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【劇評371】本多劇場の裸舞台から立ち上がる奇妙な夢。はえぎわの秀作『幸子というんだほんとはね』の投げかける問い。

 本多劇場の裸舞台から劇は立ち上がる。

 ノゾエ征爾作・演出の『幸子というんだほんとはね』は、ノゾエが主宰する「はえぎわ」の二十五周年本公演で、第三十五回下北沢演劇祭の参加作品である。こうした位置づけを考えると、登場人物たちが、案内人(町田水城)に導かれて劇場のバックステージツアーに参加している冒頭が、興味深く思えた。

 一九八二年、唐十郎作、小林勝也演出による『秘密の花園』で開場したこの劇場の歴史が懐かしく思い出された。
 けれども、そんな感傷を打ち破るように、この劇は、劇場のある下北沢へと視点を移していく。そればかりではない。参加者の噂話は、この町のどこかにいる「怖ろしの幸子」の話へと、滑り出していく。一度、幸子と手を繋いだら、手が離れなくなる。しかも幸子は一人だけはないというのだ。


撮影 梅澤美幸 サムネールも



 導入部から一転して、婦人(高田聖子)と青年(串田十二夜)のコントのようなやりとりへと移る。ふたりの手は繋がれているが、手が開かない。繋がった手は離せない。この極めて具体的な現実に、どのような寓話がこめられているのか、幸子ならぬ婦人には、どんな過去があって現在へと至っているのか。先の案内人は、主夫(町田)へと変わって、銃で撃たれているにもかかわらず、労働者本山(山本圭祐)と労働者猫島(鳥嶋明)には救急車さえ呼んでもらえないやりとりへと転じていく。

 このふたつのシークエンスをとっても、実は深刻なシチュエーションにもかかわらず、ノゾエの作と演出は、巧みな笑いへと観客を導いていく。「コント」の連鎖と思えるのは、軽みのある笑いが各所にちりばめられているからだ。

 締め切りを守らない絵本作家笹木(笠木泉)と保身ばかり考えている編集者・サシバ(柴田鷹雄)。拾ったノートの指示のままに動く女・あい(踊り子あり)と理不尽な要求に従う人・寿野昌平(東野亮平)の不可解な関係。婦人を追っているふたりは、警察手帳を示すが、青年の知り合いだとわかる。滝口(竹口龍茶)と鳥皮(富川一人)は、偽物の匂いを漂わせる。さらに、社会生活で致命的な傷を負った山男(ノゾエ征爾)は、無骨な渕山崑太(山口航太)に庇護され、車で旅に出る。
 いずれも、基本的にはふたりのペアの会話、もしくは三人の会話で劇は進んで行くが、なにかただならぬ時空の裂け目が、この劇にはあるように思えてきた。

 『幸子というんだほんとはね』を私は奇妙な秀作だと思う。奇妙といったのは、並列的なエピソードが、やがて笹木の「幸せって何ですか?」という問いに回収されていく。この問いは、きわめて、真っ直ぐだ。訊ねる方も、答える方も気恥ずかしくなるような問いにもかわらず、私はこの劇に引き込まれていった。それは、登場する人物たちが、例外なく癒しがたい傷を負っており、「幸せ」をこの手につかもうと懸命になっているからだ。

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