた、テレビ番組を作ってくれた会社が、取り返しがつかないほど壊れてしまうかもしれない。
――香里は、テレビっ子だった。
寂しい子どもだった頃。テレビを見て笑ったり、誰かの話に耳を傾けたりすることで、みんなと、この世のどこかにいる誰かと、つながっているような気がしたのだ。
テレビというものに、たしかに慰められたときが香里にはあった。
あの小さな四角い箱の中に、無限の輝きを感じていた。
金融で培ったキャリアを捨てて、泥船に飛び乗った。その泥船の人たちを、助けたかったから。
でも、中に入ってみれば、老いて古びた組織のほころびにはきりがなくて。香里がどれだけ頑張っても、フォローはできない。変わらない。
全部壊して、もう一度作り直さないと、手のほどこしようがないのでは? そう、何度も自問自答した。
香里は、表沙汰になったら全部壊せるだけの情報を持っている。
いつのまにか香里の連絡先を掴んでいた、あの雑誌の記者からの電話に出て、洗いざらいぶちまければ、香里は会社を壊してしまえる……――誘惑を断ち切れないでいた。
着信拒否もできないから、あの記者も電話をかけ続けてくるのだ。
それが、『秘密』だ。
「……っ」
ぼろぼろとチーズが零れた。
一緒に、涙もぽろりと落ちる。
止めどなく流れるそれを止める気になれなくて、香里はひとしきり嗚咽した。
あきらは、なにも言わなかった。
「……はあ」
香里は、深く息をついた。
涙は乾きはしないけれど、止まっている。それをぐいっと手の甲で拭うと、やけにさばさばした気持ちでいた。
「……手、もう一度洗ってもいいですか」
「どうぞ」
洗い流すことができたのは、手だけじゃないような気がする。
ひどく静かな気持ちで、自分の内側を香里は見つめていた。
あきらの言うとおりだ。
香里は、『壊れてしまえ』と思ってたのだ。
なにもかもが上手くいかなくて、香里ひとりだけが危機感を持ってる、そんな大和テレビなら。
大好きだった、たしかに幼いころは心の支えだったものを――助けたくて、転職したはずなのに。
「壊したって、いいんです。あなたが壊れるくらいなら」
あきらは、静かに言う。
「あなたが絶望しているなら止めません」
「あきらさん……」
驚いて、香里は顔を上げる。
「事情も、知らないのに?」
「あなたが傷ついて、疲れているのはわかりますので」
あきらは、真っ直ぐに香里を見つめる。
「でも、絶望ではなくて、あがいて、焦ってるというなら止めます。焦ってるときに出した結論は、いつかあなたに復讐するかもしれませんから」
「復讐……」
「短絡的な手段を選んでしまったあなた自身への最悪の復讐、尽きない後悔ですよ」
「……っ」
香里は、思わず息を呑む。
胸につかえたまま、香里を振り回している感情は消えない。でも、鎮まっていく。
絶望――しているのだろうか?
深淵を覗きこむ。崖っぷちに立ってるような気分だ。でも、香里は落っこちてはいない。
否、だ。
香里はまだ、絶望しきれていなかった。そんな簡単に投げ捨てられるなら、話は簡単だ。絶望してないから、焦っているし、あがいているのだ。
自分には、大和テレビのためにできることがあると信じて。
どうにか、自分の大好きなものを助けたくて。
この胸には、まだ希望がある。煤け、輝くことがなくなったとしても、まだ失ってはいない。
見えなくなっていたものを、見いだせた気がした。
うなだれていた香里は、視線を上げる。
胸の中に渦巻いていた黒々しい感情が、消えたわけじゃない。でも今の香里は、それをじっと見つめることができている。きっともう、振り回されたりはしない。
香里は、深く息をついた。
ようやく地面に足をつけた気がする。
「吐き出したものは全部、ケーク・サレに混ぜ込んで、オーブンで焼いてしまいましょう」
柔らかな笑みを含んだ声で、あきらは言う。
「焼き上がったら、美味しいコーヒーや紅茶と一緒に、いただきましょう」
「吐き出してすっきりしたのに、また食べてしまうんですか?」
「すっきりしたあとだったら、別の飲み下し方もできるかもしれません。……できなかったら、またここに来ていただければと」
香里は苦笑した。
「……私、常連になってしまうかもしれません」
「大歓迎です」
恭しく、あきらはお辞儀をした。
***
焼き上がったケーク・サレは、怒りにまかせて生地を練ってしまったせいか、どっしりして、少し重い。でも、こんがりといい匂いがして、とても美味しかった。
疲れた体が、ゆっくりと癒やされていく。
余ったら、このケーク・サレを持って帰らせてもらおうか。
明日の朝はちょっといい紅茶を丁寧に淹れて、このケーク・サレを朝食にしよう――香里は、ぼんやりと考える。
それに、気が向いたら会社に持っていってみようか。久多良にも、お裾分けだ。
……そして、お裾分けをしながら、彼と話をしてもいいかもしれない。それとも、香里のほうから『あかり』に誘ってみるべきか。
