生きているだけでいいと伝えるもの。「仏教」とはこれ。涙の正体とは?
私は「仏教」を信じております。
その「仏教」とは何か?
一言で言えばそれは「絶対的事実のこと」だと思っています。
問答無用で腹が減る。問答無用で食べたものを消化し、排泄する。問答無用でカラスの声やストーブの音が聞こえてくる。自分の屁は自分でこく。足を組めば痛い。こういったことです。
揺るがないことですね。誰にとっても同じこと、絶対的なこと。仏教とはつまるところ、これのことだと思っています。
人間は頭がいいです。
例えば「なぜ腹が減るか?」に関して、
それは血糖値が低下してエネルギーが不足するためだ。
科学の力を持って今やここまでわかるようになりました。人間は頭がいいのでこうした因果関係を明らかにし、そしてきちんと論理立てて説明することができます。何事においてもその法則を見破り解決してしまう。
我々はいずれどんなことでも解明してしまうのかもしれませんね。
しかしその因果関係がわかったところで、この腹が減らなくなるわけじゃない。自分の屁は自分でこき続けなければいけない。どんなに今後天才が現れて、さらなる生命体のメカニズムを解明できたとしても、この腹が減るがなくなるわけじゃない。誰かが代わりに自分の屁をこいてくれるようになるわけではない。
問答無用で腹が減る。問答無用で食べたものを消化し、排泄する。問答無用でカラスの声やストーブの音が聞こえてくる。自分の屁は必ず自分でこき続けなければならない。これはもう絶対です。どうすることもできないものです。
でもだからいいんです。だからこそ真実なのです。
というのも、そのようなことは紛れもなく絶対的なことで、例外なく誰もに共通することです。つまり事実だからです。
普段我々は安心する機会に出会うことはそう多くありません。仮に大金が手に入った!安心だ!しかしいつ誰に騙されるかわからないと思って不安になる。またいつ犯罪に巻き込まれるかわからない。災害に遭うかわからない。働けなくなるかわからない。こうした不安を誰もが抱えております。
そんな時、ふと安心が欲しくなります。
仮にそこでどんなに大金が舞い込んでこようと、またどんなに地位や権力を持てたとしても本当の安心にはつながりません。なぜならそれらは概念上のやり取りだからです。
そもそも概念というのは存在しているかどうかわかりません。実際に触ることができないからです。差し出そうと思っても差し出せないものだからです。
例えばその概念の最たる特徴として「言葉でのコミュニケーション」があります。言葉=概念といってもいいのですが、我々はこの言葉を操る生き物です。
もともと先祖のホモサピエンスは仲間に外敵の居場所、餌のありか、そういったものを共有するために発声をしたと言います。これが「言葉」の始まりです。
そんな言葉を現代の我々は多用するわけですが、例えば日本語には「別れ霜」という言葉があります。この意味を知っている方はいいのですが、知らない人からすれば当然その意味がわからないですよね。
つまりあなたの世界にまだこの「別れ霜」は存在していないことになるのです。
しかしもしあなたが今この瞬間辞書を引き「別れ霜」の意味を理解した時、あなたの人生にはこの「別れ霜」の世界線が生まれてきます。
このように概念というのは言葉によってもたらされるものであり、まるで実体のない、突然姿を現す幽霊のような存在だということなんです。
そしてそれは単なる「認識」であるということなんですね。それを「ある」と言っても良いのかも知れませんが、本当のところはわからないのです。
我々が普段安心だと思っているものはそのような概念によってもたらされたものだということです。そしてそんな概念のために一生を捧げ、概念のために死んでいく。これが今の我々の全てです。
しかし繰り返しになりますが概念というのは幽霊のようなものです。
そんなものに安心という大役が務まるはずはありません。
我々が本当に安心をするためには寄りかかる場所が必要です。「確かな存在」が必要なのです。
そこでいうと、その役を担ってくれるのが冒頭の話の事実だということなんですね。我々はそれが事実であれば安心することができます。なぜなら事実というのは絶対的なもので、確かなものだからです。概念と違って確かに存在しているものだからです。
どこかにそんな事実はないか?そう思ってしまう中、例えばそれは今ここで「私自身」に目を向けてみるとわかることなんですね。
