(377) 伊原康隆/藤原辰史「学ぶとは―数学と歴史学の対話」
こんにちは。
暑さ寒さも彼岸まで。その通りに少し暑さが和らいだようです。皆さまお変わりありませんか?
空を見上げると、青空が高くなる一方で雲の形状が変わり流れも速くなってきているように感じます。台風がまたまた列島に傷跡を残しています。自然が凶暴さを増して、人間への敵意をむき出しにしているのではないかと思ってしまいます。被災された方々、地域に支援の手が行き届き、生活再建が速やかになされるよう願うものです。
季節の変わり目です。どうぞお体に気を付けてお過ごしください。
さて、今回の書評は数学者と歴史学者という異分野の研究者同士の交換書簡です。見事な程話がかみ合い、いつもの事ながら学識の深さと、文章の見事さに感動します。
伊原康隆/藤原辰史「学ぶとは―数学と歴史学の対話」ミシマ社 2025年
文章での対話は思索が深まる。理系文系の違いを超えて、学問への誠実さと緻密さの視線が紙背を徹するからである。学びへの接近に違いがなく、その共同を「縁学」と名付けている。簡単にわかった気にならないこと、多言語の性格と文化性から学ぶべきであること、他国研究者との交流と翻訳ニュアンスの微妙さ更にAIの限界にも話が及ぶ。そこには、互いの見識への敬意に満ちている。学ぶとは、隘路急坂に挑む気概の中にありそうだ。
<今月の本棚>
名越健郎「秘密資金の戦後政党史―米露公文書に刻まれた「依存」の系譜」新潮選書 2019年
政治と金にはうさん臭さが付きまとうのであろうか。戦後発足した自民党(その前身も含む)は成立以来米国資金に支えられてきた。公文書公開制度を活用して、著者は丹念に金の動きを探る。入手した文書から明らかになったのは自民党実力者たちが臆面もなく米国に金を無心し、大使館やCIAを通じて多額の資金を受けとっていた事実である。一方の野党はどうであったか。当時のソ連中国はコミンフォルムを通じて世界の共産党・社会主義政党を支援していた。日本共産党も一時期特定幹部が窓口になって資金援助を受けていたという。両国と対立関係になってその流れは断ち切られ、関係幹部は処分された。社会党はソ連に接近してソ連崩壊まで援助を受けていたことが文書に残っていた。日本の政党政治が成熟しないのは、こんな歴史もあるからなのだろうか。
バスティアン・ハイン「ナチ親衛隊(SS)―「政治的エリート」たちの歴史と犯罪」中公新書 2024年
おぞましさに暫し瞑目。ヒトラーの護衛として発足した親衛隊は同類の突撃隊を圧倒し、党内の実力部隊となる。党内警察から国内警察力の一翼となり暴力性残虐性を発揮し、武装親衛隊なる軍隊さえ保持する。ユダヤ人排斥の先頭に立ち、絶滅作戦の実行部隊であった。戦後少なからぬ隊員は前歴を消してドイツ国内で枢要な地位を占めた。日本の戦後処理は曖昧であったが、ドイツでさえ徹底できなかったのであろうか。
三浦英之「1945 最後の秘密」集英社 2025年
戦後80年、兵役に就いた人、空襲体験者や銃後の国民を含め戦争体験者はもはや稀となった。その次の世代である幼時・少年期に戦時を体験した人も年齢を重ね、私ども戦後すぐに生まれた世代は後期高齢者となった。戦争を実際を語れる人の証言は貴重である。何も語らず墓場まで持って行った人も少なからずいたであろう。著者はわずかな手掛かりと伝手を辿って、証言を聞き取り記事にしてきた。本書には火葬の煙になる直前の体験談が記録されている。日本海軍潜水艦がアフリカのマダガスカルを攻撃したという話は初耳で、すべて興味深いのだが「一〇一歳からの手紙」を紹介しよう。
