園部藩主小出家と『美山考』
学芸員の展示解説がある日(2025.11.9)を待って、南丹市立文化博物館の特別展「園部藩主小出家」を見学してきた。

右:令和元年特別展の図録
『美山考』関連で、近世における美山町域の統治状況について調べていると、下記のように園部藩が大部分の村を藩領としているものの、篠山藩領は鶴ケ岡・大野・知井地区で、一部の村を園部藩領域に割り込むように配置されており、更に旗本武田兵庫が鶴ケ岡地区の二ヶ村を領地とするなど、統治する土地の連続性がない状態(どちらかと言えばトビトビの状態)であることを知った。
園部藩:熊壁、大及、上吉田、林、船津、殿、棚、砂木、栃原、今宮、樫原、川谷、上司、沢田、棚田、和泉、市場、野々中村、島、下吉田、宮脇、板橋、原、上平屋、下平屋、又林、長尾、安掛、野添、荒倉、大内、上久保、知見、知見中村、芦生、白石、佐々里
篠山藩:庄田、洞、名島、神谷、松尾、田土、川合、向山、小渕、音海、肱谷、小笹尾、岩江戸、大野、萱野、北、南、下、知井中、河内谷、江和、田歌
旗本武田兵庫:山森、脇

このような非連続的な領地の統治が、当時の幕藩体制においてはよくあるケースなのか判断する知識がなく、美山町域ではどのような経緯でこのような状態になったのか分かるかも..と思い、朝から結構強い雨が降るなか博物館に向かった。
博物館に隣接した駐車場付近は公園整備の工事をしていた。

館内に入り、コンビニで買っておいたパンで早々に昼食を済ませた後、常設展示室と特別展示室をサッと見て回った。
特別展示室には、江戸時代に作成されたという「丹波国船井・桑田・何鹿郡領主別色分図」が展示されていた。
小渕地区のあたりに「大渕」の文字があるなど初見の村名はあるが(□堂□に見えるものもあった)、山森周辺には村名は読み取れないものの、領主が他とは異なる白色で表記されたところもあり、上記に掲げたものとおおよそ似たような感じで藩領の色分けがされている。
定刻の 13:00 からは、学芸員の解説を聴きながら特別展示室を見て回った。やはり解説を聞くと展示品の意図がよく分かる。
園部藩は元和 5年(1619)に立藩され、明治 4年(1871)の廃藩置県まで小出家が藩主を務めたとのことで、豊臣家と深い関係にあり、徳川家ともつながりを持っていたらしい。
ただ、初代藩主吉親の時期に、藩領内の検地を行うなどして藩政の基盤を築いたが、その藩政機構がどのようなものだったのか分かる史料は残っておらず、その後代については一部藩主の事績は分かるものの、多くは謎とのこと。
小出家は 3つの系譜、出石藩、園部藩、陶器藩があり園部藩だけが藩主小出家として明治期まで続いたこと、初代から七代までは藩主と夫人、九代は藩主のみの肖像画があり全て南丹市指定文化財になったこと、「園部城」築城の幕府許可を得ることができず幕末まで「園部陣屋」であったこと、明治期になって十代英尚が悲願の「三層の園部城」を築城したこと、五代英持は煙草の専売制や寺社への寄進を積極的に行った事績があること、七代英筠は文化元年(1804)に桑田郡知見村、知見中村、島村、砂木村を巡視した記録があること..等の解説があった。
解説が終わった後、質問時間をとってくださったので、上記領地がトビトビになっている件について尋ねると、令和元年に行われたシンポジウムでもそのことが話題になり、園部藩に転封される前に元々出石で領有していた石高に合わせるためにちょうどよい村の石高を足し算して選んだ、とか、徳川家とつがなりのある園部藩が幕府から信任を得て街道筋の主要な村を治めた、とか、逆に元々外様である小出家を抑制するために篠山藩の領地を間に配置した等..諸説あったそうで、要はよく分からないというのが実際のところの感じ^^
七代英筠が美山を巡視したことが載っている資料名を尋ねると「知井村史」とのこと。同誌は何度も読んでいたが、その箇所には気づいていなかった..
帰りがけに隣接する中央図書館に寄って「知井村史」を閲覧し、近世に関するページをコピーした。
初代吉親が元和元年(1619)に佐々里まで足を運び、最勝寺に二日逗留した記述が佐々里区文書「最勝寺由緒略記」にあることは分かったが、七代英筠の巡視について書かれた箇所は発見できず..
南丹市立中央図書館や美山図書室に通って「知井村史」をもう一度じっくり読み込んでみよう^^
美山町域の近世を知るためには、園部藩と篠山藩の動向についても知っておく必要があること、近世に繋がるその前の時代、鶴ケ岡一帯は川勝氏が治めており、丹波国と若狭国などの周辺地域全体を俯瞰して中世の動向を見ておきたいこと..等々、机上だけでなく関係する現地も訪れながら美山町域を軸にした中世と近世の動向を考察し、『美山考』に記録していこうかと^^
