美山 大原神社 春例大祭・佐々里 囲垣祭
2026年4月29日記
4月29日は美山町樫原 大原神社の春例大祭。『美山考』関連で南丹市美山町内で行われる祭りなどの行事については、できる限り現地訪問して当日の様子を『美山の祭り』に記録するようにしているが、昨年は大原神社で春に例大祭が行われていることに気がつかず参詣を逃していた。
今年は早くからチェックし、祭りの日時を大野振興会や同地区にお住まいの方に尋ねたりした。日にちはおそらく29日と分かったが、神事の始まる時間については分からなかったため、少し早めに着くように 6:30過ぎに自宅を出発した。
大原神社には 9:00頃に着いた。境内には祭りの設えがされていて社務所の前では背広姿の男性が数人談笑されている。神社の入口付近で行違った方に、神事は何時から始まるのか尋ねると、10:00からとのこと。それまで境内をうろうろさせていただいた。

『美山考』で大原神社の由緒について調べているときに、参詣した人は境内から砂を持ち帰り、豊作を祈願して自分の田んぼに撒く風習があることを知った。
先ほど行違った方に、その砂場のことを尋ねたがご存知ないそうで、白い装束姿の行事に詳しそうな方に聞いてくださった。お二人について神社の裏側に行くと、社殿の下にコンクリートで作られた1メートルほどの正方形枠があり、そこに入れられた砂にしめ縄がされていた。

以前はこの砂を持ち帰り豊作を祈願して(田んぼではなく)苗床に撒いたそうだが、今は農協から苗を購入するため砂を持ち帰る人はいなくなったとのこと。
先日参詣した福知山市三和町の大原神社に、樫原の大原神社から遷座されたとする由緒書があった。
天一位 大原(おおばら)神社
祭神:伊弉冉尊(いざなみのみこと) 天照大神(あまてらすおおみかみ) 月弓尊(つきよみのみこと)
例祭:五月三日(二日宵宮)神輿渡御
恒例祭:節分 節分祭 追儺式 摂社火之神神社鎮火祭
由緒
社伝によると第五十五代文徳天皇の御世、仁寿二年(八五二)三月二十三日、北桑田郡野々村樫原(現南丹市)の地より遷座、国司大原雅楽頭社殿を造営同年九月二十八日遷宮される。元亀天正(一五七三)の頃明智日向守領主となる際、戦禍に遭遇、社殿消失するも明暦年間(一六五五~五八)に旧態に服す。現在の社殿は九鬼氏領主として綾部に封ぜられてより累代の庇護により寛政八年(一七九六)再建される。安政二年(一八五五)千年祭、平成十四年千百五十年祭を斎行する。
(以下省略)
この遷座の由来について何かご存知ことはあれば..と尋ねてみたが詳しいことは分からないとのこと。
ただ先日、私が三和町の大原神社まで国道(R27~R173)をグルっと回るルートで走り、結構遠かったことを話すと、和知から峠道に入ってひと山越えたところが三和町大原で、そう遠くはなさそうな感じでお話しをされていた。
樫原地区は旧桑田郡の美山町に属しているが、地理的な視点で見れば和知に近く、昔は船井郡や綾部方面とのつながりが結構あったのかもしれない。大原神社の樫原から三和町への遷座由来をもう少し調べてみようと思う。


そういえば、美山町内を通るR162に九鬼ケ坂と呼ばれる峠があるのは、ひょっとしたら綾部藩を治めていた九鬼氏と何か関係があるのかも..とついでに妄想したりもした^^
祭りの世話役をされている方(70歳代男性)からもお話を伺うことができた。
祭りの役員は 7人いて、3年に一度入れ替えがあること
今年は 入れ替えの年に当たり、3人(4人だったかも)が新人になって祭りの伝承に苦労があること
子供の頃は神社の前に出店がたくさんありそれが楽しみで来ていたこと
祭りの担い手が高齢になり、神輿は軽トラに積んで巡行していたが、数年前から警察の許可がおりなくなりそれも中止になったこと
など話してくださった。
神事は国歌斉唱から始まった。神主がオ〜ッと低い声を発しながら(あとで調べると「警蹕」というらしい)神殿の扉を開けていく。何かしら背中がジンジンして身が引き締まる思いがする。

