三年ぶりの弟子に、私はけんちん汁を作った
「お届け物です。先週の便に紛れていたそうで」
協力会社の運転手が、ひどくくたびれた紙袋を作業台へ置いた。
持ち手は透明テープで何度も巻かれ、底には乾いた泥がこびりついている。
先週、同じトラックで運んだ三軒のうち、どこかの忘れ物らしい。
事務員が留守番電話を入れていたが、誰も引き取りには来なかった。
中身を勝手に確かめるわけにもいかない。
捨てることもできない。
そういうものは、長く置いておくと、こちらが捨てられたような気分になる。
「これ、どうします」
新田が尋ねた。
三年ぶりに営業所へ戻ってきた、かつての私の弟子だった。
前の所長が退職し、新しい所長が経験者を募集した。それを見て、新田は自分で応募してきたらしい。
私は理由を聞けずにいた。
戻ってきてほしかったのかと問われれば、そうだった。
だが実際に戻ってくると、どんな顔をすればよいのか分からなかった。
彼の胸には白いテープの名札が貼られ、黒いペンで「新田」と書かれていた。
昔の正式な名札は、私の机の一番下に隠してあった。
名前を黒く塗り潰したまま。
*
夕方、営業所の電気が落ちた。
収穫を終えた田畑の向こうで、風に折れた枝が電線へ触れたという。
復旧予定は午後七時。
事務所のパソコンも電話も使えず、積み込みの指示書を確認できなかった。
「三軒とも、場所は覚えています」
新田が窓の外を見た。
「歩いて回りませんか。電気が戻るまで」
営業車はすべて出払っていた。
私は紙袋を持ち上げた。
持ち手が、古い指の傷へ食い込んだ。
休憩室のカセットコンロでは、やかんが鳴っていた。
その横には、今朝作ってきたけんちん汁の鍋があった。
新田が戻ってから、私は毎日少し多めに作っていた。
だが、勧められなかった。
三年前の最後の日、彼が一口も食べなかったからである。
嫌いなのだと思っていた。
もっとも、それは大変に便利な思い込みだった。
嫌われたことにしておけば、私が彼を傷つけた事実を見なくて済む。
私はそういう卑怯を、思いやりと呼ぶ癖があった。
*
一軒目でも、二軒目でも、紙袋の持ち主は見つからなかった。
三軒目へ向かうには、昔の資材置き場の前を通らなければならない。
錆びたシャッター。
割れた黄色い植木鉢。
外壁には、私が新田へ初めてロープの結び方を教えたときの釘が残っていた。
その先の用水路には、二人で腰を下ろして昼飯を食べたコンクリートの段差もあった。
「三年前の箪笥、覚えているか」
私は立ち止まった。
新田は紙袋を見たまま頷いた。
「あれを傷つけたのは、お前じゃない。高瀬さんの積み方が悪かった」
高瀬さんは、私の師匠だった。
家具を見ただけで重心を読み、狭い階段でも壁に触れず運び出す人だった。
私は、あの人のようになりたかった。
だから、仕事ができる人は人間としても正しいのだと、勝手に信じていた。
「高瀬さんは、お前の名前で始末書を書かせ、弁償させるつもりだった。お前の注意を無視して積んだのに」
「それで、俺に向いていないと言ったんですか」
乾いた稲藁が、新田の靴の下で折れた。
「俺が自分の名前で始末書を書いた。弁償もした。それで済むと思った。お前には何も知らせず、ここから離したほうが傷つかないと」
「守ったつもりだった」
新田が静かに言った。
責める口調ではなかった。
そのことが、かえって痛かった。
「違う。俺は高瀬さんを悪い人にしたくなかっただけだ。憧れた自分まで否定される気がして、お前に全部かぶせて逃げた」
口にした途端、私の中に長く立っていた高瀬さんの立派な像が、音もなく倒れた。
だが、その下から出てきたのは師匠の醜さだけではなかった。
何も説明せず弟子を追い出した、私自身の姿だった。
新田は、切れかけた紙袋の持ち手へ新しいテープを巻いた。
「俺、あのけんちん汁、嫌いじゃありません」
「一口も食べなかっただろ」
「食べる前に、もう来るなと言われましたから」
風が刈り終えた田を渡り、二人の作業着を冷たく揺らした。
「向こうへ行ってから、自分でも作っていました。あんたがごぼうを炒める順番を見ていたから」
「なぜ作った」
「味を忘れたら、ここで大事にされたことまで、全部嘘になる気がしたんです」
私は返事ができなかった。
遠くで、あのやかんが鳴っているような気がした。
*
三軒目でも、紙袋の持ち主は分からなかった。
私たちは、忘れ物を持ったまま営業所へ戻った。
電気はまだ消えていた。
私はカセットコンロに火をつけ、けんちん汁を温めた。
やがて、やかんがもう一度鳴った。
暗闇の中で、湯気だけが白かった。
新田は差し出された椀を両手で包み、一口すすった。
「少し、しょっぱくなりましたね」
「歳を取ると、味まで意地を張るらしい」
新田が小さく笑った。
これで許されたとは思わない。
三年は、汁物の湯気ほど簡単には消えない。
それでも私は、彼が帰る前に尋ねた。
「明日、予定はあるか」
新田の箸が止まった。
「仕事なら、来ます」
「仕事のあとだ。今度は、お前のけんちん汁を食わせてくれ」
しばらくして、彼は頷いた。
「ごぼう、多めでいいですか」
「ああ。そのほうがいい」
*
七時十二分、天井の蛍光灯がついた。
私は机の一番下から、古い名札を取り出した。
「失くしたと言ったが、これも嘘だ」
アルコールを布へ染み込ませ、黒く塗り潰した部分を拭いた。
何度も擦ると、薄い傷の下から「新田修司」という文字が現れた。
新品のようには戻らなかった。
新田も、それを求めてはいないようだった。
私は仮のテープを剥がし、消していた名前を名札へ戻した。
棚の隅では、持ち主の分からない紙袋が立っていた。
傷んだ持ち手には、新しい透明テープが巻かれていた。
