忘れ物係には、亡くなった人からの手紙が届く|母に「ありがとう」を言えなかった夜に読む3つの短編
母が死んでから、最初に思い出せなくなったのは、母の声だった。
顔は覚えている。
台所で味噌汁の鍋をかき混ぜる、少し丸くなった背中。笑うと右の目尻だけが深く下がること。冬になると、赤い毛糸の靴下を二枚重ねて履いていたこと。
それなのに、声だけが戻ってこない。
「ご飯、食べたの」
「寒くないの」
「今度はいつ帰ってくるの」
言葉は思い出せるのに、どんな高さで、どんな速さで、私の名前をどう呼んでいたのかが分からない。
記憶は、妙なところで残酷だ。
忘れたい最後の会話だけは、三年たっても薄くならない。
「同じこと、何度も電話してこないで。こっちは仕事中なの」
あの日、母は電話の向こうで黙った。
それから、ひどく小さな声で何かを言った。私は聞き返さなかった。忙しいからと通話を切り、その三週間後、母は肺炎で入院した。
病室で会ったときには、もう私が誰なのか分からなくなっていた。
最後の言葉が「ごめんね」だったのか、「じゃあね」だったのか。今でも分からない。
あなたにも、胸に刺さったままの言葉がないだろうか。
電話に出なかった夜。
見舞いを来週に延ばした日。
照れくさくて、「ありがとう」の代わりに「分かったよ」と答えた帰り道。
生きているうちは、また次があると思ってしまう。次に会ったとき。今度帰ったとき。少し落ち着いたら。
けれど別れは、こちらの準備を待ってくれない。
大切な人がいなくなったあと、苦しいのは「ありがとう」を言えなかったことだけではない。
最後に冷たい言葉を投げたせいで、それまで重ねてきた何十年まで、すべて間違いだったように感じてしまうことだ。
私も、母を愛していたことは何ひとつ届かなかったのだと思っていた。
けれど、愛情は言葉の中だけに残るものではないらしい。
欠けた茶碗にも、古いレシピ帳にも、何度も洗われて色の薄くなった弁当箱にも、誰かを大切にした時間は残っている。
それを知ったのは、母が亡くなって三度目のお盆だった。
私は、海沿いの小さな駅で忘れ物係をしている。
汐見駅。
午後十一時四十七分の終電が出れば、波の音のほうが人の声より大きくなる駅だ。
その晩、清掃員の榎本さんが白い段ボール箱を抱えて事務室へ入ってきた。
「高瀬さん、今日の忘れ物。妙なのが三つあるよ」
箱の中には、赤い表紙のレシピ帳、へこんだアルミの弁当箱、色褪せた一枚の写真が入っていた。
どれも今日、別々の列車で見つかったものだった。
三件とも家族から問い合わせがあり、持ち主はすぐに分かった。ところが発見を知らせると、三人とも同じ返事をした。
「処分してください」
品物の本当の持ち主は、すでに亡くなっていた。
遺品を運ぶ途中、列車へ置き忘れたらしい。
私は三枚の忘れ物票に「引き取り辞退」と書いた。日付欄には、同じ「八月十五日」が並んでいた。
午前零時。
日付が変わった瞬間、誰もいない事務室で女の人の声がした。
「捨てないでください」
顔を上げても、窓口の向こうには暗い待合室しかない。
もう一度。今度は男の人と、かすれた年寄りの声が重なった。
「この三つを、家族のところへ返してください」
保管棚の扉が、内側から押されたように開いた。
赤いレシピ帳が床へ落ち、ひとりでにページをめくって、最後の一枚で止まった。
そこには、もう二度と見ることはないと思っていた名前があった。
――高瀬澄江さんに教わった、汐見駅の味噌汁。
レシピ帳の最後のページには、私の母の名前が書かれていた。
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