現代科学が見落としている「一次変数」の話

人間にはエネルギッシュな人とそうでない人がいる、ということは、誰しもなんとなく感じていると思います。それでいて、その違いを正面から説明する科学的な言葉を、私はまだ聞いたことがありません。

似たような健康診断の結果でも、片方は明らかに生気があって、片方はそうでもない。似たような環境で育った兄弟でも、生命力の濃さが違う。同じトレーニングをしても、伸びる人と伸びない人がいる。こういう違いを、私たちはなんとなく感じ取りながら生きています。でも、それを正面から説明できる科学の言葉を、私たちはまだ持っていません。

私は最近、これは個別の現象ではなく、もっと構造的な問題なんじゃないかと思うようになりました。つまり、現代科学が今扱っているのは、何かしらの「一次変数」から派生した二次的な影の方ばかりで、本体には手が届いていないんじゃないか、ということです。

たとえば医学の指標体系は、19世紀から20世紀にかけて、「病気を見つける」という目的のもとに発達してきました。だから血液検査も画像診断も、異常を検出することに最適化されている。全員が正常範囲に収まっている中での質的な差、つまり「健康な人同士の間にあるエネルギーの差」は、最初から測ろうとしていません。
これは医学の落ち度ではなく、目的が違うというだけの話です。ただ、その結果として、本当はそこに何かが流れているのかもしれないのに、それを掬い取る指標を私たちはまだ持っていない、という状況が生まれている。

そして、こういう「指標の外側にこぼれ落ちる何か」は、医学に限った話ではないと思っています。
心理学で説明されている性格特性も、結局はもっと深いところで動いている何かの表面に過ぎないかもしれない。教育や学習で測られている能力も、本当の知性の影に過ぎないかもしれない。経済指標が捉えている社会の動きも、本当の活力の二次的な反映に過ぎないかもしれない。

それぞれの分野で、私たちは「測れるものを測っている」だけで、「本当に効いている何か」には触れられていない可能性がある。

ここで一つ仮説を立ててみます。これら全部の上流に、まだ誰も特定していない一次変数があると仮定したらどうか、ということです。今測っている数値は全部、その本体から派生した二次的な指標。そう考えると、いろんな分野で「説明できない残差」と呼ばれているものが、実は同じ一つのものを別角度から見ていた可能性が出てくる。
古今東西の文化が「気」「プラーナ」「pneuma」「élan vital」のような、よく似た概念や直観を、互いに知らないまま独立に持ち続けてきたことも、この仮説の中では一つの傍証になります。これらは別々のものを指していたのではなく、同じ何かに、それぞれの文化が違う名前を付けただけかもしれません。オカルトの話に聞こえるかもしれないので、先回りして言っておきます。これはオカルトではないし、少なくともそうである必要はない。生命系には実際に「上流の駆動源」がいくつも存在します。覚醒系、概日リズムの中枢、エネルギー代謝の調節系。多数の下流を統合的に動かす一次調節点というのは、生物学の中で珍しい構造ではなく、生き物の設計に繰り返し現れる特徴です。だから「人間の活力にも未同定の上流の調節因子があるかもしれない」というのは、生物学的にそれほど突飛な仮定ではないと私は思っています。

それでも今この仮説が傍流に置かれているのは、たぶん科学の側の慣性です。今の指標体系で説明できる範囲を、無理にでもストレッチして説明しようとする圧力が働く。説明できない残差は、「測定誤差」や「個体差」という袋に押し込まれて、見なかったことにされる。

これは個人の怠慢ではなく、研究プログラムの構造的な性質なので、責める話ではないんですが、健全とも言いがたい。

私が言いたいのは、この可能性を否定する根拠も、今のところ十分にはない。だったら、問いを開いたままにしておく方が、より誠実な態度なんじゃないか。

そしてもし、いつか一次変数が誰かに発見されたら、医学だけでなく、心理学も教育論も、かなり書き換わることになるはずです。今行われている「最適化」の議論の多くは、後から振り返ると二次変数の最適化をめぐる議論に過ぎなかった、ということになるかもしれません。重要ではあったけれど、本丸ではなかった、と。

そういう日が本当に来るのかどうかは、正直、私にも分かりません。


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