おうちで「東海道五十三次」絵と絵の間の旅 #4 神奈川~保土ヶ谷
江戸時代の東海道を、日本橋から旅する想像旅の2日目。
初日の(空想)歩行距離は約27.5㎞。
こんなに長い距離を1日で歩いたことなどない、軟弱な現代人の私は、すっかり全身が筋肉痛です。
身体がきつく、今日はずいぶんと日が高くなってからしか出発することが出来ませんでした。
まずは昨日の最終地点、神奈川台まで進みます。
日本橋を出発以来、初めてのやや急な坂である神奈川台は、全身筋肉痛の身には堪えます。

ところで、これほど江戸時代に栄えていたにもかかわらず、かつての神奈川宿は、なぜそのにぎわいを失ってしまったのでしょうか。
神奈川台からの眺めも素晴らしい神奈川湊は、幕末以後に大規模に埋め立てられたため、現在の景色は当時から一変していますが、江戸時代までは神奈川台の先で湾になっていました。
神奈川台からこの湾を挟んだ向かい側に、砂が堆積して出来た、半島のように突き出た場所、砂州(さす)があり、ここが「横浜村」でした。
そしてこの砂州の先端に、現在は厳島神社という名になっている、横浜弁財天がありました。
現在では大都市として知られる横浜ですが、幕末までは神奈川宿近くの小さな漁村に過ぎなかったのです。

神奈川台の上り坂からも、海の右端にこの砂州の端の方が見えます。
現在はこの先の湾全体が埋め立てられ、その上に中華街や横浜スタジアムがあります。
砂州の奥には、「本牧のはな」とよばれた、本牧村の断崖も見えます。
本牧周辺も、今は埋め立てられて平地になっています。
さらに左手のもっと奥には山並みが見えますが、これは丹沢山地でしょうか。
幕末、日米修好通商条約により「神奈川」は海外に対して開港されることになりました。
しかし神奈川は海運と陸運の中継として栄えていたため、そこに外国人が入るようになると、外国の排斥を唱える人々とのもめごとがおこらないとも限りません。
その為、「横浜も神奈川の一部である」と幕府が押し切り、湾になっていて周りから切り離されていた横浜を開港したのです。
こうして横浜は、西洋文化が日本に最も早く入る場所として発展していくことになりました。その一方で、神奈川はその役目を終えることになったのです。
全長3.5㎞とかなり長い神奈川宿も、神奈川台を下ったら間もなく終わり、東海道はここから海岸沿いを離れて、少し内陸に入っていきます。
さぁ、神奈川宿から1里9町(約5km )、4つ目の宿場、保土ヶ谷を目指していきましょう。
神奈川から保土ヶ谷は、これまでで最も短い区間です。
日本橋から神奈川まで、東海道のルートは現在の国道15号とほぼ同じでしたが、ここから保土ヶ谷までは国道1号とも重ならない、内陸を通る東海道の独自ルートとなります。
神奈川宿を抜けると、富士山に通じる穴と言われる「富士の人穴」がある、浅間神社の門前町、芝生(しばう)村です。
ところで、街道の宿場と宿場の間に設けられ、旅人や、物品の運搬を行う人足が休憩できるように造られた施設を「立場(たてば)」と言いました。
東海道でこれまでに通ってきた大森や鶴見などの「間の宿」は、この「立場」が大きくなったものと言われています。
距離も短く、通常であれば立場や間の宿なども必要なさそうな神奈川~保土ヶ谷間ですが、この芝生村に立場が設けられ、茶屋や飯屋が並んでいたことから、当時浅間神社が参拝客の多い名所だったことが伺えます。
私もちょっと寄り道して、小高い丘の上にある富士の人穴をのぞいてみることにしました。

境内の西側、本堂への途中で左手に分かれる道を進んだところにある横穴が富士の人穴です。
ちょっと坂がきつい・・・。
穴をのぞき込んでも、中は暗くて、本当に富士山にまで通じているのかは分かりませんが、神秘的ですね。
この富士の人穴は、江戸時代には名所となっていたものの、その後の開発で取り壊されてしまいました。ちょっと残念です。
さて、東海道に戻り、先に進みましょう。
街道のすぐ脇には田んぼが広がっていて、のどかです。
浅間神社からもう少し進むと、「芝生の追分」です。
「追分」という地名は、方々でよく目と耳にしますが、これは街道が分岐している場所のことなんだとか。知りませんでした。
芝生の追分では、八王子道と分岐しています。
八王子道は帷子川に沿って進み、この先町田を経て、甲州街道の八王子宿へとつながっていました。
東海道は、この追分を直進すると、まもなく保土ヶ谷宿に入ります。
つづく
