【初心者向け】非思量とは?かつての禅の指導者たちが導こうとした世界、弟子たちに託した思い
未だ是れ思量分別の能く解する所に非ず、
道元禅師がおしるしになった「普勧坐禅儀」の中に以上のような一節があります。
これは、
かつての指導者が導いていった「世界」というのは思量分別の世界ではない。
という事です。
禅の世界にはたくさんの巨人がいます。その巨人には必ずや師匠がおり、また弟子がいます。そこで仏法の相続がなされ、こうして仏法は伝えられてきたわけですね。
仏法とはある意味「師匠と弟子」なのです。
先ほどの一節は、これまで師匠らが苦労して導こうとした世界。それは思量分別で解決できるようなものではないということ。つまり「非思量」の世界だということです。
よく禅用語の中でも見る機会の多いこの「非思量」という言葉。
「思量に非ず」と書きますが、これが大切だということです。これが本来の世界だということです。師匠らは「ここの世界」へ修行僧達を導びこうとしたり、また実際に導いてきたわけですね。
この「非思量」の世界。それは概念や定義上では「思量」や「分別」或いは「神通」さえも手の届かない場所ということで、「思量分別」などを用いては「非思量の世界」には導くことが出来ない世界だということです。
それでは指導者達が導こうとした「非思量の世界」というのは具体的には一体どういう世界だったのか?それは極楽浄土のような夢のような世界だったのでしょうか?楽しそうに朗らかで、いつも美味しい牡丹餅を食べておるような世界だったのでしょうか?
残念ながら指導者達が導いた世界というのはそういう感情的な話ではありません。「饅頭」を食べてニッタリ笑うようなそういう世界へ導いてくれた訳ではないのです。
指導者が「払拳棒喝」を用いて導こうとした「非思量の世界」というのは、
我々が今ここに生きている実物の世界、自己の世界
の事です。
もちろん饅頭がいつでも食べられれば嬉しいです。美味しいですし、甘いです。食べられれば簡単に死ぬこともありません。それを食うために我々は日々頑張っていると言っても過言ではない。
しかしそれは本来の安心ではないということですね。それではダメだということです。
生きていれば色々なことがあります。経済的問題で常に美味しい饅頭が食べられるわけではないし、あるいは健康的な問題で食べたくても食べられない、そういう状況に陥ったりします。
そのせいで自暴自棄に入ったり、他人を攻撃したりする。これが要するに人間という生き物です。
しかし我々は人間ではないんですね。本来は「仏」なのです。またこの世界も仏の世界なのです。
ここでは仏の生き方をしなければなりません。それが本当の生き方で、それができることが我々にとっての本当の「饅頭」を食べられている生き方なのです。
仏として正しい生き方をするこそ、そしてそれができたのなら、それこそが本当の安心で、我々の本来であると、それを指導者たちは言いたいわけですね。
どういうことかというと、我々はいつどこでも腹がへる。いつどこでも呼吸ができる。いつどこでも足を組めば痛く、肌をつねれば痛い。またいつどこでも鳥の声や車の音が耳を震わせます。
それはもう絶対にです。
いつどこでも常に、こうした止めることのできない絶対的な命を生きているわけです。いつどこでも肌をつねれば痛いこと、棒で殴られれば痛いこと、常にこうした止めることのできない絶対的な命を生きているわけですね。いつどこでもこうした止めることのできない絶対的な命をいただいているんですね。約束された命をいただいているのです。
またそれらはみんなが同じで、またどこにいても同じで、それ以上も以下もない、宇宙いっぱいの命をいただいているわけです。
この自己に関して見てみても、いつどこでも肌をつねれば痛い。足を組めば痛い。歳をとっていく。このようにこの世界の「すべて」の恩恵をいただいているわけです。宇宙いっぱいの恩恵を、仏の恩恵をいただいているのです。
そういった世界を指導者達は修行者たちに見せてきたんですね。常に我々は宇宙いっぱいの命を生きていること、常にこの世界の正体に導いてきたのです。
常にこの世界の正体を現じている、常にそれ以上も以下もありません。ということはそこが全てであると。そこが本当の安心だと。
今、ここ、この自己に、この世界の全て、悟りが含まれているわけです。私が悟りそのものであるわけです。
道元禅師がよくおっしゃるよう「自己に親しむ、自己に親しむことが仏道である」というのはこういう意味があるからなんですね。
「饅頭」を食うためになんとかする。お金を稼ぐためになんとかする。過去の祖師方はそのようなことを言ってきたわけではないんですね。そのようなこととは、次元の違う世界へ我々を導こうとしてくれたわけです。
例えば上記の記事にみるに、徳山宣鑑禅師は「言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒。」と言うんですね。
「如何なるか是仏法?」、「何がギリギリの教えですか?」、「何が自己の正体ですか?」、「何が非思量ですか。?」そのような質問に対して言い得たとしても、三十棒。また言えなかったとしても三十棒。どっちにしろ三十棒だ!と言われます。
今の話で言うと、それが正しいんですね。仏法はそのような概念の話ではないからです。どちらかといえばどちらでもないのです。あるいはどちらでもあるからです。
そのことを気づかせるために、棒で修行者を打ち叩くわけです。叩かれた方は初めは唖然としてしまうでしょう。しかし真なる意味ではこれ以上ない親切なやり取りだったわけです。
これは、世間一般では通用しない話です。
百点満点取ろうが、三十棒。零点であろうが、三十棒という話ですから世間では全く通用しない話であります。
しかし仏法の真実は「今、ここ、この自己の実物」、あるいは「今、ここ、この世界の実物」なんです。それ以外ないわけですね。
仮にそれが百点満点を取ったとしても、或いは零点であったとしても仏法の真実には全く関係がないわけです。
「生命の実物」からしたらそのテストの結果が「百点」だろうが「零点」だろうがどっちだっていいんですね。
話を冒頭に戻すと、この三十棒で殴られて痛いと感じたこと、それが「非思量の世界」であるということんです。概念ではないということ。そしてそれこそが本当のお悟りの世界だということです。
「そのような世界を我々は生きている。皆が本来安心して生きていけるような世界が常にある。」それをお前たちは伝えていくのだぞと、そういう思いがそこにはあったわけです。
三十棒ぶん殴られて、自分自身が紛れもない当事者だということに気付かせてくれた。仏そのものだと気づかせてくれた。
そこまで気づかせるのですから、徳山宣鑑禅師による三十棒の教えというのは実に尊いものですね。
とはいえ、我々には概念がどうしても付きまとう。これが本来だと言われても仕方ないくらいに密接になってしまいました。この概念を除くというのはもはやできません。仲良く付き合っていくというのが我々ができる唯一のことでしょう。
なので、
未(いま)だ是れ思量分別の能く解(げ)する所にあらず。
というのは、「何だ、思量分別なんか高が知れている。」という風にこの「思量」の世界を見限るのではなく、
「思量分別が世界の全てではない」
という事に気付いてほしいという願いが込められているのです。