たまには美味しい珈琲を飲みながら――これまで苛立つばかりだった彼の言葉にに、ちゃんと耳を傾けたいと思った。
やっぱり腹が立ったり、いらついたりするかもしれないけれど、溜め込まず、きちんと香里の考えをぶつけ、そして彼の話を聞いてみたい。今抱えている問題を真剣考えてくれているのかどうか、彼の言葉で。
その結果、やっぱり駄目だと思ったら、またこのキッチンテーブルを予約すればいい――。
気づけば、香里の口元からは笑みがこぼれていた。
明日のことを考えていると、ちょっと楽しくなってきた。うんざりするほど問題が山積みの、仕事のことだというのに。
そんな気持ちになれたのは、一ヶ月ぶりだ。
もう、スマートフォンの着信音は聞こえてこない。
▶エピローグ 彼女の知り得ぬ物語
日の光が目映い、朝だった。
「やあ」
「……ああ」
久多良が声をかけると、店の前で丁寧に掃き掃除をしていたその人が、顔を上げた。
同僚だった頃と、その人は変わったように見えない。涼やかな眼差しが、じっと久多良を見つめている。
「ええと……なんて呼べばいいかな」
「今は、『あきら』と」
「そう。じゃあ、あきらさん。部下を助けてくれてありがとう」
頭を下げると、あきらは小さく首を傾げる。短い髪が、さらりと揺れた。
「……部下?」
「日下香里さん」
「ああ……」
小さく、あきらは頷く。でも、それ以上、日下香里について自分からなにか語るつもりはないらしい。
あきららしい。
連日のトラブル処理で疲れきっていたけれど、懐かしさが久多良の頬の強ばりを緩めてくれた。
「一生懸命で、優秀な社員だ。でも、結果をすぐに出そうと必死になりすぎていてね」
結果を出すのは大事だ。今すぐに解決しなくてはいけない問題があれば、なおのこと。しかし、自分ではない誰かに、これまでと違う視点や考え方を持ってもらうための仕事は、一朝一夕でどうにかなるものではない。
どれだけもどかしくても、なにひとつ変わらないと嘆きたくなることがあったとしても。
だが、割り切って考えるには、日下香里はあまりにも一生懸命で、会社に対して親身なのかもしれない。彼女は生来、真面目すぎるところもあるのだろう。皮肉でもなく、久多良は彼女の美点を生かしたいと思っている。
あきらは、慎重に問い掛けてきた。
「彼女があなたに、私の話を?」
「いや。深夜残業中に抜け出して、カフェに行ったと聞いたから。このあたりじゃ、『あかり』以外にないだろう?」
「……あなたも、相変わらずですね」
吐息が声になったような、かすれた呟きが久多良の鼓膜を揺する。
「……ん。俺は、俺のままだよ」
久多良は、小さく肩を竦めた。
「いまだ、組織の中でじたばたしている」
「……あなたみたいな人は、必要だと思います」
「……君も」
戻ってきてくれないかと、久多良は言いかけた。
以前一緒に働いていた、鳳凰グループの本体へではない。大和テレビで、以前のように同僚として働いてほしかった。あきらならば、ブランクがあっても問題はない。それだけの実績がある。
……一度や二度の失敗で、消えることはない経験が。
久多良はそう思っているけれど、あきらが違う感情を持っているということは、ちゃんとわかっている。それでも、よき理解者の顔をかなぐり捨てたい衝動が、今は胸を騒がせていた。
「今は組織の外で、私にできることをしていたいです。……私にとって、それが一番後悔のない生き方になりそうだから」
あきらは、静かに言う。
昔から、柔らかで中性的な容貌が、誰にでも好かれる存在だった。柔和な語り口調も、心を落ちつかせてくれる声も変わらない。
そして、意志の強い瞳も。
昔から、あきらの周りには澄み渡った風が吹いているようだった。目を背けたくなるような同僚の不祥事を目の当たりにしても、あきらが変わることがなかった。ただ受け止めて、また新しい風が吹くように環境を整える仕事に、あきら以上に根気強く向き合える人間を久多良は知らない。
……そんなあきらでも、組織の中で働くことに限界を感じたこともあったのだろう。鳳凰グループで大規模な内部告発事件があったあと、迷いなく外に出ることを選んだ。
怒りも、悲しみもあったと思う。でも、あきらが選んだのは、組織の外に立つことだ。そして、元同僚たちの言葉に、なんのしがらみもなく耳を傾けることだった。
人の心の澱を晴らすようなあきらの存在を、久多良自身も好ましく思っていた。だから未練がましく会いに来たけれど――あきらは心を決めていると、再確認することになっただけだ。勧誘は諦めるしかない。
「そう、残念だ」
久多良は、ネクタイを弄る。うねるような感情を抑えつけるように、ぐっと根元まで締め上げた。
「今日は、コーヒーを飲んで帰らせてもらうことにするよ」
「ありがとうございます」
あきらは、丁寧に頭を下げた。
「ようこそ、『あかり』へ」
おわり
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