娘と呼べなかった、あの子へ
「この部屋、まだ鉛筆の匂いがする」
梓は、子ども部屋の戸口に立っていた。
紺色のコートの肩で、雪が小さな水滴に変わっていた。
東京へ出てから四年、一度も帰ってこなかった。
妻から、家を引き払う前に荷物を片づけるよう言われたらしい。妻は新居で荷物を受け取っており、梓が今日戻ることを、私にだけ知らせていなかった。
「急だな」
「言ったら、来なくていいって言うでしょう」
私は返事をしなかった。
たぶん、言っただろう。
梓は、妻が前の結婚でもうけた子だった。
七歳から同じ家で暮らしたが、私は彼女を娘と呼べず、梓も私を父とは呼ばなかった。
互いに遠慮しているのだと思っていた。
遠慮という言葉は便利である。
臆病な人間が、少しだけ礼儀正しく見える。
*
窓の外では、朝から細かな雪が舞っていた。
夕方には積もるという。
一階の傘修理店は駅裏の小さな店舗へ移り、この子ども部屋も今日で空になる。
梓は古い机の引き出しを開けた。
親指ほどに短くなった鉛筆が、乾いた音を立てて転がった。
高校生の頃、梓が傘の設計図を描いていた鉛筆だった。
「まだ取ってあったんだ」
「捨て忘れただけだ」
私は冷めたコーヒーを飲んだ。
苦さだけが舌へ残った。
本当は、自分から先に謝りたかった。
だが謝罪というものは、口から出す直前になると、家具ほど重くなる。
私は傘の骨なら何百本でも直せるのに、自分の口一つ、持ち上げられなかった。
*
梓が七歳のとき、私は初めて彼女の傘を直した。
黄色い子ども傘だった。
折れた骨を継ぎ、破れた布へ雲の形の当て布をした。
「新品より、こっちがいい」
梓はそう言った。
私は嬉しかったが、「そうか」としか答えなかった。
若い頃、師匠から、職人は人の手を借りるなと教えられた。
困ったと口にした瞬間、腕まで軽く見られる世界だった。
私はその教えを守り、店の経営が苦しくなっても妻に言わず、帳簿を手伝うという梓の申し出も断った。
助けてくれようとする人を遠ざけることまで、私は自立と呼んだ。
ずいぶん立派な一人前である。
誰もそばにいなくなってから完成するのだから。
*
梓は高校生になると、短い鉛筆で何本もの傘を描いた。
骨や布を部品ごとに交換できる、安価な量産傘。
壊れたら捨てるのではなく、家庭でも一部分だけ取り替えられる仕組みだった。
四年前、梓はその傘を研究する会社へ行きたいと言った。
私は反対した。
「機械で作った傘に、修理する価値はない」
梓は設計図を畳み、そのまま東京へ出た。
引き止めもしなかった。
それ以来、彼女は私に何も期待していない。
私はそう思っていた。
*
午後、地元紙の記者が店を訪ねてきた。
移転を機に、「町の傘職人」を紹介したいと、商店会が決めた取材だった。
記者は壁の古い傘や修理道具を撮ったあと、二階にいる梓へ目を向けた。
「娘さんが戻られたんですね。跡を継がれるんですか」
私は否定できなかった。
私は長年、工場製の傘を使い捨ての道具だと批判してきた。
商店会では、東京から戻った梓が店を継ぐという話まで広まっている。
訂正すれば、後継者もなく、娘にも見限られた頑固な職人と思われるだろう。
評判など、雨漏りする傘より役に立たない。
それでも手放すとなると惜しくなるから、我ながら見上げた貧乏性である。
記者は二階へ上がり、梓へ話を聞いた。
私はコーヒーをいれ直し、子ども部屋へ向かった。
戸口の手前で、足が止まった。
「お父さまには、東京行きを応援してもらえたんですか」
記者の声がした。
少し間を置いて、梓が答えた。
「応援してほしいとは、言いませんでした」
「どうしてですか」
「血がつながっていないのに父親らしい言葉を期待したら、あの人の重荷になる気がして」
机の上で、短い鉛筆が転がった。
「本当は、行ってこいって言ってほしかったです。失敗したら帰ってこいって。でも、それを口にしたら、家族になってくれと迫るみたいで怖かった」
手の中で、コーヒーがまた冷めていった。
梓は私に期待していなかったのではない。
私を困らせないため、期待を隠していた。
守られていたのは、親らしいことを何一つ言えなかった私のほうだった。
*
私は部屋へ入った。
梓と記者が振り返った。
「会社から、採用の知らせが来たんだろう」
梓は短い鉛筆を握った。
「来月から、開発に入る」
窓の外で雪が強くなった。
私は古い設計図を開いた。
部品ごとに直せる傘が、何本も描かれていた。
ここで否定すれば、私はこれまでどおり、伝統を守る頑固な職人でいられる。
だが守っていたものが技術ではなく、自分の評判なら、そんなものに骨を継ぐ価値はない。
「おめでとう」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。
「俺とは違うやり方で、直せる傘を作るんだな」
私は記者へ向き直った。
「この人は店を継ぎません。自分の傘を作ります。反対していたのは私です。見る目がなかった」
娘は、と続けた。
初めて口にした言葉だった。
明日の商店街では、私が工場の傘に負けたと笑われるかもしれない。
それで下がる程度の評判なら、初めから私の腕とは関係がない。
「すまなかった」
私は梓より先に言った。
「それから、頼みがある。下の作業台を運ぶのを手伝ってくれ。一人では無理だ」
梓は短い鉛筆を机へ戻した。
「雪が積もる前なら」
「頼む」
*
夕方、梓は駅へ向かった。
私はいつも、別れの言葉を言う前に店の奥へ戻っていた。
見送ると、本当に帰らないような気がしたからだ。
けれどその日は、店先に立ったまま、彼女の背中を見ていた。
梓は一度も振り返らなかった。
それでもよかった。
振り返らない人にも、帰れる場所は作れる。
雪はまだ、靴底を隠すほどには積もっていなかった。
私は店へ戻り、短い鉛筆で明日の修理予定を書いた。
コーヒーをいれ直す。
やはり少し苦かった。
ただ、今度は温かかった。
