『祖母が白衣を脱いだ日、私は夢を選び直した』
「今日が、最後の勤務なんだよ」
祖母はそう言って、保護犬のハルの前脚に包帯を巻いた。
診察台の上で、ハルが私の手首を舐めた。
大きな体をしているくせに、人が腕を上げるだけで震える犬だった。
強そうに見せることばかり覚え、中身が追いついていないところは、私によく似ている。
「最後って、仕事を辞めるの?」
「先月、退職届を出した」
「どうして黙ってたの」
「言えば、あんたは戻ってこようとするだろう」
胸の奥に、小さな棘が立った。
「私が戻ると、そんなに迷惑?」
また、やってしまった。
私は大切な人にほど、試すような言い方をする。
そんなことはない、おまえが必要だと言わせたくて、わざと傷つく言葉を差し出すのだ。
祖母は答えず、包帯の端を銀色の留め具で固定した。
「次の犬を連れておいで」
私の負けだった。
*
雪国の三月には、雪ではなく冷たい雨が降る日がある。
白かった道路の端が汚れた水になり、雨上がりのアスファルトから、土と鉄を混ぜたような匂いが立ち上っていた。
私は町の動物保護施設に勤めている。
今日は年に一度の集団健診で、同僚が運転する施設の車に保護犬三頭を乗せ、祖母のいる動物診療所へ来ていた。
診療が終われば同僚が犬たちを連れて戻り、私は祖母の最後の勤務を手伝ってから、路線バスで帰ることになっていた。
祖母とは離れて暮らしているが、週に一度は電話をする。
「元気かい」
「元気だよ。そっちは?」
「元気に決まってる」
私たちは毎回、同じ嘘を交換した。
祖母は退職を隠し、私は施設の所長から勧められた行動ケア研修のことを隠していた。
人間よりも犬のほうが正直だ。
怯えていれば尻尾を巻き、寂しければ扉の前で待つ。
私は四十歳を過ぎても、それほど上手に自分を表せない。
*
高校を卒業するころ、私には夢があった。
人を怖がるようになった犬に、もう一度、人の手は温かいのだと教える仕事がしたかった。
県外の研修所から願書も取り寄せた。
そのころ祖母は、診療所で朝から晩まで働いていた。
家庭の事情で十歳から祖母と二人で暮らしていた私は、味噌汁の湯気の向こうにある疲れた顔を、毎晩見ていた。
ある夜、祖母が尋ねた。
――おまえは、動物の仕事で何がしたいんだい。
私は答えなかった。
代わりに、願書を食卓へ置いて言った。
――私が町を出ても、診療所さえあれば平気なんでしょう。
行っておいで、と言ってほしかった。
寂しい、とも言ってほしかった。
祖母は何も言わず、急患を知らせる電話を取った。
白衣を羽織って出ていく背中を見て、私は願書を破った。
祖母は私より仕事を選んだ。
そう思った。
ずいぶん都合のよい誤解だった。
夢を諦めた責任を、自分で背負わずに済んだから。
私は地元の保護施設に就職した。
動物のそばにはいられたが、譲渡した犬が新しい家になじめず戻されるたび、破った願書の音を思い出した。
*
昼過ぎ、三頭目の診察が終わった。
院長の吉岡先生がカルテを閉じながら言った。
「富江さんが辞めると、昼飯を食べるのを忘れそうだな」
「祖母は、そんなにこの仕事が好きだったんですか」
嫌みを少し混ぜたつもりだったが、先生は気づかなかった。
「好きだったかどうかは知らないよ。最初は犬にも触れなかったから」
先生は笑い、汚れた綿を捨てた。
「ただ、あんたを引き取った年に、ここで働かせてくれって来たんだ。自分には二人で暮らす方法が、働くことしか思いつかないって」
診察室の時計が鳴った。
窓の外で、屋根に残っていた雪が落ちた。
「研修所の費用も貯めてたはずだけど、あんたが行かないと言ったから、ずいぶん落ち込んでたな」
先生はそれ以上話さず、次のカルテを開いた。
祖母は、私より仕事を選んだのではなかった。
私との生活を守る方法を、仕事しか知らなかったのだ。
抱き締める代わりに働き、寂しいと言う代わりに米を買った。
ずいぶん不器用な愛情である。
しかし、不器用さなら私も負けてはいなかった。
*
夕方、施設の所長から電話が入った。
行動ケア研修の選考に欠員が出たため、今日の勤務が終わるまでに応募するか決めてほしいという。
研修中は給料が減る。
合格する保証もない。
親戚からは、祖母が退職するなら雪国へ戻り、診療所で後を継げばいいと言われていた。
それなら祖母も安心する。
住む場所も仕事も決まる。
他人が期待する道は、雪かきされた歩道のように歩きやすい。
私は返事を保留にした。
*
最後の犬を施設の車に乗せると、診療所の看板の明かりが消えた。
一日の勤務が終わったのだ。
祖母は白衣を脱ぎ、小さく畳んだ。
「おばあちゃん」
「何だい」
「昔、聞いたでしょう。動物の仕事で何がしたいのかって」
祖母の手が止まった。
雨上がりのアスファルトの匂いが、開いた扉から入り込んできた。
「人を怖がる犬が、もう一度、誰かのそばで眠れるようになるまで一緒にいたい」
声が震えた。
「だから研修の選考を受ける。ここには戻らない。親戚にも、私から断る」
これが正しい選択なのかは分からない。
正しくなかったとしても、今度は祖母のせいにできない。
それが、夢を選び直すために私が払う、最初の代金だった。
祖母は畳んだ白衣を一度撫でた。
「そうかい」
それだけだった。
祝ってくれなかった。
引き止めもしなかった。
けれど今度の沈黙を、私は冷たいとは思わなかった。
*
帰りのバスで、私は車内でいちばん擦り切れた吊り革につかまった。
この路線で四十年、祖母も同じような輪に手を通してきたのだろう。
窓の外では、雪解け水に町の明かりが揺れていた。
私は所長に、選考を受けます、と送った。
未来が決まったわけではない。
決まっていた道から、片足を外しただけだった。
ポケットから仕事用のメモ帳を出し、新しいページに自分の名前を書いた。
その下に、短い言葉を添えた。
――まだ、選べる。
バスが濡れた道路を曲がった。
雨上がりのアスファルトの匂いが、わずかに開いた窓から入り、まだ決まっていない明日の匂いに、少しだけ似ていた。
