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『祖母が白衣を脱いだ日、私は夢を選び直した』

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「今日が、最後の勤務なんだよ」

祖母はそう言って、保護犬のハルの前脚に包帯を巻いた。

診察台の上で、ハルが私の手首を舐めた。

大きな体をしているくせに、人が腕を上げるだけで震える犬だった。

強そうに見せることばかり覚え、中身が追いついていないところは、私によく似ている。

「最後って、仕事を辞めるの?」

「先月、退職届を出した」

「どうして黙ってたの」

「言えば、あんたは戻ってこようとするだろう」

胸の奥に、小さな棘が立った。

「私が戻ると、そんなに迷惑?」

また、やってしまった。

私は大切な人にほど、試すような言い方をする。

そんなことはない、おまえが必要だと言わせたくて、わざと傷つく言葉を差し出すのだ。

祖母は答えず、包帯の端を銀色の留め具で固定した。

「次の犬を連れておいで」

私の負けだった。

雪国の三月には、雪ではなく冷たい雨が降る日がある。

白かった道路の端が汚れた水になり、雨上がりのアスファルトから、土と鉄を混ぜたような匂いが立ち上っていた。

私は町の動物保護施設に勤めている。

今日は年に一度の集団健診で、同僚が運転する施設の車に保護犬三頭を乗せ、祖母のいる動物診療所へ来ていた。

診療が終われば同僚が犬たちを連れて戻り、私は祖母の最後の勤務を手伝ってから、路線バスで帰ることになっていた。

祖母とは離れて暮らしているが、週に一度は電話をする。

「元気かい」

「元気だよ。そっちは?」

「元気に決まってる」

私たちは毎回、同じ嘘を交換した。

祖母は退職を隠し、私は施設の所長から勧められた行動ケア研修のことを隠していた。

人間よりも犬のほうが正直だ。

怯えていれば尻尾を巻き、寂しければ扉の前で待つ。

私は四十歳を過ぎても、それほど上手に自分を表せない。

高校を卒業するころ、私には夢があった。

人を怖がるようになった犬に、もう一度、人の手は温かいのだと教える仕事がしたかった。

県外の研修所から願書も取り寄せた。

そのころ祖母は、診療所で朝から晩まで働いていた。

家庭の事情で十歳から祖母と二人で暮らしていた私は、味噌汁の湯気の向こうにある疲れた顔を、毎晩見ていた。

ある夜、祖母が尋ねた。

――おまえは、動物の仕事で何がしたいんだい。

私は答えなかった。

代わりに、願書を食卓へ置いて言った。

――私が町を出ても、診療所さえあれば平気なんでしょう。

行っておいで、と言ってほしかった。

寂しい、とも言ってほしかった。

祖母は何も言わず、急患を知らせる電話を取った。

白衣を羽織って出ていく背中を見て、私は願書を破った。

祖母は私より仕事を選んだ。

そう思った。

ずいぶん都合のよい誤解だった。

夢を諦めた責任を、自分で背負わずに済んだから。

私は地元の保護施設に就職した。

動物のそばにはいられたが、譲渡した犬が新しい家になじめず戻されるたび、破った願書の音を思い出した。

昼過ぎ、三頭目の診察が終わった。

院長の吉岡先生がカルテを閉じながら言った。

「富江さんが辞めると、昼飯を食べるのを忘れそうだな」

「祖母は、そんなにこの仕事が好きだったんですか」

嫌みを少し混ぜたつもりだったが、先生は気づかなかった。

「好きだったかどうかは知らないよ。最初は犬にも触れなかったから」

先生は笑い、汚れた綿を捨てた。

「ただ、あんたを引き取った年に、ここで働かせてくれって来たんだ。自分には二人で暮らす方法が、働くことしか思いつかないって」

診察室の時計が鳴った。

窓の外で、屋根に残っていた雪が落ちた。

「研修所の費用も貯めてたはずだけど、あんたが行かないと言ったから、ずいぶん落ち込んでたな」

先生はそれ以上話さず、次のカルテを開いた。

祖母は、私より仕事を選んだのではなかった。

私との生活を守る方法を、仕事しか知らなかったのだ。

抱き締める代わりに働き、寂しいと言う代わりに米を買った。

ずいぶん不器用な愛情である。

しかし、不器用さなら私も負けてはいなかった。

夕方、施設の所長から電話が入った。

行動ケア研修の選考に欠員が出たため、今日の勤務が終わるまでに応募するか決めてほしいという。

研修中は給料が減る。

合格する保証もない。

親戚からは、祖母が退職するなら雪国へ戻り、診療所で後を継げばいいと言われていた。

それなら祖母も安心する。

住む場所も仕事も決まる。

他人が期待する道は、雪かきされた歩道のように歩きやすい。

私は返事を保留にした。

最後の犬を施設の車に乗せると、診療所の看板の明かりが消えた。

一日の勤務が終わったのだ。

祖母は白衣を脱ぎ、小さく畳んだ。

「おばあちゃん」

「何だい」

「昔、聞いたでしょう。動物の仕事で何がしたいのかって」

祖母の手が止まった。

雨上がりのアスファルトの匂いが、開いた扉から入り込んできた。

「人を怖がる犬が、もう一度、誰かのそばで眠れるようになるまで一緒にいたい」

声が震えた。

「だから研修の選考を受ける。ここには戻らない。親戚にも、私から断る」

これが正しい選択なのかは分からない。

正しくなかったとしても、今度は祖母のせいにできない。

それが、夢を選び直すために私が払う、最初の代金だった。

祖母は畳んだ白衣を一度撫でた。

「そうかい」

それだけだった。

祝ってくれなかった。

引き止めもしなかった。

けれど今度の沈黙を、私は冷たいとは思わなかった。

帰りのバスで、私は車内でいちばん擦り切れた吊り革につかまった。

この路線で四十年、祖母も同じような輪に手を通してきたのだろう。

窓の外では、雪解け水に町の明かりが揺れていた。

私は所長に、選考を受けます、と送った。

未来が決まったわけではない。

決まっていた道から、片足を外しただけだった。

ポケットから仕事用のメモ帳を出し、新しいページに自分の名前を書いた。

その下に、短い言葉を添えた。

――まだ、選べる。

バスが濡れた道路を曲がった。

雨上がりのアスファルトの匂いが、わずかに開いた窓から入り、まだ決まっていない明日の匂いに、少しだけ似ていた。

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