満洲建国大学の1期生で満州国官僚だった先川氏は、死の直前の手紙で満州国とアヘンの関係を明かした。敗戦後日本に持ち帰ろうと陰の系譜をひく機関が動き、察知した米軍機関がそれを押さえた。ところが途中で大量のアヘンは消えた。謀略機関の活動資金は多くの場合、麻薬がらみの金で動いている。想像するに占領軍の機関と旧軍関係機関の合作であったのかもしれない。ここで明かされる日本人に岸信介の名前が出てくる。まさに昭和の妖怪である。
井上隆史「大江健三郎論―怪物作家の「本当ノ事」」光文社新書 2024年
やはり自分には大江は無理だ。この本に突き当たってそう確信した。学生時代に友人が大江本を貸してくれた。確か「芽むしり仔撃ち」だったと思う。1/3ほど読んで放り出した。持って回った表現と晦渋さ、何かに仮託しているのだろうが、当時の自分には(今でも)理解が不能で、読み続ける気力を失った。その後、新聞雑誌に載る評論、コラムなどは読み、気になる存在ではあった。カズオ・イシグロには惹かれるのだが、大江と村上には手が出ないのが本音である。本書はノーベル賞作家の実像は如何に、狙いは何処にと解き明かす。おそらく大江論としては傑出しているのだろう。
読売新聞経済部「JRは生まれ変われるか―国鉄改革の功罪」中央公論新社 2023年
国鉄が分割民営化されて38年、JRという名の民間会社になった。スマートでサービスが良く、利便性に満ちた私鉄会社として親しまれているように見える。今国鉄と言ってもピンとこない人の方が多い。
私の中では今でも国鉄が列車を走らせ、青函連絡船が運航されている。不愛想で横柄、乗客サービス精神に欠け、時々ストを打ち列車を止める。でも国鉄に郷愁を感じている。
夜行列車で郷里の駅を発し函館で連絡船に乗り、青森駅で再び上野行きの夜行急行に乗り換える。上野駅から新しい生活が始まる。その想い出はいつまでも頭の片隅に残っている。
国鉄の宿痾と天文学的な負債が、分割民営化で解決すると喧伝されてのJR各社。その現在地と抱えている課題を記者たちが追った。人口減による地方不採算線の廃止、生活感の変化、流通対応などの課題が浮き彫りになる。鉄道事業の採算性の低さと、公共性のはざまでの苦吟が語られる。取材はかなり突っ込んでいる。国鉄懐旧者からするとまだ上辺を撫でたような気がする。
分割民営化の陰での中曽根らの政治的思惑、内部で民営化を主導した国鉄エリート官僚(葛西ら3人組)が要職につき財界人に変身する。一方では先鋭的労働運動敵視政策など負の部分の取材は避けられているように感じる。読売的な限界であるのかもしれない。
保阪正康/白井聡「「戦後」の終焉―80年目の国家論」朝日新書 2025年
戦後80年、いろいろな立場、視点から語られ映像化されている。政治学者との対話での本書で興味深く読んだのは、石原莞爾への評価である。
毀誉褒貶、実に複雑な陰影を備えたエリート軍人である。満州事変の首謀者で、満州国建設の立役者でもある。保阪は彼が正しいとはしないが、世界に対して日本がどの立ち位置をとるかという点で、独自の観点を持っていたと評している。
石原は帝国主義列強のトーナメント戦で潰しあい、最後にアメリカと日本が覇権を争うだろうと予見した。しかし、その壮大な構想も実力不足で瓦解してしまった。
もう一点、日清戦争以来の天皇の開戦詔書の違いを読み解くのは、こんな見方もあるのかと興味をひかれた。戦後が危うい昨今、歴史を紐解き明日を見るには格好の対談である。
高野秀行「酒を主食とする人々―エチオピアの科学的秘境を旅する」本の雑誌社 2025年
エチオピアの奥地に酒を主食とする部族があると聞いた冒険家が、テレビクルーとともにその実在と生活を探る。食と生活の奇矯さを売り物にするテレビ番組を散見する。興味本位やヤラセが少なからず目につく。今回の旅は実体験のようであり、かなりの困難と苦難、更には現地ぐるみのヤラセを排しての取材であったようだ。