例えば今こうしている瞬間、朝食べたご飯や味噌汁が消化され、また問答無用で腹が減っている。また明日になれば再度問答無用で食べたものを消化し、排泄する。いついかなる時も問答無用でカラスの声やストーブの音が聞こえてくる。どんなに歳をとっても自分の屁は自分で屁かなければいけない。どんなに偉くなっても誰かが自分の代わりにトイレに行ってなどくれない。
私も首相や大統領であっても、誰であっても足を組めば痛い。
これらはもう絶対的なことであり、まぎれもない事実です。またそれらは全て自分の生命活動のこと、つまり「生命の実物」とも言えるでしょう。
この事実は誰にとっても持ち合わせているものです。またいつの時代においても。これから先においても。
そしてその事実というのが我々の本当の安心だということなんです。なぜならそれは絶対的なものだからです。そしてそれは紛れもなく痛いと感じられたり、うるさいと聞こえたり、確かに存在しているものだからです。
またそれらは生命をきちんと動かしてくれていて、我々にとってはかけがえのない生命活動でもあるということなんですね。
つまり生きるということがもはや安心以外の何ものでもないのです。
今どんな思いに駆られていようがこうして腹が減っている事実、足を組んで痛くなる事実。この生きているだけで得ることができている事実。
生きているだけで絶対安心の中にいるわけなんです。不安に思えるというのはさらに幸せなことなのかもしれない。
我々はいつも腹が減ってどうしようと不安になってしまいます。どうにしかなければいけないと思ってしまいます。それはもちろん煩わしいことなのですが、しかし腹が減ること、うるさくてもちゃんとカラスの音が聞こえてくること、自分でこく屁があるということ。これが本来最もありがたいことなんだと。そういうことなんだと思います。
「仏教」はそうした事実のことです。今こうして生きている事実を伝えるのが「仏教」だということで、その事実が最も大切なことなんだと「仏教」は言いたいのだと思います。
生きているだけでいい。
「仏教」とはこのことを伝えるものだと思っています。つまり腹が減るということや不安に思えるということ自体が本当にありがたいことなんだよと。
誰もが例外なく常にそう言う命をいただいているんだよと。我々は生まれながらに救われているんだよと。それは紛れもない事実で、その事実を伝えるものが「仏教」なのだと思います。
普通であればそんなことに感謝なんてしません。犬や猫が腹が減ってありがたいなんていちいち思わないですよね。生きているだけで幸せだなんて思うわけがないんです。
しかし彼らが思おうが思わまいが、また我々が思おうが思わまいが、そういった紛れもない命をいただいていることには変わりがありません。それは思うか思わないかの違いです。要するに立って歩く人間か、四足歩行で生きる犬の違いかだけの話です。
しかし人間にとっては、これが救いになるんです。思い煩う我々ですから、そんな我々に対しては、仏教が必要です。思い煩っても生きていけるように。思い煩っても生きていることには変わりがないんだよと、生きているだけで幸せで、救われているんだという教えが必要なんです。
犬や猫に「仏教」など入りません。そんなものなくても生きていけます。本来この世界は仏のみなのですから。「仏教」なども本来必要ないのです。
しかし人間は違います。概念をもってして本来仏のみの世界から一線を画し、どんどん遠ざかってしまう。遠ざかっているように錯覚してしまう。だからこういったことを伝えていく必要があるんです。
ざるで水を掬おうとしなくもいいんだよと、そのざるは水につければいいんだよと、そこで一度坐禅を組んでみなさいと、そう伝える必要があるわけです。
本来この世界は仏のみ。そのことを伝えるもの、我々を本来の世界に戻してくれるもの、それが「仏教」なんです。人間には「仏教」が必要なんです。
我々は生まれながらにして誰もが救われています。
生まれて生きていくということは絶対に腹が減ると言うことです。腹が減り続けると言うことです。
これはどうすることもできない事実です。本当に嫌になりますね。1週間分くらい食い溜めができれば便利なのに、そうはいかない。
食える量は決まっている。毎日食べて、消化をし、排泄する。実に煩わしい。
しかしそれはつまり、生きている間は我々は救われ続けているということなんです。
救われないなんてことはないということなのです。
人間には「仏教」が必要です。私もこの「仏教」を伝えんがために、こうして筆を握っているわけです。
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