梅雨の窓
1.静かな雨
「雨は嫌いだ。」
彼はそう呟いた。静かな雨音に包まれる二人だけの部屋では、彼の白い綿のシャツが扇風機の風になびき、それがやけに浮いて見えた。
二人で暮らすと決めたとき、陽当たりの良い家に住みたいと言い出したのは彼だった。夏の日差しに至極敏感な彼がそれを言い出すのはとても不思議だったが、物静かな彼が珍しく強く主張したことと、反対する理由が私にはなかったことから、陽当たりと風通しの良いこの家を選んだのだった。
太陽の光に映える小さな庭や、それを楽しむことのできる大きな張り出し窓には、二人の心を揺する何かがあったのだろう。
張り出し窓の横に置いてある小さなテーブルはとても小さい。
小さな一輪挿ししか置けないそのテーブルは二人で選んだもので、私は密かにそれを気に入っていた。
剝き出しのフローリングに小さく座った彼は、張り出し窓から雨に濡れる庭を眺めているようだった。私は彼のまねっこをするように隣に並んで座り、ばれないようにその表情を盗み見る。
その眼は普段の優しい表情からは想像もできないほどしんと澄んでいて、とても冷たいものだった。彼の眼に宿っていたあたたかい光などはとうに失われたようで、それはまるで、私がいつか見たあの夜の海のようだった。
その海のディープブルーは今でも鮮明に思い出せる。少しでも気を緩めれば吸い込まれてしまいそうな花紺青の闇や静かな波の音に、当時幼かった私は得体の知れない恐怖を感じた。
彼の眼の中にはそのときの海が重くゆったりと満ちており、その波はこちらに手招きをしているように思えた。
その眼に吸い込まれそうになるのを、私は懸命にこらえる。
陽当たりの良い家がいいと言って譲らなかった彼がいま、この小さな庭を見、何を思っているのか私には見当もつかなかった。
下手をすれば、彼は雨の降る庭など見ていなかったのかもしれない。
彼を想って植えた白い紫陽花が今、小さな庭の隅で雨に打たれている。
私はふと、彼がこのままどこかに消えてしまうのではないかという不安に駆られた。あの海に、あの青に、あの闇に。吞み込まれてしまうと思った。
恐怖を感じた私は思わず彼の肩に頭を乗せ、縋るようにして彼の綿シャツの袖を掴んだ。彼は一瞬驚いたようだったが、すぐにいつものあたたかい雰囲気を体に纏うと、張り出し窓に目を戻した。
白い紫陽花の隣に、彼がこっそり植えた早咲きの桔梗が見える。
私たちの庭は、柔らかな光と静かな雨を受けて優しく輝いていた。
2.柔らかな光
「雨は嫌いだ。」
僕は窓辺に座って呟いた。もとから雨が嫌いだったわけではないのだが、雨が降ると、彼女は暗い表情になることが多かった。彼女にそんな表情をさせる雨を、僕は好きにはなれなかった。
二人で暮らすと決めたとき、彼女は目に見えて嬉しそうだった。春の暖かい太陽の光が彼女の笑顔を輝かせたとき、僕は思わず彼女に見惚れてしまった。そして、彼女の笑顔は僕が守ると決めた。
僕は彼女の白い肌が大好きだ。それはまるで陶器のようで、気安く触れようものなら触れたところから粉々なってしまうのではないかと思わせるほどだった。もっとも、彼女はその白すぎるともいえる肌をコンプレックスにも思っていたようだったが。
僕が陽当たりの良い家に住みたいと言ったときも、彼女は反対しなかった。むしろ、日焼けをしてしまうが君はそれでいいのかと僕に聞いてきたほどだった。そんな彼女が僕には愛おしかった。
僕の彼女は梅雨が好きだ。
彼女に暗い表情をさせる梅雨が。
僕は梅雨を憎らしくも思ったが、なぜ梅雨が好きなのかを彼女に問うと、単に紫陽花が好きだからだと言った。そうかと言って肩を落とした僕を見て、彼女は陽だまりのように笑った。よく笑う彼女が好きだった。
一緒に暮らし始めてしばらく経った頃、彼女は庭に紫陽花を植えたいと言った。彼女曰く、紫陽花と僕は似ているところがあるのだと言う。
紫陽花の花言葉が移り気だの浮気だのというのを聞いたことがあったため、僕は正直複雑だった。が。彼女が好きな紫陽花を見て笑顔になれるのならばそれでもいいと思った。僕が承諾すると、彼女は嬉しそうに笑った。
彼女が僕を想って植えた白い紫陽花が今、小さな庭の隅で雨に打たれている。
僕はいずれ彼女と結婚したいと思っている。それは僕の独占欲の末に出た結論ではなく、彼女のそばにいたい、彼女のそばにいてその笑顔を守りたいと思ったからだった。僕は、彼女を幸せにしたい。
そのため、彼女には近々プロポーズをしたいと思っているし、もし結婚式を挙げるならジューン・ブライドをプレゼントしたい。どうせなら彼女を世界一幸せな女性にしてあげたいのだ。
僕はふと、彼女がいつまで僕のそばにいてくれるのだろうと疑問を感じた。
一体いつまでなのだろう。プロポーズをするまではそばにいてくれるのだろうか。死が二人を分かつまで、ずっとなど、僕のそばにいてくれるのだろうか。焦りとも不安ともいえぬ恐怖に駆られる。
ふいに彼女が僕の隣に座った。彼女は僕にばれないようにちらりと僕の表情を見ると、張り出し窓に見える小さな庭に目を戻した。そうと思えば今度はその頭を僕の肩に乗せ、まるで子どものように僕のシャツの袖を掴んだのだった。その表情はどこか不安げに見える。
僕は一瞬たじろいだ。何かあったのだろうか。それともやはりと思い、うらめしそうに雨の降る庭に目をやる。
僕はどうしても、彼女を愛してやまないように思えた。
彼女が植えた白い紫陽花の隣に、僕がこっそり植えた早咲きの桔梗が見える。
僕たちの庭は、柔らかな光と静かな雨を受けて優しく輝いていた。
