「返品」と息子は言った――時計の中に隠された返事
「返品」
息子はそう言って、私の作った置き時計を食堂の丸テーブルに置いた。
真鍮の角は潰れ、裏蓋には小麦粉が入り込んでいる。十年前、二十歳になった息子へ、古い目覚まし時計を組み直して贈ったものだ。
「ずいぶん丁寧に使ったものだな」
「時計は、粉を食わないらしい」
息子は風に褪せた青いマフラーを外し、椅子の背に掛けた。あれも私が買ったものだ。まだ使っているのは嬉しかったが、嬉しがれば、旅立つ息子を責める材料にしてしまいそうで、私は錆びた留め金ばかり見た。
親切や愛情には、たいてい後から請求書が来る。
私はそう信じている。自分が請求する側の人間だからである。
*
海辺の食堂は、私の両親が店を畳んでから六年、ずっと閉まっている。
両親は山側の小さな家へ移り、私は客席の隅を時計修理の作業場にした。水道も電気も、修理仕事のために残してある。息子は古い厨房だけを借り、休みの日にパンを焼いた。
五年前、息子はここをパン屋にしたいと言った。
私は、パンは一日で固くなるが、時計は百年残る、と答えた。職人らしい名言のつもりだったが、ただ息子の選んだものを軽く見ただけである。それから彼は、焼いたパンを私の作業机へ置かなくなった。
明日の朝、息子はこの町を出る。
遠くのパン工房で働くのだという。
私たちは送別も、将来の話もせず、いつものように食堂へ来た。息子は粉を量り、私は時計を開く。別れを失敗ではないと思いたかったが、それを口にすると、負け惜しみの表彰状になりそうだった。
オーブンへ生地が入った。
「四十分」
息子がタイマーを回した。
その間に時計を直せ、ということらしい。
私は裏蓋のねじを外した。油の染みた古い紙を一枚敷き、ねじを順番に並べる。ざらりとした紙の手触りは、人の返事を待つ時間によく似ていた。
去年、私は息子へ手紙を書いた。
〈時計屋を継ぐ気がないなら、せめて、この食堂をどうするつもりか返事をしろ〉
親の手紙というものは、頼み事の顔をした命令である。私はその点、かなり正直な親だった。
返事はなかった。
それなのに息子は、出発前になって私にパンを焼き、時計を持ってきた。こういう親切を、私は素直に受け取れない。罪悪感からだ、別れを丸くするためだと、心の中で値札を貼った。
*
機械を持ち上げると、四つ折りの紙が数枚、裏蓋の内側から落ちた。
古い食堂の注文票だった。
〈返事が遅くなって、ごめん〉
一枚目は、そこで終わっていた。
二枚目には、〈店を継げなくて、ごめん〉。
三枚目には、〈勝手に決めて、ごめん〉。
どの紙にも、その先がない。指で開くたび、乾いた紙の端が皮膚に引っかかった。
「読んだのか」
息子は生地を入れたボウルを洗いながら言った。
「時計の中に入れるほうが悪い」
「出すつもりだった」
「時計の中へ?」
「手では渡せそうになかった。修理なら、あんたは裏まで開けるから」
私は四枚目を見た。〈ごめん。でも〉と書かれ、最後の二文字だけが何度も塗り潰されていた。
「小学生のとき、あんたに言われたんだ。謝る紙には『でも』を書くなって」
窓の外で、波が防波堤を打った。
「書くたび、言い訳になった。店が嫌いだからじゃないとか、時計が嫌いだからでもないとか。そんなのを並べたら、謝ったことまで嘘になる気がして、出せなかった」
返事を無視したのではなかった。
返せなかったのだ。
私の教えた小さな規則を、私より律儀に守って。
私は笑いそうになった。親の言葉は、本人が忘れたあとで効き始めるらしい。ずいぶん性能の悪い時限装置である。
オーブンの中で、パンの表面がゆっくり持ち上がっていた。
甘い匂いが、長く閉めた客席へ流れてきた。
*
時計のぜんまいは切れていた。
私は新しい部品を取り出したが、途中で手を止めた。
直して渡せば、帰ってこいという意味になるのではないか。月に一度は電話しろ、盆には顔を出せ。そういう見えない鎖を、私は時計の中へ仕込みたくなった。
タイマーの針は、残り十分を指していた。
息子は何も言わず、褪せたマフラーの毛羽を指で摘んでいた。
私は部品を入れた。
ねじを締め、針を合わせ、途中でやめた作業を最後まで続けた。
約束も条件も、時計には入れなかった。
ただ正しい時刻だけを入れた。
「返品は受け付けない」
時計を押しやると、息子は両手で受け取った。
「保証は」
「親子間は対象外だ」
そのときタイマーが鳴った。
息子がオーブンを開けると、金色の湯気が立った。私はマフラーをきちんと巻けとも、着いたら連絡しろとも言わなかった。
息子も謝らなかった。
焼きたてのパンを二つに割った。
それで足りた。
*
翌月の第一日曜、私は閉店した食堂の戸を開けた。
月に一度だけ、時計修理を受け付けることにしたのである。
パン屋でも時計店でもない。名前のつけにくい店だったが、いまはそれでよかった。
古い紙に〈時計修理・パンあり〉と書いて窓へ貼った。
パンは、息子が残した配合で私が焼いた。最初の一個は、懐中時計より重くなった。
それでも客が一人、戸を開けた。
「パンも売り物ですか」
私は少し考えた。
「歯に自信がおありなら」
客は笑って、止まった腕時計を差し出した。
私は古い紙を一枚敷き、ねじを並べた。
遠い町で、あの時計も同じ時を刻んでいる。
そう思ったが、確かめるための電話はしなかった。
まだ、午前中だった。