紆余曲折を経て住み込んだ村では、確かに子どもから大人まで作物で発酵させたアルコール飲料を飲み、固形物はほとんど食べない。健康上の問題はなく、栄養も取れているようであった。米食民族の日本人には不可解である。
村に滞在した冒険家たちは虫に悩まされる。衣服、荷物に潜んだ虫や微生物は彼らと一緒に入国する。帰宅しても虫に刺され、かゆみに悩まされたという。耐性のない我が国に蔓延するのではないのか。かくして外来生物・微生物は拡散していく。
【長月雑感】
▼ ふと友人のN尾君の顔が浮かんだ。前掲の「1945 最後の秘密」第5章『東光丸の悲劇』を読み終わった時だった。
戦争末期の1945年4月、八丈島からの避難民を乗せた東光丸は出港直後米国潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈された。149名が犠牲になったこの事件の顛末を、護衛の海防艦乗組員が語っている。この章で思い浮かんだのは、玉音放送後の8月22日、樺太からの引揚げ船3隻が留萌沖でソ連潜水艦の攻撃を受け、1708名が犠牲になった事件を掘り起こしたのがN尾君の「海わたる聲」(柏艪舎)であった。こうした悲劇は各所であったに違いない。そのすべてが調査され、記録されているとは限らない。むしろ意図的か否かは別にして、そっとしておく力が働いたのに違いない。戦争とは斯くも安易に武器を使用し人を殺すのである。死者は単なる数字であってはいけない。やりきれない。
尚、樺太と千島列島では8月15日のポツダム宣言受諾後も、9月2日の降伏文書調印後もソ連軍の攻撃は続いていたのだ。スターリンの領土的野心なのだろう。スターリンは北海道北半分(釧路と留萌を結ぶ線の北側)の占領を求めていた。もしそうなっていたら自分に故郷はないことになってしまう。腹立たしい。
▼ 近くの田んぼでは刈り入れが始まっている。頭を垂れた稲穂は機械で綺麗に刈り取られ田んぼが広く見え、まだ刈り取られていないところと耕作放棄地が目立っている。水不足の地があり、一方では豪雨による冠水の田んぼもあり、出来が気になる。農水省の今年の米は十分だとする見方に疑問符?出回り始めた新米の価格は5㎏5千円近く、手が出にくい。瑞穂の国はどこに行くのだろう。
▼ 何度ワシントン詣でをするのだろう。アカザワ大臣は関税率15%を大統領令として発出してもらったとご満悦。日本からの投資に関しても、その具体的内容を文章化して調印した。すべてトランプ大王の思いのままではないのか。そもそも論からして、関税を一方的に課すのは不当である。また80兆円に上る対米投資の運用はトランプが差配するとか。こうして日本の国富は収奪され、国民は不幸になっていく。いつまで屈従し続けるのだろうか。イシバおろしなどの党内抗争をしている暇などないはずだが。総裁選立候補者5人には、この現実と向き合おうとする姿勢は見えない。
▼ ガザの惨状に心痛む。ネタニヤフらシオニストと背後のアメリカは住民の生死など歯牙にもかけていない。更に停戦交渉の仲介役で隣国のカタールの首都にまで攻撃の刃を向ける。無法者である。誰がここまで増長させたのか。戦争犯罪人ではないのか。東京裁判で平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪で東条ら戦犯を裁いた。これらの罪はそっくりイスラエルの指導者とアメリカの戦争協力者に該当するのではないのか。
