【自伝1】始まりから間違っていた
私の怒涛の人生が始まったのは、昭和の終わり頃、古いしきたりが残るド田舎の兼業農家に、一人娘として誕生した時だった。
母はなかなか子供ができず、長年肩身の狭い思いをし、結婚六年目にようやく私を授かった時は、「やっとうちの味方ができた。」と思ったそうだ。しかし本来、親が子供の味方をするもので、子供が親の味方として育てられるなんて、そもそも始まりから間違っていたのだ。
元々この家は子宝に恵まれない家系で、祖母は子供を四人産んだが、下の弟と妹は海の事故で亡くなり、期待されていた長男は道端での不審死という亡くなり方をし、生き残ったのは次男である私の父だけであった。
祖母は唯一の跡取りとなった父の前でも、「子供がみんな死んでしもうておらんけん、もうどうでもええわ。」と口走ってしまうほど、度重なる不幸のせいで心が荒んでしまっていた。可哀想な人だ。
父は酔って親と喧嘩になると、「俺のことは息子とは思っとらんだろうが。」と声を荒げていたので、父も親の愛に飢えていた人だったのだろう。可哀想な人だ。
祖父は家族に全く関心がなく、家族をないがしろにしたまま、韓国に女遊びをしに行くような人だった。人の悪口は言わないが、自分の事ばかりで、人の気持ちなど解らない。家族にとっては居ても居なくても構わない存在だった。
祖父には妹が一人いるが、その人も嫁ぎ先での子宝には恵まれなかった。よってこの家の血を引く者は私一人、先祖代々の因果応報と、子孫を絶やさない重圧、親を看る責任、そして父方と母方からの負の連鎖は、私一人の肩に全部圧し掛かっていたのである。
こんな状況の家に嫁いで来た私の母もまた、心に大きな問題を抱えた可哀想な人だった。五人兄弟で四番目の母は、兄弟の中で自分だけが不細工だと言われて育った。どちらかと言えば男前の兄二人と、美人の姉と妹に囲まれて卑屈に育った母は、自分だけ橋の下から拾ってきた子だという冗談に本気で傷付いていた。「妹と一緒に他所の畑の西瓜を盗み食いした時も、父ちゃんはうちにだけ往復ビンタした。」「うちが十五の時に母ちゃんは出て行った。うちは母ちゃんに捨てられた。」「集団就職は自給四十二円。」「中卒で学歴も家柄もない。ないない尽くしで嫁に来た。」「母ちゃんが身売りしよったせいで、結婚する時も辛い思いした。」「うちはどうせ不細工やから。」等が口癖で、結婚しても嫁姑問題に夫婦喧嘩にと、派手に荒れ続けていた。
怒号が飛び交う日常が当たり前で、私は夫婦喧嘩をBGMにして平然と宿題をするような子供だった。自分のすぐ横に母の投げた引き出しが飛んできた事もあるし、時には窓ガラスが割れた事もあったし、暴力も当然のようにあった。でも機嫌の良い時は二人仲良くお酒を飲んでいるし、「喧嘩するほど仲が良いんや。」「うちら夫婦は喧嘩しなくなったら終わりや。」と聞かされていたから、これが両親の裏表の無いありのままの姿なんだと受け入れていた。
そして「お前は両親揃っとる。それだけで幸せなんや。感謝せい。」と決め付けてくる母には、甘える事はおろか、文句なんて言う事は不可能だった。可哀想な母の愚痴の聞き役になって、母の良き理解者になる事が、この家での自分の存在意義となってしまったのである。
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