見出し画像

娘と呼べなかった、あの子へ

https://link.amazon/B0gtQQFL1

「この部屋、まだ鉛筆の匂いがする」

梓は、子ども部屋の戸口に立っていた。

紺色のコートの肩で、雪が小さな水滴に変わっていた。

東京へ出てから四年、一度も帰ってこなかった。

妻から、家を引き払う前に荷物を片づけるよう言われたらしい。妻は新居で荷物を受け取っており、梓が今日戻ることを、私にだけ知らせていなかった。

「急だな」

「言ったら、来なくていいって言うでしょう」

私は返事をしなかった。

たぶん、言っただろう。

梓は、妻が前の結婚でもうけた子だった。

七歳から同じ家で暮らしたが、私は彼女を娘と呼べず、梓も私を父とは呼ばなかった。

互いに遠慮しているのだと思っていた。

遠慮という言葉は便利である。

臆病な人間が、少しだけ礼儀正しく見える。

窓の外では、朝から細かな雪が舞っていた。

夕方には積もるという。

一階の傘修理店は駅裏の小さな店舗へ移り、この子ども部屋も今日で空になる。

梓は古い机の引き出しを開けた。

親指ほどに短くなった鉛筆が、乾いた音を立てて転がった。

高校生の頃、梓が傘の設計図を描いていた鉛筆だった。

「まだ取ってあったんだ」

「捨て忘れただけだ」

私は冷めたコーヒーを飲んだ。

苦さだけが舌へ残った。

本当は、自分から先に謝りたかった。

だが謝罪というものは、口から出す直前になると、家具ほど重くなる。

私は傘の骨なら何百本でも直せるのに、自分の口一つ、持ち上げられなかった。

梓が七歳のとき、私は初めて彼女の傘を直した。

黄色い子ども傘だった。

折れた骨を継ぎ、破れた布へ雲の形の当て布をした。

「新品より、こっちがいい」

梓はそう言った。

私は嬉しかったが、「そうか」としか答えなかった。

若い頃、師匠から、職人は人の手を借りるなと教えられた。

困ったと口にした瞬間、腕まで軽く見られる世界だった。

私はその教えを守り、店の経営が苦しくなっても妻に言わず、帳簿を手伝うという梓の申し出も断った。

助けてくれようとする人を遠ざけることまで、私は自立と呼んだ。

ずいぶん立派な一人前である。

誰もそばにいなくなってから完成するのだから。

梓は高校生になると、短い鉛筆で何本もの傘を描いた。

骨や布を部品ごとに交換できる、安価な量産傘。

壊れたら捨てるのではなく、家庭でも一部分だけ取り替えられる仕組みだった。

四年前、梓はその傘を研究する会社へ行きたいと言った。

私は反対した。

「機械で作った傘に、修理する価値はない」

梓は設計図を畳み、そのまま東京へ出た。

引き止めもしなかった。

それ以来、彼女は私に何も期待していない。

私はそう思っていた。

午後、地元紙の記者が店を訪ねてきた。

移転を機に、「町の傘職人」を紹介したいと、商店会が決めた取材だった。

記者は壁の古い傘や修理道具を撮ったあと、二階にいる梓へ目を向けた。

「娘さんが戻られたんですね。跡を継がれるんですか」

私は否定できなかった。

私は長年、工場製の傘を使い捨ての道具だと批判してきた。

商店会では、東京から戻った梓が店を継ぐという話まで広まっている。

訂正すれば、後継者もなく、娘にも見限られた頑固な職人と思われるだろう。

評判など、雨漏りする傘より役に立たない。

それでも手放すとなると惜しくなるから、我ながら見上げた貧乏性である。

記者は二階へ上がり、梓へ話を聞いた。

私はコーヒーをいれ直し、子ども部屋へ向かった。

戸口の手前で、足が止まった。

「お父さまには、東京行きを応援してもらえたんですか」

記者の声がした。

少し間を置いて、梓が答えた。

「応援してほしいとは、言いませんでした」

「どうしてですか」

「血がつながっていないのに父親らしい言葉を期待したら、あの人の重荷になる気がして」

机の上で、短い鉛筆が転がった。

「本当は、行ってこいって言ってほしかったです。失敗したら帰ってこいって。でも、それを口にしたら、家族になってくれと迫るみたいで怖かった」

手の中で、コーヒーがまた冷めていった。

梓は私に期待していなかったのではない。

私を困らせないため、期待を隠していた。

守られていたのは、親らしいことを何一つ言えなかった私のほうだった。

私は部屋へ入った。

梓と記者が振り返った。

「会社から、採用の知らせが来たんだろう」

梓は短い鉛筆を握った。

「来月から、開発に入る」

窓の外で雪が強くなった。

私は古い設計図を開いた。

部品ごとに直せる傘が、何本も描かれていた。

ここで否定すれば、私はこれまでどおり、伝統を守る頑固な職人でいられる。

だが守っていたものが技術ではなく、自分の評判なら、そんなものに骨を継ぐ価値はない。

「おめでとう」

自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。

「俺とは違うやり方で、直せる傘を作るんだな」

私は記者へ向き直った。

「この人は店を継ぎません。自分の傘を作ります。反対していたのは私です。見る目がなかった」

娘は、と続けた。

初めて口にした言葉だった。

明日の商店街では、私が工場の傘に負けたと笑われるかもしれない。

それで下がる程度の評判なら、初めから私の腕とは関係がない。

「すまなかった」

私は梓より先に言った。

「それから、頼みがある。下の作業台を運ぶのを手伝ってくれ。一人では無理だ」

梓は短い鉛筆を机へ戻した。

「雪が積もる前なら」

「頼む」

夕方、梓は駅へ向かった。

私はいつも、別れの言葉を言う前に店の奥へ戻っていた。

見送ると、本当に帰らないような気がしたからだ。

けれどその日は、店先に立ったまま、彼女の背中を見ていた。

梓は一度も振り返らなかった。

それでもよかった。

振り返らない人にも、帰れる場所は作れる。

雪はまだ、靴底を隠すほどには積もっていなかった。

私は店へ戻り、短い鉛筆で明日の修理予定を書いた。

コーヒーをいれ直す。

やはり少し苦かった。

ただ、今度は温かかった。

https://link.amazon/B0gtQQFL1


いいなと思ったら応援しよう!