歴史的経緯を踏まえ平和憲法(非軍事憲法)を持つ日本は、積極的にこの問題(平和回復)に対して関与すべきと思う。トランプの国連での演説、聞くに堪えない自画自賛とイスラエル擁護。この人は廉恥心というものとは無縁だ。国連の機能不全を招いたのは常任理事国であるアメリカとロシアにあるのではないのか。落日の超大国はただの帝国になっていく。
☆徘徊老人日誌☆
8月某日 近くのセレモニーホール主催の終活セミナーに参加。興味本位なのだが、馬齢を重ねているのでそろそろ真剣に考えなくてはとも思った次第。説明によると火葬場がひっ迫していて、葬儀は遅れがちとのこと。
エンディングノートをいただいた。ウーン、莫大な資産はないし、一子相伝の秘密も、残すほどの教訓もない。何を書こうか。M資金の秘密でも書いておこうか。
9月某日 散髪に行く。強い日差しを避ける為、日傘をさして近くの床屋さんへ。大きな鏡の前に座ると、どこの老人かと思う姿にドッキリ。筑波山のガマガエルの心境。伸びた髪を切り、ひげを当たってもらいさっぱりした。早くて安いチェーンの理容店ではなく昔風の床屋さんで、店主と世間話をする方が落ち着く。
9月某日 暑さがやや落ち着いたある日、梨を買おうと思い立ち国道254号を神川町に車を進める。コロナ禍の前には毎年梨を買い、郷里の母に送ったり、自宅でそのみずみずしさを味わったものだ。
訪れた彼の地は様変わりしていて、疑問符を頭の片隅に感じながら雰囲気の変わった馴染みの店に車を止める。しかし、梨は置いていないし人も違う。店番の人に聞くと、以前の人は農園をやめてしまい、この店は借りているという。結局そこではブドウを買い、他の店で梨を入手した。何とも時の流れを実感した一日だった。
9月某日 西入間警察暑に出頭。と言っても容疑者ではない、免許更新に伴う認知機能検査の指定日だ。費用支払いは現金不可、カードもしくはQRコード決済に限られるという。1,050円也をカード払いにする。
隣の人が「かざすことのできるカードですか?」と問われていた。「中には暗証番号がわからない人がいるから」という。どうも老人は疑念を持たれているらしい。
指定された席に座るとタブレットとヘッドフォンが用意されている。出題はヘッドフォンから、回答はタブレットだ。あのペンは書きにくい。最初の画面には4頁各4枚、計16枚の絵が示される。次に数字がランダムに数行並ぶ中から指定の数字を消していく。次に、前の絵には何があったかを書き込みなさいと指示される。考え考え書いているとすぐに時間切れ。次にはその絵についてのヒントが示され、再度思い起こすようにとのこと。書いているうちに、もう合格だから室外に出るようにと促される。一定の点数に達すると合格らしい。
検査終了。「認知症のおそれには該当しない」との埼玉県公安委員会名の証明書を受け取り、一件落着。後日運転技能検査があるとのこと。どこかの教習所が指定されるようだ。徘徊老人の更新までの道は長い。
🚗ヨロヨロ旅日記🚢
年に一度の郷里の墓参りの旅、性懲りもなく車で行こうと圏央道に乗り入れる。東北道へと車を走らせる。
那須塩原に居を構える息子夫婦に荷物を届けるため、千本松牧場で落ち合う。美味しいソフトクリームを味わい、エネルギーを補給し再び高速へ。今度は二本松城址に寄り、石垣を仰ぎつつ曲輪を歩き戊辰戦争の面影を辿る。
暫し過ぎにし歴史に浸った後、本日の目的地仙台港フェリーターミナルに向かう。早めの到着。スマホに届いたばかりの予約済みQRコードをターミナルのコンピュータにかざすと、車の行き先を表示する紙と船室鍵となるQRコードの用紙が出てくる。数年前とは違うIT時代を実感する。太平洋フェリーに身を委ね、海路苫小牧へ。
