「学び続ける」を掲げる組織は多い。
しかし、本当に難しいのは、新しいことを学ぶことではない。
古くなった成功体験を捨てることである。

失敗すれば、その方法は疑われる。
しかし成功すれば、方法だけでなく、その背後にあった前提まで正しかったと思い込まれる。
実際には、偶然、外部環境、相手側の誤りに助けられただけかもしれない。
失敗の経験より、成功の経験の方が危険なことすらあるのだ。

真珠湾攻撃は、奇襲こそ成功したが、米国の戦意を失わせ、短期講和への条件をつくるという戦略的成果にはつながらなかった。
むしろ攻撃は米国を結束させ、全面的な戦争動員へ向かわせた。

さらに、緒戦の成功は、日本側に戦略の正しさを確信させ、その後の冷静な情勢判断を難しくさせた。

個々の戦闘で成果を上げ、設定された指標を達成していても、それが国家の目的に結びついていなければ、全体としては失敗である。

失敗だけが誤りではない。
成功もまた、組織を誤らせるのだ。


選挙で議席を増やした。
SNSの閲覧数が伸びた。
法案を成立させた。
党員数が増えた。

いずれも重要な成果である。
しかし、それだけで組織の使命を果たしているとは限らない。

その成果が、どの目的に結びついたのか。
長期的な信頼や人材の蓄積を損なっていないか。
組織の判断力を高めたのか、それとも特定の個人への依存を強めただけなのか。
戦術的成果と戦略的成果を区別しなければならない。


そのために必要なのが、行動後の検証(AAR)である。

AARは、失敗した責任者を探す査問会ではない。

「誰が間違えたか」より先に、「私たちは何を前提としていたか」を問う。
当初の目的は何だったか。
実際には何が起きたか。
なぜ差が生じたか。
どの情報を見落としたか。
別の選択肢はあったか。
指揮官の意図は正しく伝わっていたか。
途中で環境が変わったとき、なぜ修正できなかったか。

結果が悪くても、当時得られた情報の範囲では合理的な判断だったかもしれない。
結果が良くても、判断過程には重大な欠陥があったかもしれない。

結果だけを見て賞罰を決めれば、組織は運と実力を区別できなくなる。


組織には、過去の成功によって形成された手順、評価の基準、人間関係、権限構造がある。
それらは一度成果を上げているため、簡単には否定できない。
環境が変わっても、「以前はこれで勝てた」という記憶が、組織の判断を拘束する。

ゆえに、学習には異論が必要である。
組織の中にいる異論者は、しばしば「協調性がない」「現実を知らない」「今はその話をする時期ではない」と扱われる。
しかし、全員が現在の前提を盲信していれば、その前提が崩れたとき、誰も別の道を示せない。

米海兵隊の知的改革は、司令官一人の発案だけで進んだのではない。
それ以前から問題意識を抱えていた中堅層が、組織の周縁で新しい考え方を練り上げていた。
改革が始まったとき、彼らの蓄積が制度化の土台になった。

異端者を常に正しいと考える必要はないが、異端的な仮説を、肩書や空気ではなく、証拠と論理によって検証できる場を残すことが重要である。


英雄的な指導者への依存には注意が必要である。
大胆なリーダーは、硬直した局面を動かす。
しかし、優れた個人の直感だけに依存すれば、その人が去った後に何も残らない。
成功は再現できず、失敗の振幅も大きくなる。

個人の洞察を、ドクトリン、教育、訓練、人事、教訓化の仕組みに移して初めて、改革は組織の能力になる。
そのためには、重大な意思決定や事業の後にAARを行うこと、既存の方針を疑うレッドチームを置くこと、少数意見を記録すること、定期的に「捨てるべき前提」を棚卸しすることが必要である。
人事においても、目の前の成果だけでなく、教訓を残したか、後進を育てたか、組織の前提を改善したかを評価しなければならない。

失敗しない組織をつくることはできない。
しかし、失敗を隠す組織と、失敗を知識に変える組織の差は大きい。
さらに大きいのは、昨日までの成功を、今日捨てられるかどうかの差である。
学び続けるだけでは足りない。
学んだことさえ疑い、必要なら捨て、新しい前提を組み立て直す。
その力を持つ組織こそが、自己革新できる組織である。

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