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丸鍋と唐揚げ。浅草・飯田屋の『一子相伝』のどぜう鍋に迎えられて|名店巡礼 #4

駒形を出た翌日、自分はまた浅草にいた。

同じ地区に、別の老舗がある。浅草寺と合羽橋道具街に挟まれた西浅草、つくばエクスプレスの駅からすぐの場所に。『飯田屋』。明治より浅草の地で、5代続くどぜう専門店だ。

前日の駒形での体験が脳裏に焼きついている中での来訪だった。正直に言えば、少しの不安があった。225年の格式と歴史の中で、自分の感覚がリセットされてしまった。はたして、別の流儀のどぜう屋にも、同じように敬意を払うことができるだろうか。

玄関をくぐると、飯田屋は駒形とは明らかに異なる雰囲気を放っていた。より素朴で、より庶民的。だが、その素朴さの中に、違う種類の深みがあることに、すぐに気づくことになった。

秋田から届く、「生きたまま」の素材へのこだわり

案内されたのは、暖簾をくぐってすぐの座敷。

仲居さんが、飯田屋のどぜうは秋田県から生きたまま輸送されてくるのだと説明をしてくれた。そして、店の裏にある井戸水で、何日もかけて泥を吐かせるのだという。「十分に泥を吐き出してから、鍋にする直前にさばくから、新鮮そのものなんです」。

この言葉だけで、ああ、と思った。

駒形は江戸という歴史の上に立ち、飯田屋は素材という現在形の上に立っている。同じどぜうという素材を扱いながら、その哲学は全く異なるのだ。

秋田の田んぼから、生きたまま東京へ。井戸水で何日もかけて泥を吐かせる。その時間と手間をかけるという選択は、素材への向き合い方において、等身大で、しかし妥協のない、そういう職人気質が感じられた。

自分も、この流儀に目を開かれるのだという予感がした。

どぜう鍋の優しさ

運ばれてきた鍋を見た。駒形と同じように、どぜうが並べられている。

どぜう丸鍋

鍋の上に、ネギをたっぷりと乗せていく。駒形と同じように、しこたま。ネギの緑が、鍋の中のどぜうを覆い隠していく。割り下がじわじわと沸き上がり、ネギがくたくたになっていくのを見守る。

駒形が「背伸びする客を迎えてくれる格式高い老舗」なら、飯田屋は「素材の状態を丁寧に見守る職人の愛情」を形にしているのだ。

ネギがしんなりと沈んだ頃合いで、どぜうを一尾引き上げる。七味を振りかけて、口に運んだ。

駒形との違いがすぐにわかった。素材の甘みがより素直に、より優しく引き出されている。割り下も、駒形の濃厚さから少し引いた、優しい甘辛さだ。

一子相伝で受け継がれた割り下——その言葉の重さが、この一口で伝わってきた。

唐揚げという冒険

続いて出されたのは、どぜうの唐揚げだった。

どぜうの唐揚げ

これもまた、驚きだった。

鍋の中でネギと割り下に包まれたどぜう。その食べ方に浸りきっていた自分にとって、揚げたどぜうは、全く別の食べ物に見えた。

揚げたどぜうは、小魚のから揚げのような形をしている。衣はキツネ色に揚がり、中身はふっくらとしている。一口かじると、衣の塩気とどぜうの香ばしさが一度に押し寄せてくる。

なるほどな、と思った。

同じ素材を、こんなにも違う角度から見ることができるのか。駒形で背伸びして辿り着いた「格式ある味」が全てではなく、こうした「素材の多面性を引き出す工夫」も、同じくらい尊い営みなのだ。

盛り合わせを見ると、唐揚げの隣には、ゴボウのささがきを揚げたものが置かれていた。そのゴボウの香ばしさと、どぜうの香ばしさが呼応する。一つのお皿の中で、複数の香りが重なり、それぞれが相手を引き立てるのだ。

唐揚げを齧りながら、お新香が運ばれてきた。白菜と大根の漬物。何気ない一皿だが、この塩気と酸味が、揚げたての香ばしさを完璧に引き立てている。

脇役の仕事が完璧だ。これもまた、明治から5代にわたって守られてきた経験と技がなければ、できない調和なのだろう。

卵焼きの中の職人技

さらに、卵焼きが出された。

卵焼き

これはもう、脇役というより、静寂の時間をくれる一皿だった。

厚焼き玉子。その中には、甘さと塩気のバランスが、これ以上ないほど完璧に調整されている。一切れ口に入れると、卵の芳醇さと、その中に隠された調理の時間と手間が感じられた。

駒形での茶碗蒸しと同じく、ここでも「間(ま)」というものが大切にされているのだ。濃厚な鍋のループから一度抜け出させ、客の感覚をリセットする。その機能を、卵焼きは静かに、しかし確かに果たしていた。

白味噌の中のどぜう——どぜう汁で両店を思う

そしていよいよ、最後の儀式だ。

どぜう汁が運ばれてきた。

どぜう汁

椀の蓋を開けると、白味噌のふくよかな香りが立ち上る。中には、小ぶりなどぜうが静かに沈んでいる。鍋の力強い甘辛さとは対極にある、味噌のまろやかなやさしさ。同じ素材が、まったく異なる表情を見せている。

駒形で飲んだそれと、根底にあるものは同じだ。白味噌の中にどぜうがいる、という構図。だが、一口飲んで、やはり違いがわかった。

飯田屋のどぜう汁は、素朴で、しかし深い。秋田から運ばれてきた新鮮などぜうが、白味噌の中で、その身体全てを惜しみなく差し出している。泥を何日もかけて吐かせた、あの丁寧な仕事の延長線上に、この一杯がある。

どちらが上か、そんな比較はナンセンスなのだと、この時点で理解していた。

駒形は225年の歴史の上に立ち、飯田屋は明治からの営みを守り続けている。どちらも、この浅草の地で、世代から世代へと継ぎ足されてきた老舗だ。その継ぎ足しの方法は異なるかもしれないが、「ここに来てくれるお客さんのために、毎日最高のものを出す」という矜持は全く変わらないのだろう。

どぜう汁を啜りながら、そのことに思い至った。

別の流儀への開眼

「ごちそうさまでした」

丁寧なお礼の言葉に見送られながら、夜の西浅草の街へ出る。

駒形では「背伸びして、格式の中に身を置く感覚」を体験した。飯田屋では「素材と職人の営みを、等身大で感じる実感」を得た。

江戸の奥行きというのは、こういうことなのかもしれない。一つの看板の下に、複数の流儀が存在し、それぞれが225年、130年と、時間をかけて積み重ねられてきた。その多様性と継続性の中に、初めて、本当の意味での江戸が見える。

明日からの日々も、また一つ、階段を登っていく。自分の人生に、江戸の多様性が刻まれた。そういう夜だった。

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