翌朝11時、苫小牧港接岸。釧路へはどの道にしようか迷う。海岸沿いに浦河方面に向かい、平取町を経て日勝峠を越え、十勝清水インターチェンジから道東自動車道に入ろうか。それとも追分町インターチェンジから道東自動車道を利用しようか。後者を選んだのが正解だった。追分の手前で道の駅「あびらⅮ51ステーション」の看板と遭遇。鉄道マニア(国鉄ファン)としては見逃せない。もちろん急停車、先を急ぐはずなのに…。
追分町は、北海道有数の機関区が置かれ、夕張をはじめ石狩炭田の石炭列車を運用する鉄道の街だった。道の駅構内には当時石炭列車を牽引した「D51 320号機」が保存展示されている。車庫に収められ手入れが行き届いて往時の面影を伝えていた。そばで見るとその巨大さと力感が迫ってくる。長大な石炭列車を牽引して力走していた現役当時の姿が目に浮かぶ。
もっと嬉しかったのは、ディーゼル特急「おおぞら」の先頭車両が展示されていたこと。その行先表示板には釧路行きの文字。心躍るものがあった。もしかしたら昔これに乗ったのかもしれない。惜しいのは屋外展示で屋根がないこと、雨ざらしは傷みが早い。Ⅾ51並みに車庫に収容してほしい。
青春の思い出を胸に追分町インターチェンジへ。道東道は1車線区間が多く対面通行部分もあり、慎重に走る。前後に車影なき時、うっそうと茂る木立に目を休め、エゾ松かトド松かと家人と会話する。高速道路は何時しか釧路の先まで伸びていた。
予定より早めの夕方到着。友人宅に顔を出し、宿にチェックイン。夜は迎えに来てくれた友人夫婦の案内でライトアップされた幣舞橋を眺めて川風に吹かれ、寿司屋にて海の幸をつまみつつジョッキを傾け、一別以来の日々を語る。サンマの握り、ホッキの握りなど郷里の味を堪能する。
3日目 駅前の花屋に寄り仏花一対を買う。両親の墓参りだ。霊園の事務所で線香を購入、着火を依頼するとライターかマッチを買えとのこと。商魂のたくましさに唖然とする。墓前に花を供え線香を手向けて、手を合わせ会話する。阿寒の山々を望むお墓に眠る父母は何を思っているのだろうか。暫し祈って、「また来年」と別れを告げる。来年も元気で来られるようにしなくては。
午前中の予定はK山先生宅訪問。一回り年長で高校大学の先輩に当たり、40年来のお付き合いになる。ご夫妻が待っていてくれた。お二人ともお元気な様子に安心する。時々お薦めしてくれる本の話、停滞する地方都市の苦悩、そしてお決まりの健康の話など大いに語り合う。地元公立大学で英米文学の講義をされている頭脳の冴えは以前のまま。ニューヨークタイムスを読みこなしての、アメリカの混乱とトランプ評価はホットである。昼になり、お暇をする。健康でまた会いましょうと約してお別れをする。
午後の予定は先に逝った親友S藤君の墓参り。市内の墓地でH部夫妻と落ち合い、墓前に額づく。60代とは早すぎる別れだった。商才があり、立派な仕事をしていた。クールでありながら友情に熱いよき友だった。太平洋からの風が吹き上げる高台で眠る友に別れを告げる。4人で地元資本の大型書店に行く。併設の喫茶室で熱いコーヒーをすすり、本を物色。2冊ほど購入。貴重な書店なので必ず買うことにしている。
夜はH部宅での食事会。お膳の上には心づくしの山海珍味が所狭しと並ぶ。そこへI田夫妻が登場。持参の籠から次々と取り出すのはカセットコンロ、タコ焼き器、ビールなどまるでイリュージョンのような手際で卓上を埋めていく。老壮取り混ぜ計6人で宴会になる。I田妻は友人S藤君の長女で親の血をひいてなかなかの女丈夫、夫君はITに強く包容力のある人物、noteの差配では私が頼り切っている。二人協力して事業を営んでいる。実はH部夫妻も経営の才と意欲にあふれた自営業者である。そんな3組の夫婦が語り呑み笑う。親子兄弟姉妹ともつかぬ、不思議な関係で漫才ならぬウイットに富んだやり取りには笑いが止まらず、涙が出るほど。身のびっしり入ったタラバガニを食べたのは十年ぶりだろうか。I田夫妻が一式持参してくれたタコ焼き機で焼き上げたタコ焼きもまた美味。サッポロクラシックとワインが空いていく。満漢全席も斯くやと思われる豪華で、懐かしき釧路の人と味に親しんだ夜だった。若い頃のようにたくさん食べられないのが残念。
