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仏道を歩むこと。仏法を学ぶこと。足を組むこと。

坐禅を組むと足が痛くなる。それは確かなことで、つまり確かな命を捉えているということ。つまりそれは私という命の真実であり、その自分とは同時の、この世界の真実であるということでもあるわけです。

また坐禅をしていると鳥の声が耳を震わせる。あるいは組んだ足がどうしようもなく痛くなる。それらにやめろと言ってもやめてくれない。どこまでもその状況が続いていきます。

坐禅をしていなくても気づけば腹が減る。呼吸が繰り返される。

私のこの命は大自然に一任されているのです。

ということは私というのは大自然なのです。世界と私とは1つということなのです。

また、なぜ?という詮索とは関係なく、足を組むと痛くなり、肌をつねると痛くなる。

それらは確かに痛いわけですが、確かなことであるにも関わらず、その仕組みがわからない。我々はそういう解明できない命を生きているということがわかるわけです。

非思量の命をいただいているわけです。大自然とは非思量なのです。確かなこととは非思量なのです。確かだから非思量なのです。

頭でわからなくてもこの世界には確かな何かがある。確かな真実がある。坐禅を組むとそれがわかる。

しかしいくら非思量と言っても、坐禅をするとその「確か」が行われてくる。確かに痛くなり、確かに聞こえてくる。

この世界では絶対に足が痛くなる、絶対に腹が減る。絶対に他が自分の命を震わせている世界だということがわかる。

絶対ということはすべてが約束を果たす。真実むき出しで、いきつまりのない世界。

色々な場所で坐る。色々な場所に行ってみる。どこもかしこもそういう世界だということがわかる。絶対的なものがある世界。身を預けることのできる世界。安心を任せられる世界。常に救いの世界、仏の世界だということがわかってくる。

坐禅をするとこの世界は絶対的な世界で、仏の世界で、坐禅が仏法がそのものであるということがわかる。真実そのものであることがわかる。

坐禅をすると、あるいは仏道を歩んでいくと、世界すべてが輝く。輝いて見える。もとから輝いているということがわかる。

足を組み痛くなること。またそこでは鳥の声が確かに耳を震わせること。それは自分が仏で世界が仏だからだ。自分は仏で、世界も仏。1つの仏のみなのだ。

また紛れもなく自分が仏(真実)で、世界も仏(真実)だからそういうことが起こるからだ。お互いが仏として確かに生きており、自分と世界に垣根がないから。常に交わっているから、鳥の声が自分の耳を震わせる。自分の命を起こす。今の命とはそのような交わりがあるから起こる。事実として起こる。

その事実が起きるのはそこには確かなことがあるから。確かなこととは仏だ。だからそこに仏があるから。真実があるから。真実と真実の交わりがあるから。

だから事実というだけで尊いのだ。いまここにはその真実が常にひろがっているからだ。仏が常に広がっているからだ。

電車の中で学生がうるさいのも、借金して雨に打たれても、家族に逃げられ、意気消沈しても。

どんな状況になってもそこには嘘偽りのない真実の世界が広がっている。事実が広がっている。

今がどんな状況であっても仏のみの救いの世界がが広がっている。

坐禅をするとそういうことがわかる。

「ここ」は、いつでもどこでも肌をつねれば痛い。鳥の声が聞こえる。そういう世界である。

生きている間、常に仏として生きており、その仏として死んでいく。いや死ねない。私が死んでも、私の耳を震わせたあの鳥や救急車、壁があり続けるように。

私はこの世界と、この世界の仏たちと常に共にあり続ける。

坐禅をすると今生きていることがどういうことかわかってくる。今生きていることがどれだけ素晴らしいことか。そういうことがわかってくる。

坐禅を組むのはそういう真実を捉えるため。真実の世界に帰るため。だから組むのである。

また仏法もそのためにある。それを知るために学ぶ。

人生を素晴らしくするために学ぶ。真実を学ぶためにある。そして常に救われてるのだから生きてるだけでいいんだということを知るために学ぶ。

だから仏法を学ぶ。足を組む。我々は仏で、この世界は仏のみ。生きているだけで素晴らしいと知るために。

誰もがそういう世界を志す。目指す。導く。そうなるために活動する。

生まれながらに水の中にいる魚はそこが水の中であるという自覚がない。ここに一匹の考えることを知った魚がいたとして、もっと自由にスイスイ泳げるところはないだろうか。この喉の渇きを潤してくれるもっと美味しい水はないだろうかと考える。その魚は理想のすみかを探して泳ぎ回った。挙句の果てに陸の上にまで這い上がる。あっちを這いずり回り、こっちを這いずり回り。そのうちにお日様に照らされた鱗は乾き、喉はひいひい。もはや日干し魚になる寸前である。たまたま水の流れるせせらぎの音を聞いた。やっとの思いでそこに辿り着く。よく見れば、そこは自分が泳いでいた元の川であった。(中略)水の中にいる魚が、そこが水であったと知るのは思い込みでも不十分であるし、これが水であったと気づくのは一つの大きな転機が必要である。そこは理屈で説明のつく領域ではない。これがお釈迦さまの一見明星の大悟であり、道元禅師の身心脱落の大悟である。もともと水の中であったと本当に信じ切れた時である。それでこそ「一毫も仏法なし」と叫べる。世の中のこと目にうつり、耳に触れるものすべてが真実そのものであることに気がつき、仏法などと真実らしいものを求めて苦労していた愚かさに気づくことである。水の中にいる魚は迷っていても水の中である。やっとの思いで見つけた水も、もとの水であった。私たちもいかに迷ってみたところで自分の顔には、目が横に鼻が縦に付いている。さんざん苦労して悟ってみても、やはり前と同じように、目は横に鼻は縦に付いている。迷いは迷いながらに、そのままが真相である。自分の頭の中で完全とか、不完全とか、勝手に区別しているに過ぎない。迷っても、悟っても、天地宇宙には、いささかの変化もないし、増減もない。迷いながらの坐禅であっても、それは自分勝手に迷っているような気がしているに過ぎない。雑念妄想ながらの坐禅であっても、それを雑念妄想だと、自分で邪魔しているだけである。天地宇宙の真相から見れば、それはそれなりにみな真相である。迷える坐禅も、悟った坐禅も、すべて身心脱落している坐禅である。引用:良寛さんと道元禅師より

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