祝詞奏上のあと、大野地域の役員や各区長、本宮神社と菅原神社の代表者など、参列者が順に玉串を奉納されていた。一連の神事が終わると神主は「警蹕」とともに神殿の扉を閉め、春例大祭は終了した。
入口で行違った方(今年から祭りの総代になられた方だと分かった)が「お参りありがとうございました。」と声を掛けてくださった。
「良いものを見させてもらいました。ありがとうございました。」とお礼を述べ大原神社をあとにした。
時計を見ると11:00だった。囲垣祭に間に合いそうなので佐々里に急ぎ向かうことにした。美山町のほぼ西の端の樫原から東の端の佐々里まで結構距離がある。亀岡のコンビニで念のため買っておいたスティックパンを小腹に足しておいた。
小一時間ほどで佐々里に着いた。

昨年バイクで訪れた囲垣祭の日は、冷たい風が吹いていた。今日の佐々里も肌寒い..
昨年と同様に屋根がある小屋の下で木札に名前を書く行事が進み、墨が乾いたもののいくつかは八幡宮境内に立てられていた。

境内におられた地元の方と話をした。
八幡宮境内にある樹木は相当古いもので(1400~1500年頃からある?)、倒木を防ぐため鉄骨の柱で枝を支えていること

昔、山を挟んだ向こう側の弓削村の領域が、佐々里側に山を下った辺りまで押し寄せていたことから水源を巡る争いがあり、分水嶺の尾根筋まで佐々里村の領域を押し戻して、そこに名前を書いた木札を立てたことが囲垣祭の始まりになったこと
土地の境界は、谷筋だと川が氾濫したときに位置が変わるため、変化することがない尾根筋で決めていること
境界線は結構曖昧なところもあり問題なることがしばしばあること
昔は100人ぐらい住んでいたが今は10人ほどになり、祭りなどの行事があるときには京都から帰ってきて手伝ってくれていること
世帯数は5戸、内1戸は移住者であり、20年ほどもしたら集落はなくなってしまうのではないかと危惧されること
そうなった場合、山林の共有部分は南丹市に移管されるだろうが個人所有の山林はどうなるか心配なこと
昔、材木で景気が良かった頃に子供を町の学校に通わせるようになったが、それを境に人口が減っていったこと
など集落の歴史や過疎の問題、その他にも、
昔は屋根の上に1メートル以上雪が積もったが今は30cmも積もるか積もらないほどになったこと
新しいトタン屋根はかやぶきの上に張っていること
いろりで鍋物をしていたらかやぶきの天井から虫が落ちてくること
いろりに掛ける鍋の高さは、火加減により自由に上下できるようにうまくできていること
「佐々里」は昔「笹里」と書き、河原一面に笹が茂っていたが、あるときから一斉に無くなってしまった..
など色々なことを話してくださった。
じっとしていると風が冷たく寒い..時計を見れば13:00過ぎ。スティックパンで膨らましておいた小腹も減ったので、近くのお店で猪うどんを昼食にして暖まった。

当地にゆかりのある人たちの名前が書かれた木札が、今年も八幡宮境内に立ち並べられているのを見届けて、佐々里を離れた。

佐々里から流れ来た由良川が、Uターンするように折り返す渓谷の木々は、雨で潤いを増した新緑が鮮やかだった。

帰路はR162で京北経由にした。途中、制限速度が50km/hから40km/hになった直線路の少し先で速度取締をしていた。あぶないあぶない^^
青い色をした切符をもらうこともなく、16:00頃、無事帰宅した。
以上