4日目 午前中にコインランドリーへ、旅行中の衣類を洗濯する。お土産を買いに駅前へ、娘と孫に頼まれたものもあって買い込む。駅前のさびれた様子に悲しむ。
午後H部夫妻の好意で厚岸方面をドライブする。霧多布湿原に回ってもらう。高台の琵琶瀬展望台からの眺望は雄大、前に太平洋を望み、背後では霧多布湿原が広がる絶景。初夏であれば海岸沿いにはエゾカンゾウの黄色が湿原を染めて見事なもの。ロマンチックな地名の霧多布(浜中町)は65年前の1960年、チリ沖を震源とする地震によって発生した津波によって壊滅的な被害を受けていた。湿原センターに寄ってから厚岸に車を進め、道の駅「コンキリエ」で特産の牡蠣を味わう。大ぶりな牡蠣を、焼き牡蠣、牡蠣フライ、カレー、それぞれの味に舌鼓。こうして道東美味道楽の夜は更けていく。
5日目 もう帰宅の日だ。7:40、宿を出て国道38号を走る。高速ではなく、久しぶりに海岸にそって国道を行こうと思う。白糠町道の駅「恋問館」は新装なって面目一新、洒落た名前にふさわしい施設になっていた。広い駐車場には道外ナンバーが多数停車し、キャンピングカーの姿も目立つ。浦幌、帯広を通過して11時頃に十勝清水インターチェンジから道東自動車道に乗り入れる。ここまではほぼ目論見通り。
休み休み道を辿り14:40頃に小樽着。様子を承知の市内をスーパーに向かうのだが、例の観光名所、運河近辺には客があふれツアーバスが行きかっていた。
手宮近くのスーパーで今夜の食料を調達。フェリー埠頭に行くとすでに待機場は満車状態。16時集合、17時出航なのに何と早いことか。すでにメールで受け取っていたQRコードですべて済む運びになっている。
ほどなく乗船指示がありスロープを渡り船内に、誘導に従い所定の場所に停車する。乗船ロビーには柔らかなBGMが流れていたが、それはピアノの生演奏だった。出航まで演奏してくれたのはピアノとトランペットのデュオ。珍しい組み合わせの女性二人であった。フェリー会社と同じグループの市内高級ホテルの社員だそうな。出航前に下船したこの奏者は岸壁からトランペットで送るという、素敵な演出をしてくれた。センチメンタルになりがちな船での別れが一層劇的になり、印象的な出航であった。
夜8時からもイベントが設定されていた。今度は中年夫婦の組み合わせで、ギターとピンホイッスル(?)の組み合わせ。演奏と歌で構成され、「北の国から」、松山千春の「大空と大地の中で」で締め括ってくれた。船の揺れと風呂の揺れが緊張をほぐし、クラシックビールでのどを潤して眠りについた。
6日目 定刻9:15着岸。新潟は曇天だった。北陸道~関越道と通いなれたる道を運転する。塩沢石打あたりから雲行きが怪しく湯沢、関越トンネル前後は強雨になってしまう。谷川岳PAで一休み。バイク族のひと群れが雨を避けていた。その後は順調、上里SAで峠の釜めしを買い、14:30には帰宅した。車を自宅車庫に入れる、オドメーターは1401.4㎞を表示していた。旅の終わりは秋の風が吹いていた。
朝晩は長袖で丁度良いほどの気候になってきました。暑すぎる夏、短めの秋、そして高騰したままの米。今年の冬はどんな景色を見せてくれるのでしょう。
コオロギの鳴き声が聞こえています。どうぞお元気で秋の虫の音を楽しんでください。
